現実は理想と異なる

「正義の反対は別の正義」

ガチスとデンゲルはそれぞれ自国民第一主義を唱え、ひだまりの民を見下し、法の平等や言論の自由などに差別を設けました。


それこそが彼らの「正義」でした。

しかし、ひだまりの民から見ればそんな「正義」を認めるわけにはいきません。

だからこそSNSや選挙を通して「戦い」自らの権利を取り戻したのです。


しかし、この時ひだまりの大衆にとって「正義」とは反ガチス、反デンゲルであってそれ以上ではありませんでした。

だから、彼らが自分たちにしてきたことと同じことを彼らに報復するのは「正義」だったのです。


しかし、これは民族主義による「偏った正義」という点では同じでした。

コウメイやヒキコモリーヌたちはいつかはこの正義の概念を民族主義から引きはがすことが必要だと考えていました。


しかし、読者の皆さんも意外に思われるかもしれませんが、その「偏った正義」を正すためにコウメイやヒキコモリーヌは積極的には動きませんでした。


確かに、テレスに対するひだまりの若手官僚の無礼に関しては熱弁を振るいましたが、ひだまり国内における民族対立については積極的に止めようとはしませんでした。


何故でしょうか?

コウメイの頭の中には次のような考えがありました。

ひだまりの国内はまだ定まっておらず、ガチスやデンゲルの影響は今だ残っている、


この状況でもし国威奪還のエネルギーを消失したり弱めたりしたら再び外敵が力を復活させる可能性がある。

そんなことになったら取返しの付かないことになる!


ゆえに目に余る行為もあるが、ひだまりの急進派の力を削ぐことなく、しばらくは様子見するのがベターな選択だろう。

ヒキコモリーヌも同じように考えていました。


彼ら、彼女らは将来のひだまりの国に責任を持つ立場の人間であり、無責任な理想主義者でも活動家でもなかったのです。


もちろんこの二人には良心も識見もあり、情においては急進ひだまり派の振る舞いに美しさを感じておらず、むしろ醜いとさえ感じていましたが、理想ではなく現実を取るという選択によってこうした黙認の姿勢を保ちました。


これには他にも理由がありましたが、その点は次に譲ります。



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