第25話 暖かい光の破片
空から降り注ぐ陽射しは、再会した二人を祝福するように包み込むと暖かいものであった。
「──ちょっと待って」
そう言うと千里は自分の袖を右の手で引っ張る仕草を見せた。力を込めて「うーん」と顔を赤らめると何度も袖を引っ張っている。
「……?」
亜羽流は、千里の様子を不思議そうに見ていたが、しばらくすると千里の袖が少し裂け始めた。亜羽流は、千里が袖を取りたいのだとわかると、すっと手を伸ばして着物の袖を簡単に破いて見せる。そしてそれを千里に手渡した。
「あ、ありがとう」
千里は、袖を受け取ると亜羽流の顔へと運んだ。
「──」
亜羽流は驚いた表情を見せる。
千里は、破れた袖を使って亜羽流の顔に付いた血を拭い始めた。その為に破いた──。
その瞬間、亜羽流の頭に千里と初めて出会った時の記憶が甦った。
それは山の中で亜羽流の口を拭った千里の姿である。だがその時とは違い、今の千里には怯える様子はなく心配そうな表情を浮かべるだけである。
亜羽流は何を言えば良いのか戸惑っていた。
今この時、この状況がわからないでいた。「ありがとう」と言うお礼の言葉は、鬼の亜羽流には使う事はなく、意味のないものであった。
「あ──」
言葉が出て来ない。
亜羽流のそんな表情を見て千里はニコリと微笑むと、出した手をそっと元に戻した。
静かに繋がる二人の瞳──。
亜羽流の瞳は、透き通るほどに青いものであった。
すると、優しい風が吹いて山にある木の枝から落ち葉が散ってフワリと宙を舞った。落ち葉は、二人に引き寄せられるように泳ぐと足元へと落ちる。
亜羽流は、千里が山の中に踏み入れている事を思い出すと、千里の肩をそっと掴んで山の外へと押し戻す。
「えっ……」
「山には入らない方が良い」
千里は、山は鬼の住処だと言った亜羽流の言葉を思い出す。そして、山に入ると危険だと言う意味を理解した。
「あ、うん……」
千里は、そう返事をして自分の足元を気にすると、改めて亜羽流の姿を眺めた。そして思った。蘭国であった戦いの後、亜羽流に一体何があったのか? 今の傷が戦った時に付いたものには見えなかった。まるで酷く打たれたような傷である。
千里は、拷問を受けたような傷だと思うと、その顔色を変えた。
「本当に拷問を受けたのではないか──」
亜羽流は、山の中で千里を襲った鬼たちと対立をしていた。この傷は仲間を裏切った事に対する仕打ちなのではないか? そう考えると、亜羽流の姿に納得がいった。
「あっ、亜羽流、その傷──」
心配そうな顔で千里が言った。
「大丈夫だから」
「で、でもっ……」
「鬼は死なない」
「えっ……」
鬼は死なない──。
千里は、それを聞いて驚きと疑いの混じった複雑な表情を浮かべる。それは死ぬ事がないと言われた驚きと今にも倒れそうな姿の亜羽流との矛盾から来るものだった。しかし、鬼とはそういう存在なのだと言った亜羽流の話は、千里には常識の範囲を越える話だった為に何も言えなくなってしまった。
そよ風が優しく通りすぎた。
亜羽流の回復は人間よりもずっと早いものだった。
傷痕は未だに残っているが、流れていた血は止まると呼吸は正常に戻ろうとしている。
二人は、同じ岩に背もたれて座った。だがその位置は少し離れると隣ではなくわずかに違う。
その岩が丁度、山に入る境界線の中央にあったからである。
千里が左後ろに視線を向けると、亜羽流の横顔が見える。すぐ側に居る。それだけで、千里の鼓動は大きく高鳴った。亜羽流の存在を確認するように何度も振り返っている。
亜羽流は、何を話す訳でもなかったが千里の視線に気付くと時折、微笑んで見せた。それはまるで子供を見るような微笑みだったが、千里は凝視する事が出来ずに照れては視線を外した。だがこうして見ていると、亜羽流が人ではなく鬼だと言う事が千里には信じられないでいた。そして、亜羽流に対する気持ちが恋である事に──。
千里の初恋。それは人ではなく鬼であった。
だが、亜羽流が山の外に出る事はなかった。それは理由があった訳ではなく、亜羽流が千里たち……。人間側の世界に入る事で、また何か迷惑をかけてしまうのではないか? と、嶄鬼の言葉が亜羽流にそう思わせている。
しかし、千里から出た言葉は意外なものであった。
「……ねえ亜羽流。明日、私の国でお祭りがあるの。その──良かったら来ない?」
「えっ……」
「ほっ、ほら! 亜羽流、笛を吹いてたでしょ? 蘭祭は海を渡って他の国からもたくさんの人たちが来るから。蘭国だけじゃなくていろんな演奏があって……その……好きかなって」
「──」
蘭国の祭──。亜羽流は、その祭を知っていた。昔からそれを山の上から見ていたからだ。日が落ちると暗くなる山の中とは違って、蘭国のそれは暖かい光を放つと華やかな音を奏でていた。亜羽流はそれが綺麗で好きだった。そして、聞こえてくるその音たちに合わせるように何度と笛を吹いた。それだけではなく、亜羽流は昔、一度だけ祭に行った事がある。持つ笛は、その時に手に入れた物だった。その笛も今はもうない。愚邏堂との戦いで割れて失っている。
しかし──。
返事に困っている亜羽流に千里が言った。
「ほら! 蘭祭では他の国の人たちも居るし、亜羽流の髪の色も不思議じゃないと思うの。あ……そ、その角は隠さないと駄目だけど……でも! 頭巾か何かで隠せばきっと大丈夫だよ!」
だがそれでも、返事をしない亜羽流に千里は両手を合わせて懇願をした。
「ね! お願いっ!」
今にも泣きそうな千里の表情。
亜羽流は負けたように小さく頷くと、千里は満面の笑みを見せて大きく喜んで見せた。
だが、千里の考えは甘いものであった。忘れていた訳ではなかったが、舞い上がるあまりに少し見失っていた。亜羽流は、人の姿ではあるが人ではなく鬼であると言う事。鬼を招くと言う意味。
そして、知らなかった──。
千里が亜羽流と出会ってから少し後の事である。
灯馬たちは驚いていた。
戻って来た千里の着物の袖が破けていたからである。「何があった?」と真剣な顔で問い詰める灯馬に千里は笑いながら言った。
「ふふ……灯馬、亜羽流と会えたよ」
美しい笑顔であった。
灯馬は一瞬、その笑顔に目を奪われた。だが事件ではないと安心をすると「そうか」とだけ答えた。
すると、千里は嬉しそうに門の中へと入って行く。
そんな千里の姿を見送った灯馬の胸は、何故かズキリとして少しだけ痛んだ。
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