テレビ放映戦国大名総選挙その58 織田信長
前の章で触れた通り、室町幕府の将軍というのは無力な存在でした。
しかし、まったく影響力がないかと言えばそうでもありませんでした。
だからこそ、いろんな勢力の元に行き優遇されたのです。
それは、主に戦争の仲介でこれを断るのはあまりイメージが良くありませんでした。
他にもお金の無心などもありましたが、こちらは大名により対応は様々で領地を寄進する所もあれば、申し入れをのらりくらりとかわすこともありました。
余談ですが、島津義久は100両寄進したという記録があるそうです。
さて、将軍は価値がある、でも自国を空にして将軍の上洛を助けることは出来ないし、したくない、そんな大名ばかりの中で結果的に上洛に協力したのは織田信長だったのです。
これは尾張の東を同盟国徳川が抑え、北の美濃は苦戦したものの何とか平定しました。
この時点で約100万石の国力と徳川の備え、そして将軍の要請という要素が加わり、大軍を持って上洛できる体制が整うことになりました。
こうして織田信長は京の通り道である近江の六角や三好の残党などを駆逐していきます。
この戦いの目的は将軍となった足利義昭を京に安定した状態で戻し、足利幕府の威信を再興することでした。
確かにその目的は達成されたのですが、この時実はもっと大きなことが起きていました。
それは畿内、つまり京都周辺の豊かで人口の多い地域を制圧したことです。
この事で石高だけ見ても150万石以上増えた計算になります。
皆さん、覚えているでしょうか。
武田信玄の最大の石高は150万石前後と言われています。
つまりこの時点で信長は信玄の約2倍の石高を誇る実力者になりました。
しかも、この地域は農業地帯というよりも商業や文化がより栄えた地域であり、富と技術という点ではさらに差が開いているということです。
この急拡大について当時の人々はあまりピンとこなかったようです。
記録によると、織田信長はあくまでお供の武将の一人にすぎず主役は足利将軍とその取り巻きによるものと認識していたようです。
何はともあれ、足利義昭は悲願の京都帰還と幕府再興がかない、信長の方も将軍との良好な関係に加え、莫大な領地を手に入れることが出来ました。
ドラマならここでめでたしめでたしなのですが、そうはなりませんでした。
大河ドラマ「麒麟がくる」をご視聴された方はご存じかと思いますが、その後どうなったのかを次の章でお伝えしたいと思います。
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