第35話 国境前線

 人の命とは何と軽いものであろうか──。

 風太ふうたは震えていた。

 さっきまで笑っていたはずの者がどこかで悲鳴を上げている。さっきまで元気だったはずの仲間が、動かなくなるとただの肉の塊になった。辺りにはたくさんの血が流れると乾いた地を潤すように湿らせている。

 足場は、水溜まりを踏んだようにバシャバシャと音を立てると、赤の滴を散らしていった。

 蘭国近くにある森の国境いである防衛線である。

 風太の周りには多くの仲間たちが倒れると、苦しさと無念さを滲ませた息のない表情がある。それは風太が今まで見た事もない仲間の最後の姿だった。

 前へと戻した視野の先には、ニヤニヤと笑みを浮かべた喃兵たちの姿があると、それは賊のようにも見える。しかし、身につける防具や持つ旗には菊の紋があると、正規の兵である事を示していた。世辞にも品があるとは言えない風貌である。そして、その者たちの全員が恐ろしく強く、風太たちを圧倒すると仲間は次々と斬られていった。

 風太の左側から仲間の声が聞こえた。

「……おっ、お前らあぁっ!!」

 兵士は、叫びながら相手の一人に走りかかると、ガキンと鍔迫り合いになった。力比べである。

 風太には、その仲間が知った人物であるかすらも、はっきりとわからなくなっていた。ただ印象に残っているのは、凶悪な表情をした喃兵の方であった。仲間が消えゆく存在だったからだろうか。

 ギリギリとした形相をする仲間の様子とは違って、喃兵のそれには余裕が感じられる。仲間と喃兵、その体格差は明らかであった。

 剣術の優劣は力だけで計れないが、どんな技を持っていても、覚悟と度胸のない者は戦場では役に立たなかった。

 それを察知したように喃兵が言った。

「……おいおい、お前。本当に蘭国の兵士か? もしかして犬の一匹も斬った事がねえんじゃねえか?」

「なっ、なにをっ──!」

「斬るって言うのはな……こうやるんだよっ!」

「──ッ!」

 喃兵が合わさっていた刀を軽く流すと、兵士の身体が大きくブレた。すぐに体勢を戻そうとして振り返る、その時であった。

「──」

 刀を振り上げる喃兵の影が兵士の視界を塞いだ。

 そして最後となった。

「……ご苦労さんっ」

 喃兵は、労いの言葉で小馬鹿にすると皮肉を言った。

 降り下ろされる刀、それはガツンッ──と兵士の頭を割った。

 兵士は「あっ──」とだけ発すると、その場でガクンと力なく崩れ落ちる。

 そしてそれは、次に起こる風太の姿でもあった。

 息は狭く呼吸は荒くなると、溢れる汗で着ている防具の中はひどく蒸した。まるで身体全体の毛穴から水分が出ると失われたようである。激しく鳴る生命の鼓動が止まるまいと、風太の心臓を精一杯動かしていた。

 喃兵は、そんな風太の視線と気配を感じたのか視線を向ける。その顔、付けた防具には仲間たちの返り血があると更に恐ろしいものであった。

 周りに居る他の喃兵たちの多くは、先へと進む事もなくこの状況を眺めている。まるで見せ物を楽しむかのように笑みを浮かべた。その中には、今の相手よりも強い者が控えると、兵士たちを率いて更に身分のある者も居るのだろう。これが戦さ、命をやり取りすると言う事であった。

 初めてそれを知った風太は、身の程を知ると言う現実を突き付けられていた。背中には森があると、それは蘭国へと向かう道である。そこを通らせない為に作られた木の柵は簡単な物であった。寝食をする場所は建物と言うには大袈裟な拠点、こんな防衛の準備だけで守ると言う事自体が土台無理な話だった。だが、そう言い訳をしていても遅い──。

 仲間を斬った喃兵が、風太へと近づいて来る。

「……ああーん? やけにこっちを睨んでやがると思って来てみれば、まだガキじゃねえか。おかあちゃんならここには居ないぜ?」

「はぁっ、はっ……はあっ」

 喃兵と向き合った風太の息だけが荒くなった。

 風太は、更に強く息を吐き出すと刀を握り締める。だが相手に言い返す為の気の利いた啖呵たんかの一つも出て来なかった。当然であった。風太は、斬り合いをするどころか、喧嘩の一つもした事のない農民から転じた兵士だったからだ。わずか数月前に、兵士となったばかりの新米である。親の反対を押しきって、親戚である武士の者に頭を下げると志願した。それは成り上がりたいと言う者たちとは違い、自分の欲から来るものではなかった。前の戦さが起きた時に負った国の被害。その様子を見た風太は、自分の国や家族たちを守ろうと純粋な気持ちからであった。

 風太の震える姿を見た喃兵は、辺りに居る他の仲間へと聞こえるように大声を出して笑った。

「はっ……あはははははっ! おい見ろよっ! こいつ震えてやがるぜ! 蘭国の兵は、腰抜けばかりなのか? おいおい頼むぜ坊や、小便だけは漏らしてくれるなよ?」

 それを聞いた喃兵たちは、手を貸す訳でもなくこれから起こるものを楽しもうとばかりにニヤニヤと笑みを浮かべている。動く気配はない。

 風太は、助けを求めようとして周りを見渡したが、そこにもう仲間たちの姿はなかった。気が付けば、風太は最後の一人であった。

 そして風太は自分でも驚く行動を見せる。

「う、うああああっ!!」

「……おっ、と」

 風太の攻撃を簡単に交わした喃兵に、刀は更に振り回される。

「あああああッ!!」

 精神的錯乱であった。その動きは型などない格好の悪いものだった。死を拒否すると言う本能だったが、笑われたくないと言う意地でもある。男として認めさせたかった。だがその相手が、敵の兵士である事が風太の姿を一層、惨めに映していた。

 風太の刀はことごとく空を斬ると、その様子に飽きた喃兵が風太の動きを止める。

「──っ!」

 それは喃兵の左手一本だった。

 右の手首を掴まれた風太の腕は、全く動かなくなってしまった。力の差は明らかだった。

 風太の手首は、徐々に痛みが増していくと力が奪われていく。それに耐えきれなくなった風太の手から刀がポロリと離されると、それはゆっくりと落ちて地面へと転がった。

「あ……あっ、うあああっ!!」

 風太は、逃げようとして必死に抵抗をすると、身体を引き離そうとする。だが、掴まれた手からは逃れる事が出来なかった。子供を離さない親と子のように体格もまるで違っている。

 喃兵は、そうやって逃げようとする風太の命を終わらせようと刀を振り上げた。

「……ここはお前のようなガキが来るような場所じゃねえ。何を勘違いしたのか、兵士になってしまった自分の選択を恨むんだな」

「あ──」

 風太の目には涙が滲んでいた。

 そして命の灯火が消えようと言う、その時であった。風太の後ろから風が抜けて矢が飛んで来ると、それは喃兵の腕へとグサリと刺さる。

「がっ、ああああっ!!」

 喃兵は、風太を離して叫び声を上げた。

 その直後、風太の隣から風が吹き抜けると人の影が通っていく。腕に付けられた紫の腕章がわずかに光っていた。

 喃兵は、突然目の前に現れた人物に向かって言った。

「……がぁああっ、な、なんだあ? お前はッ!?」

 その瞬間、キンッ──と音が鳴って喃兵の持っていた刀が宙を舞った。

「なっ……!」

 そして叫び声を上げるより先に、喃兵の脚から血が飛び散るとガックリと両膝を付いた。

「あっ……あぁ……」

 喃兵は、目の前に突き付けられた刀を見ると怯えながら声を出す。

「……ここはお前のようなヒヨっこが来る場所じゃねえよ。勘違いをして、ノコノコとこの蘭国まで来た事を後悔するんだな」

 次梟は甘い声でそう言うと、喃兵の首をあっさりと跳ねる。一瞬の出来事であった。そして、すっと振り返ると風太に向かって言った。

「おい、坊主。よく頑張ったな。立派だったぜ? 後は俺たちに任せろ」

「おっ、俺たち……?」

 そう聞いた風太の背中から、一斉に大勢の雄叫びが上がると、それはビリビリと風太の身体を揺らす。振り返ると、森を抜けて蘭国から駆けつけた兵士たちの姿がそこにあった。

 その兵士たちよりも先に駆けつけた男の背中は、蘭国では知らない者は居ない。狢伝の側近にしか与えられない袴を堂々と着こなすと、誰よりも頼もしいものであった。蘭国一の実力者『鬼の次梟』である。

「……さてと、行こうか」

 次梟は、そう言って一気に前方へと走り抜けると、辺りに居る喃国の兵たちを手当たり次第、次々と斬り伏せていった。次梟の袴は、見る事がないほど綺麗な状態だったが、それも返り血を浴びてすぐに赤く染められていく。

「あ──」

 風太は、自分よりも大きな体格の者たちを次々と倒していく次梟の姿を見て、これが本物の侍なのだと初めて知る事が出来た。

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