第41話 山に落ちる雷

 蘭国と喃国が、それぞれの思いで戦っている頃。

 山にある里の中では、恐ろしい鬼たちが変わらず過ごしていた。そこには鳥が飛ぶと、動物たちも駆け回っている。本来ならば入る事の出来ない里にも、鬼の誰かが入る際に紛れたのか、動物はたくましく繁殖すると数を増やしていった。

 鬼たちは、その様子を気にする事もなく、また人間の争いにも特別な関心を持ってはいない。

 殺伐とした地上とは違って、山の鬼たちは穏やかだった。時折、人間や結界の話題が交わされる事もあったが、それは童羅たちのような束ねるものの言葉がない限り、他の鬼にはどうする事も出来ないでいた。

 そんな中、里に居るはずであろう青鬼が一匹、姿を消していた。それと亜羽流である。


 ボワン──と音を出すと、山の中にぐにゃりと歪んだ空間が現れる。近くに居た動物たちは驚いて走ると、その場から離れた。

 そこから姿を見せたのは亜羽流だった。

 亜羽流は、里の中にはない山の生命と息遣いを感じとると、蘭国がある方角へと視線を向けた。

 そして山を降りようとする。その時であった。

「……どこへ行くつもりだ?」

「──!」

 亜羽流は、背後から聞こえた威圧の声に振り返った。

 側ではジジジ……と、作られた空間の歪みが戻ろうとしている。

 亜羽流の向いた視線の先には、立派な大角を二本伸ばして、青く強靭な肉体をした護羅无の姿があった。

 護羅无は、山で育った大木の側に立つと、来るであろう亜羽流を待ち伏せていた。驚いている亜羽流に、護羅无は紅く冷たい瞳で見つめている。

「……言ったはずだ。次は見逃す訳には行かないとな」

 護羅无の声には、震え上がるほどの殺気が混じっていた。その力は、既に衰えを見せる童羅の力よりも上である。童羅が消える事になれば、次に来る里の長は間違いなく護羅无であった。気性の激しい阿修羅と、それと同じく力のある阿徒をも従える山の青鬼。それが護羅无である。

「──」

 亜羽流は、その額に汗を滲ませていた。

 これから起こるであろう先の話に、少しの怖れを感じていた。

 そうやって沈黙を続ける亜羽流に護羅无が聞いた。

「……お前は鬼か? それとも人間か?」

「……」

「人間の女を助けてどうするつもりだ? 我らは人を喰らう鬼だろう。その力を貸した所で最後は同じ事だ」

「──」

「だがそれでも……どうしてもお前が行くと言うのならば……わかるな?」

 静かに重たく響いたその声に、近くにある木の枝から鳥がバサバサと羽ばたいて逃げて行った。急激に変わった場の空気を察知したのだ。

 そして亜羽流にもこの先の行動次第で、護羅无がどう出るかはわかっていた。山を降りようとすれば、護羅无と戦う事になる。護羅无はそう言っているのだと。

 沈黙だけが流れていた。

 護羅无は、これまで亜羽流に対して露骨な敵対心を見せていなかった。だがこうして対峙してみると、護羅无と言う鬼の強さが改めてわかる。

 それでも、護羅无が愚邏堂ぐらどうのような黒鬼の存在であれば、亜羽流は迷わず戦っていたはずである。だが護羅无は里の同族だった。そして、その長になるかも知れないものと対すると言う事は、帰る場所がなくなってしまう可能性もある。

「……」

 亜羽流は、護羅无の問いに答えなかった。答える事が出来なかったと言った方が正しい。しかし、そんな亜羽流の態度に、護羅无は亜羽流が山を降りる意思を変えないと受け取った。

「……そうか。ならば仕方あるまい──」

 護羅无の行動には威嚇の意味があった。

 突風が起こると周りの草木たちを揺らす。

 亜羽流の考えが定まってない中、それは始まった。

 距離にすれば数馬身はあろうと言う間合いを、護羅无は一瞬にして詰め寄った。人間の倍はある巨体が、亜羽流の前に大きな壁として突如現れる。

「──!」

 護羅无の影に視界を塞がれた亜羽流は、後ろに大きく飛んだ。まるで飛ばされたようにも見える。

 すると次の瞬間、護羅无の右拳が地面を叩いて、その衝撃で土が大きく宙に舞い上がった。

 亜羽流は、その様子をふわりと空で眺めると、護羅无の姿を見下ろしている。

 戦おうと決めた訳ではない亜羽流だったが、護羅无から放たれるようとも言える巨大な覇気に飲まれると、咄嗟に反撃に出てしまった。

 飛んだ先の背中にある木を足場に蹴って返ると、今度は護羅无へと向かった。間合いは再び近くなった。

 亜羽流は、護羅无の顔に右拳を放つ。だがその瞬間、護羅无は視界から外れて姿を消した。

「──ッ!」

 亜羽流は、出した拳をそのままに身体を捻る。そうやって着地の体勢を整えようとすると、ガクンと身体が宙で固まって、大きく上空へと浮き上がった。

 逆らえない浮遊感──。それは護羅无が、亜羽流の足を掴んで振り上げていたからだ。軽々と振る姿は、まるで棒切れのようであった。

 亜羽流は、その力から逃れる事が出来ないまま、強く地へと叩きつけられる。

 ドスンと大きく重たい音が鳴ると、土煙が散りながらモウモウと上がった。行き場を求めるように迷っている煙に、亜羽流の姿は隠されてしまった。

「……」

 護羅无がそれを黙って見ていると、煙が少しずつ消えて視界が開けてくる。山は落ち着きを取り戻す。そして地面に横たわる亜羽流の姿が晒された。

「うっ……」

 亜羽流は、微かに呻き声を上げた。

「……最後まで奪おうとは思わん。今回の件はなかった事にしてやってもいい。だが、これでもまだ山を降りると言うのならば──」

 護羅无がそう言いかけた時、亜羽流は、ゆっくりと立ち上がった。

「──」

 瞳孔を開く護羅无。

 しかし、亜羽流からの返事はない。山を降りると決めたのには譲れないものがあったからである。

「……そうかわかった」

 護羅无は、それだけを言うと何も言わなくなった。

 辺りの空気は、集まるように凝縮されていく。

「……」

 迷ったまま戦える相手ではない。亜羽流は、そう思い覚悟を決めた。そして右腕をすっと下に降ろすと、大きく手を開いた。袖からストンと笛が落ちる。それをパシリと掴むと握りしめた。亜羽流の表情からは、さっきまでの迷いが消えていた。

 周りに流れる大気が渦となって変わり始める。

 護羅无はそれを感じ取っていた。そして亜羽流が、今度は本気で向かって来るのだと知った。護羅无は警戒を強めた。亜羽流の術は、里に居る鬼とは随分と違っていたからだ。

 鬼の能力は、主に肉体の強化だった。四肢を膨らませて持った肉体の強さを更に強化するもの。その力は、基本的な力の強さだけでなく、速さも格段に増す事が出来た。それは護羅无だけではなく、里に居る鬼たちも同様である。阿徒のように長い爪や牙を持つ鬼、阿修羅のように先読みをする瞳を持つ鬼は、特殊な鬼であった。肉体強化こそが基本、鬼最大の能力である。護羅无は、その強い肉体と力を能力に寄って、更に強化させる事が他の鬼たちよりも優れていた。

 だが亜羽流は違っていた。強化する能力は微々たるもの。その身体も人に似て、他の鬼たちと比べると随分と弱いものだった。しかし、その人の姿をする事に似合う妙な術を使う。そしてそれは、鬼の肉体を傷付ける事が出来るほどの能力だった。

 山の空気が少しずつ変化していくと、亜羽流の足元から土の煙が微かに上がっていく。煙は、小さく渦を巻いて地にある小石を宙に浮かせる。

 その煙り風に煽られるようと、亜羽流の青い髪は空へ靡いてふわりと浮き上がった。

「ふっ……やはり、お前を鬼と言うには俺にも少し抵抗があるようだな」

 護羅无の言葉は、追い詰められた時の人間が時々見せる力と、亜羽流のそれがよく似ていると思ったからである。それとこうして、亜羽流と本気で戦う事になった妙な高揚感から来るものだった。亜羽流は、護羅无の抑えている静かな闘争本能を刺激した。

 亜羽流の横笛が、ゆらりと緩やかにα文字を切る。

「……らい

 そう言葉を発すると、辺りからゴロゴロと轟きの音が鳴った。そして空から瞬間、光の速さで護羅无へと雷が落ちる。

 だが護羅无も亜羽流に向かい走っていた。その速さは雷に負けず、そして吠えた。

 護羅无にしては珍しい雄叫びだった。

「オオオオォッ──!」

「はああぁっ!」

 迎え撃とうとする亜羽流も走る。

 その闘いは山の中で激しく、そしてひっそりと繰り広げられていった。


 一方、次梟と霧島が戦う場所から西には、鬼木の山が見えている。次梟たちに見えたのは、ピシャリと山に落ちる一つのいかずちであった。

「──?」

 霧島が、ふっと空を仰ぐと手を向ける。

「……へえ、蘭国の方の天気は変わってるんですね」

 そうやって無邪気に笑う霧島の姿を見ると、呆れたように次梟が言った。

「……ああ、お前もな」

 そうやって二人は、山で激しく揺れている自然と、倒れる木々の様子を視界の端で捉えていた。

 そして雷のそれが、勝敗を決める合図だったかのように、戦いの決着を迎えようとしていた。

 鬼の阿杜をも驚かせた次梟の剣術が、霧島を追いつめていく。

 だが、それに寄って次梟もまた驚く事になる。

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