第21話

「来たぞ」


 人の良いアデル先輩はまだ思い悩んでいたようだけれど、セシルの声に反応して顔つきを変え、腰の剣を抜いた。

 不器用な人だと思う。でもその不器用さと実直さ、生真面目さが出番の少なかった原作でも人気が出た理由なんだろう。事実、私も少しくらりと来てしまった。本来、取るに足らないはずの私の事でさえ、こんなにも考えてくれているのか、って。

 そんな色惚けた思考を捨て去り、私も邪魔にならないようにと後退する。前衛にアデル先輩とセシル、中衛にアルベルト様、そして後衛役立たずに私。打ち合わせたわけでもなく、自然とそんな陣形が完成していた。

 木々が不自然に揺れ、獣の唸り声が何処かから聞こえてくる。そして私にも見えた。ひと際大きく木が揺れた後、この寮へと繋がる広場に等間隔に設置された光源である魔石灯の下に着地する、獣の姿が。


「っ……」


 息を吞む。

 王国には獣人の資料は大昔のものしか残っていない。かつて、魔女狩りが行われるよりも以前に魔物として迫害され、国土からは駆逐されたという事実だけが歴史書に数行の記録として残っていただけ。

 原作では単語だけでデザインも明らかにされていなかった獣人と聞いて、私は可愛らしいものを想像していた。

 でも目の前に現れたのは獣の耳に獣の尾、そんなステレオタイプの要素は確かに備えているけれど、その尾は巨大な体躯と同じほどに太く長く、血走った瞳と鼻と口が突き出た獣の貌、人の身を逸脱して肥大した体、その全身が茶褐色の体毛に覆われ、手足には制服だったものの名残として布切れが。それが余計に人に近く、しかし決して人ではないことを強調しているようで、恐ろしい。

 頭頂部に僅かに残る水色の毛だけが、獣が彼女プーカさんだと思い出させてくれた。

 笑いだしそうになる膝を止めようと腰に差した杖を抜く。未だに治癒以外の魔法の発動には成功していない。それでも丸腰でいるよりは心強かった。


「もう手は出した後だが、念のための確認だ。今のこいつは契約の対象外でいいんだな?」

「勿論。彼女を正気に戻すことこそ、民を守る方法でしょう」

「そうかよ。別にどうなろうが知ったことじゃないが……降りかかる火の粉は払うだけだッ」


 暴! と離れた背後にいる私の元にまで届く熱風と魔石灯など及びもつかない強烈な揺らめく光に目を覆う。

 恐る恐ると覆う手の隙間から窺えば、セシルの左手が炎に包まれていた。

 左手、正確には左手に携えた身の丈ほどの巨大な杖がその身を燃やし、天を焦がさんばかりに炎を上げている。

 炎に包まれ、熾火おきびの如く赤黒く発熱した杖を握るセシルの手が灼かれた様子はない。

 ただの火じゃない。ただの火起こし、精霊による燃焼ならばその炎は灼くものを選ばない。セシルが携えるそれは、まるで火の精霊そのものみたいだ。

 ぐるるる、と低い唸り声。炎を恐れるのは獣も獣人も同じかと思えば、しかし彼女の目に怯えは見えない。警戒してはいるのだろう、けれど退くつもりはない。何故なら炎の輝きを目の当たりにしても、彼女の瞳は私を射抜いているのだから。

 彼女にとって私はモネ好みの味付けがされた生肉でしかない。獰猛な獣性を宿した瞳には理性の光は見つからなかった。


「アデル、アルベルト」


 その瞳から私を隠すように──そう思うのは自意識過剰だろうか──セシルは炎を薙いだ。

 照らされ、炎粉を纏うセシルの黒髪。その中に混じる赤毛は記憶にあるセシルリアと同じように映えて、或いは眩い炎の中にあってなおも決して染まる事のない黒髪こそが輝いているのかもしれない。


「大事な生徒を燃やされたくなかったらお前らが止めろッ!」


 飛び出したセシルの振るう炎が彼女を灼くことはなかった。

 セシルたちを排除しなければ好物にはありつけないと悟ったのか、彼女の瞳はセシルを捉え、人間ではありえない跳躍によって炎熱の領域から脱していた。


「言われなくとも!」


 アルベルト様が右手を突き出す。それだけで私の背後から暴風と言って差し支えない風が彼女に向かって、アルベルト様の意思のままに襲い掛かる。

 空中でそれを受け止めることになった彼女は着地を見定めていたのだろう魔石灯から逸れ、地面へと落下するほかない。

 そしてその着地点には既にアデル先輩が剣を振りかぶっている。彼女に向けているのは両刃剣の刃ではなく、返した腹、鈍器としてしか機能しえない部分での平打ち。

 私が感じるのは安心と感心だった。

 変わり果てた姿となってもアデル先輩は斬り捨てることを良しとしていない。それはアルベルト様も同じで、そうするように忠告したセシルだってそうだろう。

 私は剣など振るったことはないし、魔法の杖だってお守り代わりの飾りでしかない。だけどもし彼女と戦うことになったのなら、凶器を向けられただろうか? 助けたい気持ちは私も変わらない。だけど身の危険を感じながら彼女を止める事を考えて戦えただろうか?

 出来なかったはずだ。自分の身を守る事も出来ず、彼女の命を奪う事も出来ず、私には出来ないとを向けることを諦めていたと思う。

 もし此処よりも前に立っていたら、私はきっと何も振るえないまま、私には出来ないと嘆きながら彼女の牙を突き立てられ、爪に切り裂かれていた。

 主人公レイラであったなら、どうしただろう。誰かを傷つけるなんて出来ない娘だった。そこはたぶん、今のレイラと変わらない。

 だけど私が幻視した光景をなぞることはしなかったと、漠然と思う。

 私はレイラだ。主人公ではない、ただのレイラ。

 そんなことは分かっている、思い知らされている。でも、だけどそれは、流されることを良しとする理由にはならない。主人公になれずとも、現実に嘆くだけでいちゃいけない。残酷な現実を前に、立ち向かわずに受け入れる理由にはならない。

 戦える力が欲しいわけじゃない。ただ、立ち向かうだけの力が欲しい。それを手に出来たなら私はきっと、セシルに胸を張れる気がするんだ。


「ぉぉぉおおおおおおッ!」


 先輩の剣が彼女の頭を捉えた。

 着地を待たず叩き落とされ、その衝撃で大地が揺れ、先輩と彼女たちの姿を砂埃が覆い隠す。

 素人目でも分かる、意識を刈り取るには十分すぎるほどの一撃だった。


「──ッ!」


 けれど、砂埃の向こうから聞こえてきたのは事を為した会心の声ではなく、驚愕の吐息。

 何が、と目を凝らした瞬間、砂塵を吹き飛ばしながらアデル先輩が私たちの前まで後退した。


「理性をなくした獣と侮ったつもりはなかったが……」

「先輩……っ!」


 何が起こったのかはすぐに分かった。刃毀れ一つなかった剣に深く、はっきりと獣の歯形が刻まれていた。手足を使う事なく、強靭な牙であの一撃を防いでいたんだ。

 そして先輩の皺一つなく着こなされていた制服は肩口から切り裂かれ、覗く肌からは血液が溢れ、地面に垂れ落ちる。

 それを目にした途端、私の喉はしゃくりあげるような音を出して、呼吸が苦しい。心臓が掴まれたみたいにぎゅっと痛んで、息することが難しい。

 強引に詰まった息を吐きだして、平時の呼吸を取り戻した。


「っ、あ、す、すぐに治癒を!」

「構うな! 終わった後でいい!」


 普段のアデル先輩からは想像のつかない怒号に似た叫びに、駆け寄ろうとした足を止めた。

 先輩の言う通りだ。今、足を止めて治癒をかけてどうなる。メインディッシュであろう私に先輩という副菜が添えられるだけだ。


「殿下、彼女と後ろへ!」

「ああ」


 アルベルト様が私を手で制しながら、距離を取るべくさらに後退する。

 伸ばした手が遠退いていく。惜しむその手を握りしめて、私も自分の意思で足を後ろに進めた。


「らぁッ!」


 喉を鳴らし、品目を見定める彼女の背後から炎が迫る。

 剣の刃も腹もないそれに当たれば意識どころか鼓動さえも摘み取ってしまうであろうその一撃を放つセシルに、私はやめてと叫ぶことも出来ない。


「ぐっ、ぎ!」


 しかし、その一撃も彼女には届かない。

 四つ足で立つその巨体の右足が炎が身を焦がすよりも先に、セシルのお腹へと到達していた。

 とっさに体を捻ったのか、鋭い爪はセシルを抉る必殺の一撃ではなく、足の平による蹴りに留めていた。

 それでも無事で済むはずがない。たとえ魔女だろうとその弟子だろうと、セシルの体は普通の女の子と同じなんだ。


「っ、はぁ……」


 地面に突き立てられた炎が勢いを殺し、セシルの体が木の葉のように宙を舞う事はなかった。でもその表情は険しい。

 今すぐにでも駆け寄って、治癒を施したかった。

 でも彼女がそれを許してはくれない。再び彼女の獣の瞳は私を捉えて離さない。


「正気を失えばただの獣と同じと思っていたが、どうにもやりにくいな。理性は飛んでも知性は僅かに染みつき残ったか? 本能的で、だがだからこそ合理的。若い個体でこれなら魔女より以前に排斥されたのも頷ける」


 押さえたお腹はきっと私には想像も出来ない痛みを訴えているはずなのに、セシルは饒舌だった。

 黒と赤の髪の隙間から覗く柑子こうじ色の瞳は普段と何も変わらない。私に二度見せた羨望の、儚い光ではなく、理性と知性を宿した燦爛さんらんとした輝きが灯され、普段、変化に乏しい口許は弧を描いている。


「だけど、ああ──足りない。追い立てられ、外へと逃げるしかなかったお前たちじゃ、ただの一人となってなおもこの国に巣食った魔女、その弟子には届かない」


 引き込まれる。

 まるで魔女の如きセシルの妖姿。おとぎ話のグリムニルを思わせる、子供なら震えあがるだろうその姿が、私には頼もしく見えた。

 それは彼女がグリムニルではなく、セシルであるからだ。物語としてではなく、僅かであれ現実を生きるセシルと過ごした時間があるからこそだ。


「降り注げ、石の礫!」


 セシルの様子に気を取られたのか、彼女の意識が逸れ、その瞬間にアルベルト様の土の魔法が発動した。

 背後で土が隆起、アルベルト様の意思に従い弾丸となって打ち出される。

 たとえ不意打ちであっても石の弾丸程度では彼女の体毛を貫くことは敵わない、だがアルベルト様の狙いはそれではなかった。

 打ち出された弾丸は彼女の四肢に着弾すると砕けるのではなく、地面へと彼女の手足を埋め立て、土へと還る。

 一瞬の足止め、その一瞬を余さず、アデル先輩は肩から流れる血もそのままに彼女へと既に肉薄している。


「うっ、おおおおおおおッ!」


 砂埃の中で起こったであろう光景、その焼き直しの如く先輩の剣は牙でもって受け止められた。

 しかし同じ過ちは繰り返されない。先輩を切り裂く爪はこの一瞬だけは封じられているのだから。

 怪我を負っているとは思えない気迫と雄叫びを上げ、先輩は打ち上げるかのように受け止められた剣をそのまま、強引に振り上げた。

 土くれの拘束が破られると同時、彼女の巨体が宙返りするように浮く。そして先輩の剣が牙に対抗しきれずに中ほどから砕け、折れる。

 バランスの取れない空中で、もがきながら爪が振るわれる。一つでも浴びれば人体を切り裂き、切り飛ばす爪撃に対して先輩が取ったのは後退による逃避ではなく、前進による回避だった。

 剣を投げ捨て、爪と爪の軌跡の間に滑り込み、今も剣を噛んだままの下顎に手を添え、そのまま剣を振るった時と同等、いやそれ以上の力と勢いで彼女を地面へと叩きつけた。


「呑み込みッ、縛れ!」


 だが今度上がったのは砂埃ではなく、泥のような粘土と流動性を持って盛り上がった大地の壁。

 アデル先輩も腕も巻き込みそうな勢いで彼女の全身へと殺到し、その自由を奪い、縛り付けていく。

 それでも彼女の抵抗により、ぐにゃぐにゃと不定形に形を変えながらもやがて定まり、大地へと還る。仰向けに倒れる彼女の首から上だけを地上に残し、彼女の体は完全に大地の下敷きとなっていた。


「終わった、んですか……?」


 グルルル。脱力しかけて、彼女の低い唸り声に気を張り詰める。

 けれどアルベルト様は突き出していた右手を私の肩に置くと、息を吐いて微笑んだ。


「大丈夫です。いくら怪力でも四肢全てを大地に埋められれば身動きは取れません。怖い思いをさせてすみませんでした」


 見ればセシルも炎を消化し、アデル先輩も警戒こそ続けていたが肩の傷を押さえ、膝をついていた。

 アルベルト様の優しい声に今度こそと安心し、脱力しかけた体に気合を入れて、二人に駆け寄る。終わったのなら治療をしなくちゃいけない!


「セシル、先輩! 大丈夫ですか!? 今すぐ治しますから!」


 目に見えた怪我をしているのは先輩の方。セシルも重傷を負っていてもおかしくはないけれど、出血は見られない。まずは先輩からだ……!


「すまない……頼む」


 申し訳なさそうな呟きを無視し、患部に集中する。

 血は今も止まっていない。でも見た目ほど深い傷じゃない。肌はぱっくりと裂け、肉が見えていても骨までは覗いていない。流れ出た血の補填は少なくとも今の私には出来ない。ならイメージするのは患部の消毒と縫合だ。

 白い部屋と鼻を刺すアルコールの臭いを想起し、消毒の痛みを緩和する為に単純な治癒魔法を並行して発動、麻酔の代わりにする。

 痛み全てを緩和することは出来ず、先輩の息がかすかに乱れたがそれに構うわけにはいかない。無視して治癒を続行した。

 目に見える傷だからだろう、治癒自体はスムーズだ。逆回しするように見る間に傷は塞がり、アデル先輩の肩は表面上は元の姿を取り戻していく。

 そうして流血の痕が残るだけになるまで治癒魔法を行使して、額から流れる汗を拭った。

 ここまでの怪我を治癒した経験はない。精々が擦り傷切り傷ぐらいだ。不安もあったけれど、私の魔法はだいぶ成長している。少なくともこれだけは主人公としてのレイラにも負けていない。

 きちんと医務室で診てもらうまでは右腕を出来るだけ動かさないように先輩に言い含め、次にセシルを治癒しようと立ち上がった。


「サーキスに騎士団と連絡を取るよう手配してあります。夜明けを待たずに到着するでしょう。ご苦労だったね、アデル」

「不覚を取りました。申し訳ありません」


 アルベルト様の労いの言葉にも謙虚な反応を示す先輩の声を聞きながら、魔石灯に背を預けるセシルの元へと近寄る。

 顔色は悪くない。先ほど彼女を前にして見せた雰囲気も霧散して、普段通りの無表情に戻っている。やせ我慢の可能性もあるから、しっかり治癒するまで安心は出来ないけれど。


「……大丈夫か?」


 だというのに、セシルが口にしたのは私を案じる言葉だった。流石に呆れてしまうし、少し怒りもする。

 怪我人はセシルの方なのだから、こんな時まで保護者お姉さんぶらないでほしい。


「化粧で隠れてるけど血の気が引いてる。怖い思いをしたからか? それとも血を見たせいか?」


 そういえば汗を拭った時、随分とひんやりとしていた。

 セシルの言っていることも嘘ではないんだろう。だけど今は治癒に専念させてほしい。

 さっきからセシルリアの最期の光景スチルが頭を過ぎって離れないんだ。原因はそれだと思うから、セシルが元気になってくれればすぐに不安もなくなるはずだ。


「……分かった。頼むよ。大したことはないけど、それでも今の内に治さないと痕が残るかもしれないから」

「任せてくださいっ」


 地面に膝をつき、セシルの制服をがばりと捲りあげて患部を確認する。赤く、痛々しく腫れあがっている。ただの打撲で済んでいればいいけれど、骨が折れているかもしれないけど、素人の私では触診で判断はつかない。

 アデル先輩と同じく、出来る限りの治癒を施して、後はちゃんとした治療を受けてもらうのが最善だろう。

 と、セシルの体がぷるぷると震えていることに気付く。やはり痛みをやせ我慢していたんじゃないかと咎めるように見上げる。


「お、お前……場所を考えろ……」

「場所?」


 苦痛に歪んでいるわけではなかったが、セシルの頬は赤く染まっていた。その反応と言っている意味が分からず、首を傾げてしまう。

 するとセシルは顔を手で覆い隠し、大きなため息を吐いた。呆れというよりは口を出そうになった言葉をどうにか呑み込み、その代わりに吐息として吐き出したように見えた。


「悪気がないのは分かった。……盗み見るような奴はいないしな。けど手早く済ませてくれ……」


 初めて見る表情が気になったけれど、セシルの言う通り、治癒するのが先だ。

 もう一度任せてくださいと胸を叩き、それに応えた。

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