第9話 罠

 阿修羅の腕から流れ出る血。それは、確かに上右腕の機能を低下させた。完全に斬り飛ばす筈であった。だが、阿修羅の腕は肉の弾力を持ちながらも鋼のごとく硬いものだった。

 灯馬は、斬り取ろうとする中で咄嗟に刀を引いてしまった。手に伝わる感触から刀が折れそうな兆しを見せたからである。

「ちっ……」

 灯馬は、悔しそうに舌打ちをすると、自分の腕の未熟さにも気付かされる。一流であるならば刀を逃がすような真似はしない。だが、阿修羅の腕も使い物にならないであろうと言う確信もあった。それでも──。

 残りの腕は三本もある。

 致命傷でもない限り止まらないであろう。それどころか、阿修羅は上の左腕で傷を押さえて痛がる素振りをする反面、妖気とも言える禍々しい気配を増大させている。引き換え、灯馬の負傷は重症と行かないまでも相当なものであった。

 仮に同等の傷を負ったとして、その基本値、負傷による肉体の反応低下速度は雲泥の差がある。灯馬の頭の中で浮かんでは回る負の螺旋思考。

「まずい、どうする」そして「死」と言う言葉から想像される自分の姿。

 遮断したのは皮肉にも阿修羅であった。

「ククク、やるな。仕込んでるのは鉄か?」

 阿修羅は、灯馬が対策として黒装束の下に仕込んでいる鉄製の防具を見抜いた。それは、身体だけでなく手首を守る為の籠手こて、足のすねや胸など至る所に仕込んであった。

 灯馬の左手の籠手は最初の一撃で既に割れた。それよりも問題はアバラ骨の方だった。何本か折れたか。痛みだけでなく呼吸を奪う。

「……まあ、別に隠してる訳でもないけどな……」

 灯馬は、余裕があるように強がって見せた。

「なるほどな。やはりお前は、ただの護衛ではないようだ」

「……」

 灯馬は「もう痛みはないのか?」悠々と喋りやがる。そう感じながらも現状をどう切り抜けるか? 苦手な計算を巡らせていた。答えを求めるように田所を見るも、相変わらず立っているのがやっとの様子である。それでは駄目だ。田嶌たちを呼ぶか? 同じ事だった。それに、そうすると他は無防備となってしまう。

 灯馬が考えていると、阿修羅は上右腕のみをダラリと殺気なく垂らした。

「阿杜の言った通りだな。ここで邪魔になる敵はお前だけだ……」

「──!?」

 灯馬は、阿修羅の言葉にひっかかりを覚えると思い出す。

 阿修羅は、初めから仲間の存在を匂わせていた。潜んでいるにせよ、この状況の中で加担をしないのはおかしい。

 おとり──。

 灯馬は、自分が釣り出されたのだと今になって気付く。そこへピリリィッ──! 警笛が鳴った。灯馬が来た方角である。鳴らしたのは田嶌か蓮部か。

 灯馬たちの連携は音と共に崩れ始めていった。

「さあ、続きをしようか……」

 阿修羅は、笑みを浮かべながら三本の腕を大きく外へと開いて見せた。その姿は、名のある彫り師が作る石像のように見えると、今にも動き出しそうなほど大きく、灯馬の前に立ち塞がっている。

 灯馬を引き離す為の罠──。

 田嶌たちで鬼を防ぐ事は無理であろう。目の前に立つ鬼は、ここ数日に現れた鬼とは別格であった。

 灯馬の中で、次梟の警告が思い出される。それとは別に、狢伝の命令を少しだけ恨んだ。任務ではない。女一人、守れなくなるかも知れないと言う事。そしてそれが、千里かも知れないと言う意味。阿修羅は、引き返す隙など与えてはくれないであろう。

「くそっ!」

 灯馬は、刀を強く握りしめる。アバラがキシキシと泣いた。

「おっ、おおおおおぉっ──!」

 灯馬は、痛みを払うように雄叫びを上げると阿修羅へと向かっていく。



 ボウッババババ──

 火は強く燃え盛った。

 蓮部は、手に持った松明たいまつで先の畑に立つ鬼を照らしていた。その隣では田嶌が刀を持つと、鬼を牽制している。

 後ろには縁側。二人は、田所の警笛が鳴ってから家の入口に回ると灯馬とは逆方向へ足を運んでいた。そして、隣にある民家の屋根から畑へと降りる影を見つけると後を追った。おかしな話ではなかった。鬼たちが堂々と正面から姿を見せる筈もない。

 田嶌は、すぐに影を追い、蓮部は入口の篝火かがりびから火種を取って後に続いた。そして、二人はすぐに警笛を鳴らす事となった。しかし、それとは別に二人は鬼と対峙してすぐに思った事がある。

 それは自分たちが喰われる立場であると言う事。

 蓮部に至っては、ここに来た事を後悔していた。護衛? 冗談ではない。餌になるだけである。噂に聞く鬼撃退の話とは嘘ではないのか? とまで疑った。

 それほど恐ろしいものであった。

 形こそ人の姿を成しているが別物である。赤い肉体は隙間もないほど筋肉質な鎧で出来上がると、高さは大男の田嶌よりも随分と大きい。伸びた爪は鋭く、鋼よりも硬そうな爪は、人間の身体など一撃で引き裂いてしまうだろう。

 二本の角が頭から反って生えると、目玉は青く二つあった。口を開けずとも見える牙は、不気味に光る目玉と同じように輝いている。

 田嶌は過去に一度、鬼と遭遇した事があった。門番の任を終えて戻る際、他の護衛たちが追い払った一匹と遭遇したのだ。しかし、それとは比べものにならないほどの化け物である。

 大きな獣が化けた存在もの。田嶌にとって鬼とはそれぐらいのものであった。だが間違っていた。目の前の鬼は明らかに知能がある。そして今も自分たちをどう料理しようかと考えている。これが本当の鬼なのだ──と。

「……女は奥か?」

 寒気のする声であった。阿杜は、灯りの洩れる障子の先へ目を向けた。

 その瞬間である。

「おおおおぉっ!!」

 田嶌は、雄叫びを上げながら刀を振り上げると、鬼の存在を拒絶するかのように飛び出した。表情はひどく強張こわばっていた。

 パキンッ──

 割れる音が響いた。

 刀の刃がくるくると飛んだ。

 一瞬の静寂の後「あああああッ──!」叫び声と共に血が上がった。

 阿杜の爪は、田嶌の刀を一瞬で破壊すると、肉体までも切り裂いていた。

 空へと勢いよく上がる血は湯気を出すと、まるで噴き上がる温泉のようであった。

 蓮部は、そんな田嶌の背中を見て、自分の背に付けた弓を構える事も忘れると、ただ見ている事しか出来ないでいた。持った松明を落とさぬように強く、手が痺れるほど握りしめていた。

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