SIDE OF   

 ハーブ調の清々しい透明感溢れる匂いが満ちていた。

 かーんかーんと、高く響く足音。左右上下、冷たい石が覆う廊下を歩いていた。ケルズたちが側溝から伸びている。その立派な様と美しき匂いは、見たこともないほどの輝きを放っているようだ。ぼんやり点々と廊下を照らす心許ないランプの明かり。その中で揺れる炎は、緑髪たちの影を踊らせる。

 一歩歩むたびに触れる緑銀の艶やかな髪。端麗な顔と、その中に光る憂いを帯びた灰の瞳。赤いベルベットのコートをなびかせ歩くしなやかな姿は、まさにロイド書に記された大天使フローベルだった。

 その隣を歩く腹の出た若い男――アイドは、その大天使に問う。


「なぜ、あの黒衣の男を見逃したのです? それにあの反抗的な赤毛の男……なぜ奴を気にかけるのです?」


 アイドはヴェルジュリアに入ってまだ半年の新人であった。ただし、親がヴェルジュリアの上級階級であったがため、かの大天使の傍に立つことが赦されている。それゆえに、大天使が赤毛を気にかける訳と、黒髪の男を見逃した訳を知らなかったのだ。

 大天使はその整った顔を苛立ちゆえ、僅かにゆがめた。


「言っただろう? 今回街に下りたのは、文明人の存在が誠であるか確かめるためだとね。

 アイド、君はもう少し組織の歴史を知るべきだよ。親のコネだけで入った未熟なものを歓迎するほど、本来僕らは優しくないのだからね」

「す、すみません!」


 声の大きなアイドの謝罪は廊下一帯に響き渡った。反響して耳に残る声に、一層大天使は苛立っていた。前髪を乱暴にかき上げ、ため息をつく。


「分かった、もういい。

 あの赤毛の者はね、本来は、僕と同じ、高潔な我らが主の血を流すものなのだよ。だから悪魔を嫌うのは天命なんだ。まぁ、あの様子を見てわかるように、堕天したのだがね」

「堕天……! 主の血を引くものが、親たる神に背くというのですか!? 恐ろしい……では一体なぜ、堕天したものをみすみす見逃すのです? さっさと処罰しては……」

「静まりたまえよ。君はもうちょっと落ち着きを持つべきだ。それと、資料を読むこと。

 堕天したとしても、本人はそれに気づいていない。哀れな迷い子だ。迷える者は主の名によって導かなければならない。そうだろう?」

「なら、捕らえて洗礼を受けさせる方が手っ取り早いのではないのでしょうか?」

「はぁ……本当に君には呆れるね。なら、君がひとりで行ってはどうかな? もっとも、骸になって深淵に取り残されるのは、火を見るより明らかだけど。仮に君が何らかのあくどい方法で彼を捕らえたとしても、痛手を負うのは君たちだけだ。君たち人間に僕らは殺せない。そう、お父上に教わらなかったのかな?」

「それは……では、あの黒髪の男を見逃した訳は? 奴は明らかに主の血を引くものではありませんでしょう?」

「君が主のなにを知っているのかはわからないがね、僕らにもいろいろあるのだよ」

「あの男を生かした理由が、ですか?」


 アイドは懐疑心の籠ったような眼を大天使に向けた。もはやこの男の信仰心は、問う必要もない。大天使はコートの内ポケットに手を突っ込んだ。


「そういえば、知ってるかい? 使途の一人が殉職するそうなんだ」


 大天使はポケットから鉄筒を取り出した。戸惑いを隠せない様子のアイドが口を開く前に、大天使は彼の眉間にそれを突き立て、引き金を引いた。

 重く激しい破裂音が石の廊下に響き渡った。鮮血をまき散らし、倒れるアイド。見開かれた眼の瞳孔はくっきりと開かれている。

 石の廊下に血が流れる。隙間に流れ、側溝に吸い込まれていった。

 生き生きと、ケルズがなまめかしく光る。


「僕だけは、貴様の殉職を祈ってあげるよ」


 赤の笑顔は、薔薇が花開いたかのような美しさと妖しさがあった。倒れ伏したアイドを一瞥し、その筒を懐にしまった。

 筒はジュウと呼ばれる、異なる世界の文明品であった。彼らの主によりもたらされたものである。大天使はアイドを、そのジュウを使って撃ち殺したのだ。

 壮絶な笑みを浮かべた大天使は、無言を貫いていたもう一人の男の方を向いた。


「で、この役立たずの代わりに、成果を教えてくれるかな」


 そのおぞけが立つような表情に、男は頷いて報告する。


「アイドのセグレタが、聖剣の乙女と英雄の捕獲に失敗、これにより、彼は死亡しました。死体はのちに兵士と私で回収を済ませました。どちらも修道院の方に安置されています」


 セグレタの背には、墓標でも模したように、彼の大剣が突き刺さっていた。アイドの身勝手な行動により、優秀なセグレタを失ってしまったのだ。男にできたのは、祈りを捧げ、その魂を回収することだけである。

 大天使は胸に手を当て、主の名を呼んだ。詩篇を詠唱した彼に、男も続く。


「――で、聖剣の方は?」


 問うたその目は、わずかに涙を溜めているように思えた。

 男はこの先を伝えたくはなかった。だが、その透き通った目に促され、男は答える。


「聖剣の乙女と聖剣の件ですが、悪魔の介入により、失敗に終わったようです」

「よう、だって?」

「はい。音信不通のようでして……」


 男の話を受け、大天使は目を見開いた後、苦虫でも噛みつぶしたような顔になった。


「忌々しいアーシュヴェルンが……また我々を邪魔するというのか……!」


 男はなにが起こっているのか、確信を得ているわけではなかった。アーシュヴェルンの為したことであるのかもわからない。だが大天使には迷いなどないようだった。

 大天使は頷き、こちらに鋭い目を向けた。


「聖剣と文明人の回収は急いでよ。本部では計画は進行中だ。主もお待ちだしね。

あと、行方不明の使途の発見も急いでくれ。最悪の場合は授かり物の回収だけでもいい。必ず、あの悪魔には知られるな。

 ――それに、覚えておいてよ。肝心なのは、孤立させ、説き伏せることだ」


 男が頭を下げると、大天使様は足を止めた。そして、足元に転がるモノに視線を落とす。


「その者の死体、その者の家族の始末は任せたよ。権力目当ての家畜は不要だ。速やかに、そして内密にね」


 そう言って、大天使は去った。

 爽やかな香りが満ちる廊下を、むせ返るような異分子が侵食してきている。

 その中に転がるアイドは、もはや神の使途でも、ましてや人間でもない。

 一族全員、ただヴェルジュリアの研究資金源でしかなかったのだ。搾り取るだけ搾り取り、残った者など家畜以下だ。権力と保身のためにヴェルジュリアに入った者など、存在価値などない。ゆえに、彼らの主が与える処罰を、大天使は代わりに与えた。

 もっとも、大天使の手を煩わせるほどに価値がある者であったかは、言うまでもないが。

 懐に忍ばせた小瓶の中身を呷り、男は神の薬生産施設へと向かった。

 必ず奴らを、穢れ堕ちた者たちを根絶やしにするためにも。常に、最悪の状況は把握しておかなければならないのだ。

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