テレビ放映戦国大名総選挙その36 武田信玄
1567年に武田信玄は西上野(群馬県)を占領しました。
しかし、信玄は止まりません。
それが野心によるものだったのか、それとも武田軍団と領国を維持するためにはやむをえない方法だったのかは分かりません。
しかし、翌年の1568年、彼は今川家との同盟を破り、駿河(静岡)に侵攻します。
そして1年ほどで今川氏は滅亡します。
こうして信玄は駿河と遠江と三河の一部を手に入れます。
彼はここで念願の海に接する領地を手に入れました。
当然のことですが、これによって北条家との関係は悪化し、北条は上杉と同盟を結ぶことになりました。
また、今川を攻める時は協力関係にあった徳川家康に対しても信玄の目から見て弱いと映るやすぐに攻撃的になり、領地を侵食していきました。
こうして、沢山の領土を獲得しましたが失うものも多くありました。
まず、今川との同盟破棄によって三国同盟の際に今川家の娘を妻に迎えていた長男の義信との関係が急激に悪化しました。
そして、この問題は義信と重臣である飯富虎昌達の死によってとりあえず鎮静化しましたが、信玄と家臣団との間に重苦しい空気が起きたことは否定できませんでした。
先ほど述べた通り北条との関係も悪化、信玄の外交努力で全面対決にはなりませんでしたが、かつての鉄壁の同盟はなく、そして今後も元のような改善は見込めない状態となりました。
こうした中、最近放送した「麒麟がくる」でも扱われた通り、織田信長と室町幕府将軍足利義昭の関係が悪化しました。
そのため、義昭は各地の大名に信長討伐の手紙を送ります。
このことによって、武田信玄に対する恨みや憎しみよりも信長に対する脅威や敵意が優先されて武田信玄の孤立という事態を辛うじて回避することが出来ました。
しかし、冷静に見ると外交面で一時的に先送りになっただけで、北条や上杉との関係は悪いままでした。
あくまで一時的な修復に過ぎない状態でした。
おまけに先ほど述べた織田包囲網に武田信玄も加わった結果、一時的には婚姻の約束をしていた信長とその盟友であり配下でもある徳川家康を敵に回すことになりました。
さて、ここまで無理をして領土を拡大した信玄、皆さんは当時の彼の持つ力はどのくらいだったと思われるでしょうか。
次の章ではその点から話を進めていきたいと思います。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます