第175話 キリストと孔子といろはの「れ」

礼するは 人にするかは 人をまた 下ぐるは人を 下ぐるものかは


現代語訳

人に礼儀正しくすることは、自分のためにもなるのです。

人にした同じことが皆自分に返ってきます。

だから自分自身に対しても礼儀正しく慎むことが大切です。


この島津日新斎いろは歌を紹介していく過程でまさかこの二人を紹介するとは思いませんでした。

いま、アメリカと中国が険悪になりつつある情勢でこの二人について記すのは感慨深いものがあります。


イエス・キリスト、紹介するまでもなく新約聖書の主要人物であり、多くの言葉を通して世界中の人々に良い影響を及ぼしてきました。

その中でとりわけ有名な言葉に「黄金律」というものがあります。


人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(『マタイによる福音書』7章12節,『ルカによる福音書』6章31節)

もちろん、イエスの場合はあいさつだけではなく行動全般に対するアドバイスですが、人にしたことを自分に返ってくるよう願う心はいろは歌と同じだと思います。


聖書を読むと、「慎み深い」とか「謙遜さ」という言葉が良く出てきます。

こうしたことを普段から意識する人は懐が深く、人として大切な特質を普段から育むことができ、周りからも一目置かれる存在となるかも知れませんね。


さて、「礼儀」といえば孔子を思いだす方も全世界で見た時には多くいらっしゃることでしょう。

孔子は伝統的な礼を用いて無秩序になった社会を立て直そうとしましたが、孔子の「礼」は伝統的な礼と異なり「仁」を強調するところにその特徴があります。


『論語』八佾(はちいつ)篇に「人に仁徳がそなわっていなければ礼の使いようがない」とあります。また学而篇には「礼は人の心を温和にし、社会を調和させる」とあります。


政治の中でも礼の役割を重んじ、為政篇には「刑罰で人を正そうとすれば、人は法律を犯そうとはしなくなるが恥の心は持たない。礼をもって正そうとすれば罪を犯さなくなるだけでなく、恥を知って心から従うようになる」とあります。


お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、「礼儀」というのは単なるあいさつの作法といった表面的、薄っぺらい物ではありません。

まず、心で準備をしその準備を整えてから礼儀の型を表します。


もしも相手が、無礼な態度を取ったとしても礼儀の型が崩れることがなく冷静でいられること、こうした心構えも大切かも知れません。

よく人の印象は「第一印象で決まる」と言われます。


本当の意味での礼儀を身に着けるには、精神的忍耐と訓練の時間が必要かもしれませんが、これだけのビックネーム達のアドバイスと考えると努力してみる価値があると思いませんか。


礼儀は人と人とのコミュニケーションの基礎となるものです。

それだけではなく人間の内側、あるいは本質を磨くための重要な要素とも言えます。

島津いろは歌の「れ」つまり礼儀正しく慎むことを努力出来るといいですね。






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