序章3
当然、彼はいつまでも悶えているわけではない。神さんの言葉通り、数分で右腕は鎮まったようだ。
部屋を覗くと、ヒュウガは息荒く胸を押さえていた。長ったらしい黒髪は汗だろうか、なにかで濡れている。どれだけ全力なのだ。呟くと、それがあやつの美学なのだと、神さんが教えてくれた。その美しさが、俺には一生理解できないだろう。したくもないが。
祈りの間は、アーチ状の天井のフレームのみという、開放的な造りの部屋だ。空を仰げば青い空と遠くの崖、屋敷を望むことができる。神事の一切をここで行わなければならないと、神話によって定められていた。
そこへ案内しながら、一仕事終えた様子のヒュウガに、神さんはすべてを説明していた。
今、この地では英雄の下、革命を起こそうととしていること。
そのためには、聖剣の力で暴君ギルドラートを討ち取らねばならないということ。
その英雄のもつ聖剣には、穢れを祓う乙女を必要とすること。
その聖剣の乙女を、頼みたいということ。
神さんはどうしてもヒュウガを聖剣の厨二病にしたいらしい。コイツごときに腰まで折っている。はたから見ると、すごい光景だろう。
神に頼み込まれる。それはこの世界では、畏れ多いことだった。が、当の本人は畏れるどころか眉根を寄せ、
「断る」
静かに、そう答えた。
予想外のことだったのだろう。神さんはまばたきを繰り返している。無論、それも表情が現れるほどに一瞬の出来事だが。
「……なぜ断る?」
「なぜとはなんだ。俺になんの利点もないじゃないか」
「あぁ……確かに」
うっかり零した声は神さんの耳に届いており、俺はぎろりと睨まれる。疲れた時の神さんはなにをするかわからないから怖いのだ。昔の経験が逃げろと告げているので、俺は祈りの間の隅に移動した。天窓から覗く尖塔を睨み、俺は耳を傾ける。
「まぁ、この俺を選んだことは褒めるに値するだろう。が、いきなり召喚した上にこちらの用事も聞かずにいきなり革命軍に入ることを強要するなど、非常識にもほどがある」
それは一理ある。
人間ごときに常識を説かれ、さらに疲れていることもあり、神さんは苛立っているようだ。燭台の炎がメラメラと勢いを上げる。苛立ちの波動がうかがえた。
「……だが、聖剣の乙女がいなくては、この町は滅びてしまうのだ」
それは困る。
「知ったことか。俺になんの関係がある」
まぁ、確かに関係はないな。
そもそも、とヒュウガは服の一番上のボタンを外した。
「俺は神を喰らい、神を屠る男だ。なぜ神の指図を受けねばならん」
「あぁ、そういえば、」
確かに。最後まで言えなかったのは、悪寒が走ったからだ。すぐそばの、薄暗い森によって鏡となった窓から見えるのは、鋭い目の神さん。俺は知らん顔で窓を眺める。神さんを相手にするのはただでさえ面倒なのに、その神と自称神の対決など、面倒に決まっている。せいぜいヒュウガが死ななければいいが、なんて俺の心配をよそに、彼は服の袖をまくっている。そして世をすねたような目を疑心に細め、
「そもそも貴様は本当に神なのか? どちらかと言えば、悪魔に見えるがな」
と言った。全然彼の言っている意味が分からず、俺は神さんの方を見た。
プラチナブロンドの眩い太陽のような長髪に、トパーズとエメラルドのグラデーションのある瞳。透き通った白い肌と白いローブは、神の象徴を映えさせる。それは、黒く、星屑の姿が映る神秘的な大翼だ。神話にもよくある神の姿だ。
ヒュウガはなにを言っている? 訳が分からず、とりあえず神さんを見る。が、神さんの方は首をかしげることも怒ることもせず、
「これが、この世界での姿なのだ」
そう言って、その大翼を閉じた。そうすると、もはや神さんはただの人間にしか見えなくなる。
「へぇ、堕ちたのかと思ったのだがな」
ヒュウガの皮肉めいた言葉に、神さんは歯を噛みしめた。どこにもやりきれない苛立ちをぶつけるように、キリキリと歯を鳴らす。
「……これは命令だ、人間。聖剣の乙女になれ」
丁寧な神さんが声を荒げる。これはかなりご立腹のようだ。対してヒュウガは鼻で微かに笑う。
「アンダンテ、少し落ち着きたまえ。まったく、どの世の神も変わらん。傲慢で愚かしい。神だからといって調子に乗っていい道理はないぞ?」
それはお前もだ。
窓から神さんを見ると、拳を震わせていた。炎が勢いよく弾け、神殿の天井に届くほどに燃え盛る。ヒュウガはそれに対して反応するでもなく、あくまでも平然としていた。
「……人間風情が、調子に乗るなよ」
「言っているだろう。俺は人間ではない。神となる者だ、と」
つまりは、まだ人間じゃないか。
いろいろおかしいヒュウガの言葉に、俺は内心突っ込みを入れながら気づく。
ここにいては……マズイ。俺まで巻き込まれることになる。
俺の恐れと神さんの怒りの波動など、気にしていないのか気づいていないのか。ヒュウガは部屋をぐるりと見まわし、俺に目を止めた。
「それに、コイツが英雄だと? 眼帯などつけて、ずいぶん落ちぶれたのだろうな」
思わず俺は振り返った。その目は、黒装束と茶髪を蔑むように見つめている。
あぁ? 悪かったな、とても英雄ヅラじゃなくてよ。
その言葉はなんとか飲み干した。ここでヒュウガを挑発しても、なにもよくならない。むしろ関係を悪化させるだけだ。
舌を打って無言でヒュウガを見つめていると、彼ははっと笑った。
「なにも言い返さないとは、それなりの自覚があるようだな。まぁいい、無駄話は終わりだ。早く返してもらおうか? 俺だって暇ではない。アフレッタンド。さぁ、早く」
ヒュウガの方も苛立った様子だ。よほど大事なようでもあるのだろう――と、観察している場合ではない。
神さんに見つからぬよう、逃げるように部屋を出る。
――が、意味はなかった。
「そうか、そうか! 帰りたいのだな、貴様は!」
神さんの……笑い声? 俺は思わず立ち止まり、神さんを見る。その整った顔には壮絶な笑みが張りついていた。その、異質な光景よ。驚いているのは、どうやら俺だけではないらしい。
怪訝な顔のヒュウガに、神さんは口の端を上げた。
「それならば、仕方がない」
「……なにがだ」
「本来なら、ロノワールに頼もうと思っていたがな」
「……あぁ!」
俺は思わず頷き、そして笑ってしまった。これはもう、笑うしかない。
思い出したのだ。異世界より現れた乙女に交わす誓約を。
「……どういう意味だ」
いまいち理解していないのはヒュウガのみ。俺と神さんを見比べる彼に、神さんは目を鋭く細めた。
「神になりたい子どもに教えてやろう。聖剣の乙女にはある誓約のもと、乙女として一時的に革命の手伝いをしてもらうことになっていた」
「なんだ? その、誓約とやらは」
「簡単なことだ。そなたの世界の神に頼み、そなたの世界の時を止めてもらう、ただそれだけのことよ」
そう。ほかにある五つの世界に、それぞれいる神たち。神さん含め彼らは、自分の世界以外には干渉することは、例外を除き禁じられているという。だから、ヒュウガの世界に干渉できない神さんは、他の神々に、その世界から乙女を召喚すること、そして時を止めることをお願いしようとしていた。
……そう、していたのだ。
「ほぅ、そのようなことがあるのなら、先に言ってくれればよいものを」
「あぁ、それならば引き受けたのかもしれんがな」
首を傾げた物わかりの悪いヒュウガに、神さんはおぞけが立つような笑みを見せた。
「気が変わった。やめることにする」
「……え、」
呑み込みの悪いバカな野郎だ。俺は扉にもたれ、演技がかった口調で空を仰ぐ神さんに目をやる。
「あぁ、もとの世界では大騒ぎだろうな! 行方不明となれば警察沙汰にテレビ沙汰。よかったなぁ、注目されたいという願いが叶って!」
その言葉にはいくつかわからない単語が含まれていて、俺にすべては理解できなかった。だが、これだけは理解できる。
ヒュウガ、バカだ。
なっ、とやっと理解したであろうヒュウガは、衝撃を受けたように少しよろめいた。が、すぐに体制を持ち直し、神さんに食ってかかる。
「な、なんだよそれ! マジで――誠に俺に利点がないではないか!」
「当たり前だろう、数少ない恩恵を被るチャンスを、そなたがふいにしたのだからな」
鼻で嘲笑う神さんに、ヒュウガはふらりと神さんのもとを離れた。手を震わせ、そしてまた神さんに食ってかかる。
「それじゃ、かあ――剛腕の女神が目覚めてしまうではないか!」
「知らんな。調子に乗るからこうなるのだ。言葉だけでも通じるようにしてやっただけでも、ありがたく思うのだな」
「くっそ……じゃ、その革命とやらは何日で終わるのだ!?」
「リューク、」
神さんに流し目に見られ、俺はぱっと考える。今の、あの状況を考えると――。
「たぶん、半月以上はかかるな」
「半月!?」
ヒュウガはもはや男じゃないだろ、というくらいの甲高い声を発した。うつむいた横顔は、その両の手を見つめている。
「そんな……今週のあに――異世界への旅立ちは見逃がせぬというのに……!」
「よかったではないか。本物の異世界にやってこれたのだからな」
皮肉げな笑い方に、ヒュウガは吠えた。やっと見せた人間臭い表情。彼は頭をかき乱し、そのぼさぼさの髪の隙間から俺を睨みつけた。
「おい、貴様、リュークというのか」
「……だったらなんだよ」
ヒュウガは両手をこちらに向けた。片方は五本。もう片方は二本。
また変なポーズか……? 首をかしげた俺に、ヒュウガはふんと笑う。
「最低七日だ」
余計わからない。
いまいちぱっとしない顔だったのだろう。物わかりの悪い子どもでも見るような顔のヒュウガは、ほぅっとため息をつく。そして、黒の目に光を湛えて。
「七日で革命を終わらせる」
……コイツ、もう救いようがないくらいバカだ。
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