第23話

「この国の王子としては頷けない提案ですね。僕は決してあなたをセシルリアとは認めない。僕にとってあなたは悪辣たる『不老不屈』の魔女だ。そんなあなたを信用することは出来ない」

「道理だろうさ」


 苦笑するアルベルト様はしかし、と言葉を続けた。


「生徒会長としてはあなたを頼るほかない」


 差し出しされたセシルの掌にアルベルト様の手が重なると光が溢れ、一瞬の後に収まったそこには擦り切れかけた羊皮紙が浮かんでいた。


「特記事項に基づき、アルベルト・モンド・ベルンヘルツの名の下に呪いをほどき、契約を一時棄却し──彼の者に瞳を返却する」


 羊皮紙に刻まれた無数の条項の中から一文が輝きを放ち、また一文が薄れ、消えていく。

 二人が交わした契約。セシルは王国の庇護すべき民を守る事を誓い、精霊の瞳を封じた。けれど今、その契約を遵守するためには瞳を開かねばならない。故に特記事項において封ぜられた瞳を開く事が許可される。


「──確かに受け取った」


 閉じられた瞼が開かれる。

 その瞳は暖かな陽の色から、セシルの髪色と同じ、燃え盛る真紅に染まっていた。

 一変しているようで、けれど瞳の奥の輝きは変わっていない。私の知る、綺麗なままのセシルの瞳、柑子こうじ色のアナロガス。

 気付けば吸い込まれるように見惚れて、セシルを中心に吹き荒れた風に足を縺れさせた。


「っと」


 倒れかけて、セシルの胸に受け止められた。

 顔を上げれば真紅の瞳が私を見つめていて、吐息がかかりそうなほど近くに唇があって、何故だか顔が熱くなる。

 そんな私にセシルは柔く微笑んだ。無性に恥ずかしくなって、慌てて離れようとした私の肩をセシルが掴み、耳元に唇を寄せて囁く。


「この戦いが終わったら、さっき言えなかった続きを話すよ」

「ありがたいんですけどちょっと待って死亡フラグですからやめてもらっていいですか」

「なに、すぐに片づけて戻ってくるさ」

「もう分かってて言ってますよねそれ絶対!?」


 体を離し、この状況で性質たちの悪い冗談だと抗議すればセシルは悪戯気に笑う。


「優しくするより揶揄う方が良さそうだと思ってな」

「うーっ! うーっ!」


 両手を振って、全身で言葉に出来ない感情を示すけれど、セシルは何処吹く風。

 そのくせ、ひとしきり笑い終えた後には真剣な顔を見せるのだからずるい。


「……お願いします、セシル。みんなを助けてください」


 だから私も子供みたいに引きずるのはやめて、送り出すことにした。


「ああ」


 返答は短く簡潔。

 物語ではないこの世界で、主人公なんていないこの世界で、たった一人に背負わせるには重すぎる責任だと思う。

 都合の良い奇跡を願い、押し付ける無責任な言葉だと思う。

 だけど浮かべた笑みこそ凶暴で、魔女の如き悪辣さを孕んでいても、その後姿は悪役令嬢、セシルリアを思い起こさせる堂々たるもので。

 きっとこれが私ではないレイラが反骨と憧憬を抱いて目指した、彼女の背中なのだろう。

 学院を背に、月光を背負ってセシルは飛翔する。

 彼女の瞳にだけ映るであろう精霊たちが生み出した風に乗って、高く高く。

 それを追いかけて手を伸ばして、届かない掌を拳に変えて突き出した。




 ◇◆◇◆




 遥か昔に未開の地へと消えた同胞の匂いと声に呼ばれ、魔法学院の目前にまで迫った魔物たちに影が落ちる。

 平時であれば彼らにとって特別なものである月を隠す存在を許しはしない。だが、今彼らの目に映るのは古き同胞が待つ場所のみ。

 気に留める事すらせず駆け抜ける、はずだった。

 轟音と共に、群れの最後尾に続いていた一団が大地に呑まれ、消えた。

 彼らは歩みは止めず、しかし明確な敵意を持って月を睨む。

 だが彼らの瞳に映ったのは月光に差す影ではなく、月を照らす太陽に匹敵せんばかりの輝きだった。

 日輪と見紛うばかりのそれが炎球として放たれた魔法の一撃だと悟り、彼らの先頭を往く長が足を止める。全員が彼の麾下にある群れではないが、共通した目的意識の下、後ろに続く彼らも足を止めた。


「この先にお前らの求めるものはない」


 告げる声は齎された破壊とは裏腹に、幼子に語り掛けるように穏やかだった。

 けれど彼らの本能が警告する。我らを見下ろすあの影は、決して餌食などではない。

 口許に浮かんだ妖しき笑みは、脳髄を犯す甘い毒の声は魔性の其れに他ならない。

 それらを振り払うように、知性ではなく、理性ではなく、本能によって悪魔の如き魔女の誘いを打ち消さんと獣たちは咆哮を上げていた。


「言っても無駄か」


 悟りと憐憫の混じった声音。

 言葉は通じないと分かっていた。それでもセシルは語り掛けずにはいられなかった。


「お前たちに恨みがあるわけじゃないんだ。私は魔女の、師匠の弟子だから。たぶん、どっちかっていうとお前たちの側に寄った存在だからさ」


 グリムニルの下で過ごした四年間、それは魔物たちを隣人とした生活だった。

 生きる為、刈り取った命は無数にあれど、共に生き、友とした命もあった。


「この先には行かせられない。通せばお前たちは人を喰らうだろう。それは駄目だ」


 それでも、行われる蛮行を思えば選択の余地はない。

 此処に立つまで、セシルの人生は取捨選択の連続だった。

 捨てられないと決めていたものを捨て、取り残したものは随分と少なくなった。

 だからこそ、今に至ってなおも僅かに残ったものを、捨てることはしない。


「この身を人の営みの中に置き続ける為に、あの娘が健やかに生きていく為に」


 これだけはと定めた自身の絶対を掛けた天秤は逆には傾かない。

 自身に掛けた絶対の誓い。忘れもしない彼の日に取り戻すと誓ったもの。あの学院で新たに守り育てると誓ったもの。残った二つの絶対だけは取り落とさない。


「私には懸けられる命はない。敵対は許す。抵抗は許す。お前たちの全てを許すから──ここで死んでくれ」


 無慈悲に、無感情に、眼下の軍勢を無窮に叩き落とすと告げた。

 魔物たちの本能が警告する。我らを見下ろすあの影は我らを滅ぼす災厄そのもの。命を賭してなお届かぬ絶対者の片鱗を持つ者だと。

 同時にあれは魔に属し、魔を宿し、魔を操る者であっても我らとは違う、脆弱な人間と同じ肉体に押し込められた生ある者だと本能が理解する。

 触れれば容易にその生命活動を停止させられる。強大であってもまだ絶対には届かぬ存在。

 牙を、爪を、その身に突き立て命を摘めと本能が命ずるまま、魔物たちは己こそがあれの血を浴び、啜り、喰らわんと互いの体を踏み台にして天へと挑んだ。


 けれど、獣に天はあまりに遠すぎた。


「一番、二番、装填ロード


 杖の一振りの後、空中へと描かれる五芒星。

 通常、魔法の発動には杖も陣も必要とはされない。

 よほどの素人か、或いは複数の術者による大魔法に限り、その意識を束ねる為に使用される補助輪でしかない。

 だが天に立つセシルは魔法使いではない。この世界で唯一、魔女の弟子の称号を冠する者。

 彼女の魔法の行使はそもそも魔法使いとは異なる樹形、体系にあるもの。

 呪文による疎通は必要ない。想像による伝達は必要ない。

 そも、魔法使いとは目には見えない精霊の力を借り、形而上の存在を認めながらもそれらを形而下に貶め、発動するものだ。

 しかし精霊の瞳を持つ魔女にとって精霊とは端から自身と同じ形而下の存在にすぎない。セシルにとっては精霊を含めた世界の全ては0と1で構成される。

 人々の目に映らぬが故に形而の上に置いた精霊を、ひいては神を否定し、存在を形而下に引きずり落としたが為に彼女たちは排斥されたのだ。


発動ファイア


 魔女にとって精霊とは世界を構築する値の一つでしかない。世界に理解の及ばぬ場所は存在せず、神秘も存在せず。描く魔法陣数式は世界を分解し、再構築する。

 二つの式から導き出された現象回答もまた二つ。一つは炎、一つは水。

 まるで巣に水を流し込まれた蟻の如く、先頭の魔物たちは押し流され、僅かに迫った天への梯子を外され、地へ落ちる。それを埋めるように殺到する後続たちは二度と地を踏むことも叶わないまま、影すら残さず焼却された。


「三番、四番、装填ロード。一番、再装填リロード──発動ファイア


 新たに敷かれる二つの魔法陣。一つは風、一つは土。

 生じた竜巻が魔物たちを巻き上げ、生じた巨石によって圧殺される。

 届かない。三百を超える軍勢、ただの一匹の爪も牙も天にはまるで届きはしない。

 百を超える魔物たちを潰し、それでも巨石の落下は止まらない。

 魔物の血で赤く染まった表面が赤熱する。付着した血液を蒸発させ、血よりも赤く紅く燃え上がる。

 まるで太陽が落ちるかの如く、隕石となって地で群れる魔物たちへと飛来し、爆ぜた。


「悔恨後悔一切残さず燃えて、朽ちて、尽きて、果てろ」


 物量が質量によって押し潰される。天災に等しいその光景は、ただ一人の魔女による虐殺だった。


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