冬の花火

「あーあ、降って来ちゃった」

 彼女は呟き、空に手を伸ばす。紺色のフェルト地のコートに包まれた肩に腕に、降り始めた雨が降りそそぐ。

「今日、クリスマスなのにね。雪なら雰囲気出るけど、雨じゃなあ。夜までにやみそうにもないし。花火大会も中止かな」

「残念だね」

 僕は折り畳み傘を開き、彼女に差しかけながら頷いた。

「うん、残念。楽しみにしてたんだけどね」

 緩やかなパーマのかかった茶色い髪が、紺色の傘の下にもぐりこむ。傘の向こうには、体中に豆電球をくっつけた街路樹が見えた。最近できたばかりのショッピングモールは、どんよりとした夕暮れに対抗するかのように明るく飾り立てられている。にぎやかに飾られたショーウィンドウのいくつかには、今夜開催予定の花火大会のポスターも貼られていた。

「真冬に花火大会なんて珍しいじゃない?」

「そうかな」

 僕は首と傘を彼女の方へ傾ける。

「珍しくないかな? なんか、イメージ的に夏にしかやってないような気がするんだけど」

「そんなことないよ」

 ショッピングモールができるずっと以前から、この町では花火大会と言えばクリスマスの花火大会だ。

「うちの近所でやってなかっただけなのかなあ」

「きっとそうだね」

 高校の頃、親の転勤でこちらに引っ越してきた彼女は、僕よりも少しだけこの町に馴染んでいない。

「……今度サエに聞いてみようかな」

「サエ?」

「向こうの友達。小学校の頃からの付き合いなんだよね」

 彼女は懐かしそうな笑みを浮かべて、僕の腕に自分の腕を絡ませた。

「でも、ホントに残念。すごく楽しみにしてたのに」

「それじゃあ」

 腕に触れるぬくもりが背中を押して、言葉は思ったより簡単に口をついた。

「二人でしようか。花火大会」

「いいね」

 くすぐったそうに笑いながら、彼女は頷く。

「そうしよ」


 僕の家に着く頃には、雨は本降りに変わっていた。僕らはシャワーを浴びて服を着替えて、夏休みに買ったきり物置に入れっぱなしだった花火とバケツを引っ張り出す。外は雨が降っているから、花火の舞台はガレージだ。普段ガレージに収まっているワゴン車は、今は父の用事で出ているから、灰色のコンクリートで固められた冷たい小部屋は空だった。

「あのね」

 両手に一つずつ花火を持って、薄暗い空中に緩やかな曲線を描きながら彼女が言う。赤と緑の色彩が、彼女の表情を不思議な色に染めている。

「私、就職、決まったんだ」

 声は少し小さくて、花火の音にまぎれて聞き取りにくかった。

「おめでとう。どこ?」

「東京」

 覚悟していたはずなのに、少しだけ息が苦しくなった。

「……遠いね」

「少しね」

 そう答えて、彼女は苦笑した。本当はこちらでの就職を強く希望していたはずなのに、彼女も僕もそのことには触れない。彼女が目指していた職種は、地元ではほとんど採用がなかったから、だから、これはきっと仕方のないことだ。

「いつ引っ越すの?」

「三月下旬かな。それまで忙しくなりそうだね」

「そっか」

 僕は答えて、炎の消えた花火をバケツに突っ込んだ。小さな手応えを感じさせる、あの独特の音を立ててから、花火はバケツの底へ沈んでいく。

「引越し、手伝う?」

「いいの?」

 彼女が顔を上げて小首を傾げる。

「もちろん」

 彼女の手の中で、二本の花火は既に燃え尽きてしまっていた。彼女は「ありがとう」と呟きながら、花火をバケツの中へ入れた。


 大きな花火が全部燃え尽きて、最後に取っておいた線香花火に火を付ける。最初はどちらが長く花火を落とさずにいられるか競争していたけれど、終わりが近づくにつれて、僕たちの間を沈黙が支配するようになっていった。

 ガレージの薄闇を、僕と彼女の手元から放たれる微かな光だけが頼りなく照らす。じっと火花を見つめる彼女は無表情で、僕はずっと彼女に見とれていた。


 最後の線香花火が消えたあとも、僕たちはしばらくぼんやりとガレージの外を眺めていた。閑静な郊外の住宅地を照らす首の長い街灯と、星の見えない薄明るい空から落ちてくる雨と、向かいの家の窓に飾られたクリスマス・リース。

 僕は高校の頃、転入してきたばかりの彼女が言っていたことを思い出していた。

 こっちに転校することになったとき、友人たちや住み慣れた町と別れなければならないのが本当に辛かったこと。大人の都合に振り回されずにすむように、早く大人になりたいと思っていること。

 僕たちはいつになったら、『大人』ってやつになれるんだろう。


「これからどうする?」

 僕が一つため息をついてから立ち上がって尋ねると、彼女は小さく首をかしげた。

「そうだなあ」

 僕は花火が大量に突っ込まれたバケツを隅に押しやりながら彼女が答を見つけ出すのを待つ。

「……ごめん、何も思いつかない。何かない?」

「夕食を僕の家で食べる」

「クリスマスなのに?」

「クリスマスだから。どこも混んでるだろうし、家で食べる方がゆっくり豪勢なもの食べられるよ」

 僕が苦笑いを浮かべると、逆光で表情の見えない彼女の肩も小さく揺れて笑った。外ではまだ雨の音が続いている。

「来年の花火大会は、降らないと良いなあ」

 僕はガレージの外を眺めながらため息をついた。

「いいじゃない、毎年見てるんでしょ?」

 彼女は立ち上がり、コケティッシュに小首をかしげる。

「そうでもないけど」

 去年も一昨年も部活やらサークルやらの連中と一緒にクリスマス・カラオケ・耐久レースをやってたから、花火なんて見ていない。一緒に参加していた彼女も、それはわかっているはずだ。

「来年のクリスマスは」

 彼女は僕の目の前にやって来て、とても優しい調子で微笑する。

「東京に出てきなさい、君」

 私と一緒に都会の風にもまれるが良い、と、彼女はそう言ってまた笑った。

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