応援コメント

第197話 島津の歴史といろはの「え」」への応援コメント

  • 戦に勝っても、明日は我が身と戒めて敗者にも敬意を払う。丁重に弔う――。
    これはすごく大事な考えですよね。

    また次回も楽しみに読ませていただきます!

    作者からの返信

    御田義人様いつも沢山のご愛読ありがとうございます。<(_ _)>😄🍀
    この教えは実に薩摩らしい教えで、このおかげで薩摩は多くの戦をしながらも無用な恨みや憎しみから逃れられたと思います。

    もちろん、これは計算ではなく宗教的な道徳からの発想ですが、薩摩が負けた西南戦争などで遺恨が強く残らず、日本がまとまったのもこの教えの影響が大きいかなと思いました。

    ただ、大陸側の文明国を見ると、墓を暴いたり、死者に鞭打つ思想も強く、私としては強い意思を持ってこの教えに従い死者を冒とくする思想とは相対すことが大事かと考えています。

  • 鎌倉武士の名残でしょうか。

    かるかんも良いですが、最近では、かすたどんが好きです♪

    作者からの返信

    いつき ふみと様コメントありがとございます。<(_ _)>😊

    なんか、女の子の間でかすたどんが流行ってるみたいで、ある富山出身、横浜在住の若い女性の方から鹿児島に帰る話をしたらリクエストされたことがあります。😆😊🌟

  • また読ませて戴きます✨🤗✨✨✨

    作者からの返信

    オズ研究所 《《#横須賀ストーリー紅白様いつもご愛読感謝です<(_ _)>😊
    またのお越し楽しみにしています。✨😄🌟🌟🌟

  • コメント失礼いたします。

    基本的には戦いが終わったらそれ以上は長引かせないようにしています。
    戦い自体がよくないことなんですが、長引かせない気遣い(?)があるのはいいですね。
    ノーサイド的なものなんでしょうか。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    島津日新斎自身は自分の信仰に基づいてこうした教えを残したと思われますが、結果としてノーサイド的な形で戦争を終わらせるルールみたいな形で定着したと思われます。
    島津家久が長曾我部家を戦で打ち破り、嫡男を戦死させた後、戦の習いで殺してしまったが、望んだわけではない。
    退却中襲うことはないので安心して帰路につくようにと伝えた話があるそうです。
    武士としてのルールというのは確かに存在したみたいです。
    戦国の世ですからどこまでこうした美学のようなものが反映したかは分かりませんが、戦の後に残る感情などを考慮するとさっぱりしてよかったかと思います。
    ご愛読いただきありがとうございます。

  • 秀吉の黄金へのこだわりは、なにか狂気にみえますよね。

    やはり、これは育ちなんでしょうか。
    少し残念でもあります。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    仰るとおり、秀吉は黄金好きですね。
    まあ、かっこいい言い方をすれば、当時の中では経済が発達していた地域に住んでいたので、貨幣経済にたいして造詣が深かったと言えるかもしれませんね。
    小説の秀吉を大河ドラマ化したある場面で、秀吉が信長から無茶ぶりされてお金がないと怒りと嘆きを表した場面がありましたが、そうした気苦労がストレスとなってあのような形で発散したのかもしれないですね。
    島津義久が秀吉を下賤の成り上がりと嫌ったのはこの辺もあるのかもしれません。
    ただ、秀吉に負けた後の島津はそうとう金欠だったのでその恨みも大きいかも。
    ありがとうございました。

  • 日本でも怨霊の静め方は神として祀ることですよね。
    立派なお墓ではなく、りっぱな神社を建てるといった感じでしょうか。

    中国の争いが絶えなかったというのは、コロコロと、王朝が変わっていることからもわかりますね。
    まあ、一つの王朝がどれくらいあったのかは知りませんけど

    作者からの返信

    コメントをいただきありがとうございます。
    ご指摘の通り、怨念をおさえる、あるいはなだめるために神社を建立しますね。
    良し悪しはともかく、この習慣も日本の文化の特徴と言えるのではないかと。
    中国の場合、歴史の前半戦では長い分裂と統一のパターンでしたが、後期になると漢民族ではない戦の強い異民族が漢民族を征服し、その後漢民族が人数の多さに乗じて実権を握るパターンに移行します。
    そこは日本同様、戦いは長くやりたくないという民衆の総意が歴史を作ったのかも知れません。
    細かく話すと長くなり、作者もボロが出ますので(笑)この辺で。
    ありがとうございました。