閑話休題 戦国島津の疑問?
戦国島津を学んでいると疑問に思うことがあります。
その一つに、島津は南蛮と早い時期に付き合いがあったのに何故南蛮のイメージが薄いのか?というものです。
これと似た疑問として、なぜ島津はキリスト教信者が少ないのか、というのもあります。
島津を表面しか知らない人だと、島津の家紋を見てキリスト教と関係あるの?と思う人もいるぐらいです。
まず、島津の家紋とキリスト教は関係がないようです。
これは鉄砲やキリスト教伝来の前から島津の家紋は十字でしたので問題ないと思います。
では、なぜ南蛮のイメージが薄いのか、これはまず周りが南蛮のイメージが強いというのがあります。
大友氏は南蛮貿易を積極的に展開し、しかもキリスト教もどんどん受け入れていきました。
また、他にも九州で港のある大名の中でキリスト教に寛容な大名は南蛮貿易を有利に進めていたと考えられます。
では、島津の場合どうだったかというと、ある説明ではそれほど南蛮貿易はもうからなかったからとありました。
説明としてはそれだけでしたが、作者の推測ではあまり薩摩が豊かな市場ではなかつたことが大きいのかなと思いました。
以前も説明した通り薩摩は米の収穫量の少ない貧しい土地でしたので。
それと、キリスト教国は植民地を目的として海外に進出していましたが、薩摩の島津日新斎はすでに日学という儒教、仏教、神道のハイブリットな教え。生き方、法というものを確立していましたので思想的にも支配という観点からも入り込む余地が少なかったのではと思います。
そして、戦闘力も十分ありましたから外国勢も手を出せなかったのではと思います。
余談ですが幕末末期に「薩英戦争」というのが薩摩で勃発しましたが、この時も薩摩は善戦したため列強の植民地政策の餌食にならずに済みました。
まあ、当時のイギリスやオランダから見れば、食べずらい上に量も少ない土地で投資するのも侵略するのも得策ではなかった、そんな感じかもしれません。
いずれにしても鉄砲という要素を除くと南蛮貿易はうま味がなく、中国や琉球との貿易を含めても豊かということはなかったようです。
さて、現代に当てはめると、外国に土地やある一定の行政権を譲渡したうえで豊かになる選択をするか。国内の政治は安定するが外国からのお金が流れないことで貧しい国になるかという選択ということになります。
こう考えると、戦国島津と大友など他の九州大名の歴史や政治を見るのは興味深いと思いませんか?
作者からは状況の説明だけさせていただき、現代にどう選択し生かすかという点は読者の皆様におまかせしたいと思います。
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