一日目2
茂る森には、どうしようもないくらいの居心地の悪さがあった。この澄み切った空気には、吐き気がするようだった。だから、この森を好まない。ざわわといつになく騒ぐ森が、嫌悪感を掻き立てた。
仄光る枝垂れた紫の小さな花、シオンの房は、黒の瞳にはまぶしかった。木々いっぱいに咲く星屑のような黄の花弁、ルーザの気品な甘い匂いが鼻をつく。俺はうつむいたまま下を向き、大股に駆けるように森を進む。
――殺せ。
眼帯の下、失ったはずの右目が疼く。
眼前に揺れた炎。突き立てられたナイフ。
――奴らを、皆殺せ。
憎々しげな顔をして、男が俺を羽交い絞めた。やめろ、助けてくれ。倒れ込んだ俺に馬乗りになり、ナイフを突き立てる。右目に、右目は、銀に視界を奪われ――。
――殺して、やろうか。
「――おい、リューク!」
声に、世界は夜の森に包まれた。炎は失せ、男もいない。膝をついた俺を見下ろす、ひょろいガキがいるだけだ。俺の手は、剣を握っている……。
右目はもう、鳴りを潜めていた。
「……クソが」
その心配げな視線が気に食わなくて、俺はヒュウガを突き飛ばした。声など知らない。木の根に足を取られながら、緑深い森を蹴飛ばした。
「ダメだよ、大事なお客さんでしょ?」
俺を呼び止めたのは、ハープを弾いたような声だった。
振り向くとやはり、佇んでいるのはシエラだった。アーモンド形の大きな茶の瞳がこちらを見る。病的な白い顔に、薄く紅潮した頬。細く整った眉は、呆れたように垂れていた。その華奢な体を支えるのは、緑で編まれた車椅子だ。
「……なにが客ですか。こんなヤツ」
なるべく顔を合わせぬよう、俺は顔を背けた。右目に触れる。なにもない。声も聞こえないし、痛くもない。彼女にだけは、悟られたくなかった。
シエラは軽く、子どもを諭すように告げる。
「なに言ってるの、私たちの街を救ってくださるのよ?」
「そんなの、神さんが勝手に言ってるだけです」
俺の反論はことごとく無視された。シエラは車椅子を巧みに動かし、固まった様子のヒュウガに歩み寄る。
「……ちょ、お嬢様!」
そんなヤツに近づいては、シエラの性格まで歪んでしまう。
手を伸ばすと、途端、風が俺の前を吹き抜けていった。二人と俺とに壁を作るように舞い上がる新緑の葉。風が凪いだ時には、もうすでに彼女はヒュウガの手を取っていた。
「もうこの街の希望はあなただけなのです。どうか、気を悪くなさらないで」
こんな野郎に頭を下げる必要などないというのに、シエラは生真面目に頭を下げる。その様子に、ヒュウガは眉を顰めた。
「……お前は、すぐ受け入れるのか」
乙女ではない者が乙女となることへの違和感など、シエラにはないことは、俺が一番よく知っている。もうすでに手遅れな思考回路で、いつものように答えるのだ。
「だって、神様のご意思ですもの」
ヒュウガは面食らったように顔を歪ませた。
聞き飽きた文句だ。困惑気な表情の消えないヒュウガに懐かしさを覚え、俺は目をそらした。その俺を呼ぶシエラ。
「そろそろ、腕が疲れたかしらね、リューク」
出会ったときと同じ、ひたすら傲慢で、高飛車な態度で。
そんな彼女の言葉には、たとえそれが意思を持たぬもの――植物や鉱石であろうと、逆らわせない不思議な力があるようだった。
だから俺は、仕方なく従わざるを得なくなる。
「……了解ですよ、お嬢様」
作り笑いを浮かべながら、シエラの車椅子の柄を掴む。そして、シエラの家へと歩き出した。
醜く歪んだ彼女の足に、どうしようもないほどの自責の念に襲われながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます