第2話 はじまりの出来事

 涼やかな春のこと。

 麗かな陽射しと柔らかな風が草花を揺らす日のこと。


 まだ鼻をくすぐる冬の匂いが残る肌寒い朝のことでした。


 いつも同じような毎日を過ごす私は、ふとある筈のない服の裾を摘まみ、優雅に礼をしてみました。

 見えないドレスを翻し、幻想に夢を描きました。


 変な話でしょう。僕は私であることに興味を持ったんです。

 その日は、いつもより早く目が覚めて、まだ暖かさを残す暖房に寄り添ったまま、小さな窓から外を眺めていました。

 か細く鋭い朝日の線に刺され、木漏れ日は遠くを写します。たなびく陽射しが森へ続くように、遠くへと。


 遠くに昇る太陽と、私を通り抜けまた遠くへ進む陽射しとを眺めて、ふと思い立ちました。

 どうしてかは分かりません。

 いつからかも覚えていません。

 ただ、どうしようもなく興味があって、どうということもなく僕は私になりました。


 誰かに教わることもなく、誰かに止められた訳でもない私の時間は、これまでにない喜びに満ちていて、充足と満悦がその時の私の全てでした。

 ある筈のない裾と、見えないドレスが欲しくなり、その言葉すら知らない僕は、目に映らない自分の望みが叶わないことに鬱々とした日々を過ごしていました。


 それから少したったある日のこと、いつもの集会で、配給を受け取っていた時に私は聞きました。

「こういう服はありませんか?」

 シルエットを手で、ふわふわを口で、キラキラを目に伝えました。我慢ができなかったのです。


 それを聞いた人たちは、僕を変な目で眺めました。

 不気味ではありません。叱責も罵声でもありません。ただ変なものを見る目で僕を見ていました。


 “教え”のままに、必要のないものを受け取ることはできません。その言葉が拒否の意でした。


 平穏、平穏、平穏……繰り返す。

 退屈ではない。退屈ですらない。

 そんな日々。

 

 服を着替えることも、旅に出ることも特に縛られてはいない。けれど、着替える服も旅に出る道具も無い。

 やってもいいけど、やることは出来ない。


 不自由のない引きこもり

 自由な籠の鳥。


 それが僕。

 それが私。





 ある日、村の子どもたちが家の戸を叩いた。

 森から聞こえる物々しい遠吠えを、自分たちと調査しに行こうと言うのだ。


 狼か熊か、何にせよそんな危ないところに行くつもりか尋ねると、だからこそ僕に声をかけたのたと答えた。

 いくつかの小言を伝えたが、顔つきが変わらなかったので、父の形見を担ぎついて行く事にした。



 道中、遠吠えの正体を聞くには、ドルンドルンと重い響きにウォンウォンと細い音が混じっていたのだと言う。

 熊とも狼ともつかぬ2つの音は、どうにも時を同じく響いてきたのだとも。


 後者の音は村の防柱壁が鳴らす音に似ているが、アレは夕方、光の壁を作る時の音だ。それに森には置かれていない。


 自然、形見を握る手に力が込もる。


 思えば、なぜ駐在の兵に調査を頼まなかったのか。

 獣とも機械ともつかない不気味な声、魔物か怪物か、化け物がいるかもしれない森の深くへ子どもだけで向かうなんて、誰に怒られても文句の言えない行為だ。


 気づいた時には遅く、引き返すにも戻れないところまで来ていて、何の音もしない寒々とした森が、やけに恐ろしかった。


 踏んづけた枯れ葉、喉を鳴らす唾、白く漏らした吐息と胸を打つ早鐘のような鼓動が耳にうるさい。


 冬の森というのはこんなにも静かだっただろうか。

 父の背を追うように森を駆けた日々は遠く、その小さく広い背中だけが目に焼き付いて、肝心の森の様子は少しも思い出せない。


 何がいるとも知れなくなった森に、箱の奥にあるお気に入りのおもちゃを探るように、深く深くへと惹かれていった。

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