第19話
取り落されたグラスが割れる甲高い音。それに続く動揺の声。
ホール内のそこかしこで聞こえる、私もその一人だった。
「何事ですのっ!」
私の周りでは唯一エルザ様だけがグラスを落とすことなく、動いていた。
砕け、散ったガラス片で私が傷つかないように制して肩に手を置き、視線を彷徨わせ、すぐに一点に定まる。
視線の先に立つのはアルベルト様とアデル先輩。
「全員落ち着け! 会長の下に集合しろ! 怪我をした者は報告を!」
一歩前に出たアデル先輩の号令。
動揺が広がるホールの中にあって、お二人だけは取り乱すことなく事態の収拾に動き始めていた。
困惑と混乱は収まりきらない、けれど生徒たちは余すことなく先輩の声に従い、集う。
「怪我をした者はいないようですね。突然の事でしたが皆さんが冷静でいてくれたおかげでしょう。今年の新入生はやはり有望だ」
未だみんなの胸中に燻る不安はアルベルト様の微笑みが齎す陶酔と安堵で覆い隠される。
いきなりで、何が起こったのかは分からない。でもこんな時だけど、アルベルト様の、未来の国王陛下の片鱗をまざまざと見せつけられた。
「サーキス、ラビ」
表面上の落ち着きを取り戻した後、アルベルト様は生徒たちの中から二人の名前を呼ぶ。
ホールの中央に集まった生徒たちの両端に立っていた彼らもまた、アルベルト様たちと同じように毅然とした様子で私たちの前に立つ。
「夜会に参加した生徒たちは全員無事だ。まずは教員たちに報告を。今夜、此処を使うことは以前から申請していた。この場に教員たちが駆けつけてこちらに人手を割くよりも今の咆哮の正体を探ることに注力してもらいたい。それに学生寮だ。上級生もいるとはいえ、生徒会は全員こちらに参加している。統率が取れていないかもしれない」
生徒会の副会長と生徒会の紅一点の書記。
華奢な印象を受けるけれど、魔法の実技での実力はアルベルト以上と噂される水色の髪の魔法使い、サーキス・ヴァイス様と私以上に小柄な体格で、しかしその頭脳には私の何十倍もの知識を蓄えている色素の薄い桃色の髪をしたラビ様。
アルベルト様たちとは別に紛れるようにこの夜会に参加していたんだ。気付かなかった。
お二人は疑問も異議も挟まず、無言で頷くとすぐに駆け出し、ホールの外へと消えた。
「アデル、君は出入口の前で警戒を。頼めるね?」
「はっ」
アルベルト様の命に従い、アデル様もまた動き出す。
迷いのない足取りで何者が潜んでいるかも分からない夜の闇が広がる講堂の外へと向かって。
「皆はこの場で待機を。せっかくの席に水を差されてしまいましたが、すぐに原因も分かるでしょう。安心してください」
その言葉は胸に溶けるように染み渡る。大丈夫だ、安全だと私たちの緊張を解きほぐす。
……大丈夫。こんな
私たちは何が起こるか分からない現実に生きてるんだ。そして何が起きたとしても、アルベルト様たちなら大丈夫。
「立ったまま待ちぼうけというのも大変ですし、腰を落ち着けて吉報を待つとしましょう」
アルベルト様が手を振り上げ、それに応えるように壁際に置かれていた無数のソファが私たちの周囲へと宙を浮かんで移動し、少し離れた所には給仕をしてくれた使用人たち用にも椅子が集まっていた。
風の魔法、呪文もなしに手の動きだけでこんなに正確に精霊たちと疎通できるなんて、やっぱりアルベルト様はすごい。
背後に鎮座したソファにみんながおずおずと腰掛ける。腰が深く沈み込む実家にあるどれよりも上質なソファだけど、流石にこんな状況じゃリラックスはできないや。
でも詰まっていた息が口から漏れて、脱力する。本当ならこんな風に気を抜くべきじゃない。本当の安全が保障されるまでは気を張っておくべきなんだ。
だけどこれで少し余裕を持てた。何事もないだろうけど、無事を確かめたくてまたざわつき始めた生徒たちの中から、フェリアの姿を探す。
私と同じようにソファに腰掛けるフェリアを見つけて、今度こそ安堵の息を漏らした。
そしてフェリアの隣にはこの騒ぎの直前まで一緒にダンスをして、歓談していた男子生徒の姿もある……んだけど、なんだか様子がおかしい。ずっと俯いたままだ。
するとフェリアも私に気付き、表情を変えた。耐えきれないぐらいの不安を感じているわけでもなく、互いの無事を確認出来て安心した風でもなく、なんというか申し訳にも見える、そんな微妙な表情。
「レイラさん、
「は、はいっ」
先んじて立ち上がったエルザ様に続き、私もフェリアの元へと向かう。
エルザ様が動いてくれたおかげで変に目立たずに済んだ。
「フェリア、大丈夫?」
「うん、あたしはなんとも。ただ、彼がちょっとね……あの、レイラ」
「怪我は誰もしていないそうだけど、もしかして具合が悪いの?」
こんな事態に陥った経験なんて彼にもないはずだ。緊迫した空気に当てられ、体調を崩してしまったのかもしれない。
容体を確認しようとして、フェリアが声を潜めて呟く。
「治癒魔法って酔いにも効く……?」
「……はい?」
思わず聞き返した私に、フェリアはちらりと俯く彼を尻目にして言葉を続けてくれた。変わらずの微妙な表情だけど、呆れが混じっているようだった。
「その、今夜あたしを誘う為に気を大きくしようとして葡萄酒を飲んでいたみたいなの。それが今の騒ぎで意識ははっきりしてるんだけど、飲んでたお酒のせいで体調を崩したのよ。慣れないお酒と慣れない状況のせいでしょうね」
それを聞いて私もフェリアのような微妙な表情を浮かべてしまった。
フェリアを口説くのにお酒に頼ったことを不甲斐なく思うべきか、お酒に頼ってでもフェリアを口説こうとした意気を認めるべきか、判断に悩むけど。
「こんな状況じゃ流石に言い出せなくて……どう? 治せる?」
「怪我と違って目に見えない体調は出来るか分からないけど、やってみるよ」
「ありがとう」
これがまだ頭痛や腹痛といった、私にも覚えがある不調なら治すイメージも浮かびやすいんだけど、私はお酒飲んだことないからなあ。
彼が苦しんでるのは頭痛と吐き気だろうから、意識するのはそっちにして……いやでも酒気が残ったままじゃ意味がないか。
酒気、お酒、アルコール……。
アルコール? そうか、それなら出来るかもしれない。
果実の混ざったお酒は知らずとも、アルコールの香りは私にとってこれ以上なく身近な存在だった。それは前世を回顧する度、記憶の中ではいつもついて回る身に染みついた香りだから。慣れ親しんだ、なんて嘘でも言えないけれど。
目を閉じればすぐにあの光景が思い浮かぶ。瞼に焼き付いて──体は違うけれど──消えない、あの真っ白な部屋。足音がよく響くリノリウムの床、広い建物の中、何処へ行っても消えないアルコールの臭い。
「……うん、いける。大丈夫。すぐに治してあげますからね」
胸の奥がずんと重くなる、指の先が痺れる。喉の奥から乾きがあがってくる。体がぺらぺらの紙切れになったような、薄いカッターの刃に変わってしまったような、そんな錯覚。
……ほら、こうしたらすぐに思い出せるんだ。だから大丈夫。精霊にだってはっきりと伝えられる。
彼の中に残っているだろう、この鼻がつんとする香りを外に出してあげればいいだけなんだから。
◇◆◇◆
女子寮内に轟き響いた咆哮に机へと向かっていたセシルは不機嫌に眉を顰めた。
薬瓶の中身が叫びに波紋を起こし、納まり、そしてより強い轟音、破壊音の衝撃に液体が跳ねる。
それでも構う事なく作業に戻ろうとして、廊下が騒めき、悲鳴がそこかしこから上がるのを聞いて舌打つ。
「何の馬鹿騒ぎだ、クソ」
忌まわしげな溜息。苛立ちを隠すことなく立てかけていた杖を手に取り、廊下へと続く扉に手を掛けた。
扉が開かれれば煩わしい喧騒が直接耳を打つ。
同様に何事かと扉から顔を出す者たち、彼女たちはセシルと目が合うとすぐに不快そうに表情を硬くする。
知った事ではないと無視してこの騒ぎの元凶へと歩みを進める。一歩進むたびに悲鳴は近く、体が痺れるような威圧感が強く変わる。
角を曲がれば元凶から逃げ出してきたのだろう、数人の女生徒が必死の形相で駆けてきた。セシルのことなど目に入っていない、突き飛ばす勢いで逃げ惑う彼女たちを躱す。通り過ぎざま、飽きる程に嗅いだ香りが鼻先をかすめていった。
腰を抜かした生徒、怯えて身を寄せ合う生徒、震えながら後ずさる生徒。曲がり角の先、瞳だけを動かしてそれらを一瞥し──その中にはミーシャ・コンスロートも混ざっていたが興味はない──やがてその先で蹲る元凶を認める。
無様を晒す生徒たちと同じ制服に身を包んだ人型でありながら人ではありえない深さの体毛、人であるならば出さないであろう餓えた呻き声。
その人型の獣のそばには粉砕され、木片と化した扉の残骸が散らばっている。不本意に役目を終えた扉が元あった部屋から窓も同様に破壊されたのだろう、風が吹き込み、セシルのマントをなびかせた。
まだ肌寒い夜風を吸い込んで、溜息として吐き出す。大げさに上下に揺れた肩がセシルの心境を現していた。
萎えた自身を奮わせるように身の丈を超える杖先で廊下を叩く。
「貴族様、此処は危険ですから下がってください」
努めて丁寧に、けれどその言葉に気遣いなど乗ってはいない。
動いたのは身を寄せ合い、固まっていた生徒たちだけだった。セシルの慇懃無礼な態度を咎める余裕は彼女らには残っていない。発声の仕方を思い出したように悲鳴を今更に上げて逃げ出した。
立ち上がることの出来ない残された数人の生徒たちを助け起こして伴わなかったことにまた溜息を吐き、仕方なしに人型の獣へと躊躇わず距離を詰めた。
近づくセシルを睨む瞳は血走り、唸り声はより低く獰猛に変わる。
顔の輪郭も獣らしく尖ったマズルによって変わっているが、まだそれが誰であったのか面影が見えたが、それだけだ。正気を保っているようには思えない。
獣らしい四つん這い、後ろ脚を上げた警戒態勢を取った
あと一歩踏み込んでいれば彼女から動いていただろうが、自然体を崩さないセシルと杖のリーチ故に警戒から戦闘へと移る動作が間に合わなかった。
「な、なんて野蛮な!?」
「叫ぶ元気があるならさっさと逃げてくださいな」
きゃいんと小犬のような鳴き声を上げて仰向けに吹き飛んだ彼女を見て、腰を抜かしていたミーシャが思わず叫んだ。
それをあしらい、他人事として避難を促しつつセシルは再び彼女へと近づく。
人体を殴打した嫌な感覚は杖越しに手にこびりついたが、意識を飛ばすには至らなかったらしい。彼女はすぐさま体勢を整え、セシルへと飛び掛かった。
剥き出しとなった犬歯、鋭く伸びた爪、そのどちらもが触れただけで人間の柔肌を切り裂くには十分すぎる鋭さを持ってセシルを襲う。
再び杖を順手に持ち替え、槍に見立てて丸みを帯びた穂先で彼女の胸を抉らんと突き出す。
人であれ獣であれ、翼を持たない以上は空中で制動は効かない。杖は吸い込まれるように胸を打ったが、彼女は吹き飛ぶことなく痛みに耐えて杖を掴み、噛みつかんとして吠える。
杖に伝わる力がどんどんと強くなる、気を抜けばすぐにでも弾き飛ばされてしまいそうな獣の力、さらには力だけではなく、空中に押し留めている彼女自身の重さも加速度的に生え揃っていく体毛に合わせ、体積が変化していっている。
数瞬の後には押し切られると悟ったセシルは杖を引き、眼前へと迫った牙をどうにか首を捻って躱すと一気に杖を押し出した。
その反動に合わせ、自ら身を引いた彼女は先ほどよりもさらに遠くへと吹き飛ぶ。だがそれはより最適な助走の距離を与えたということ。
すぐさま飛び掛かり、今度こそと自身を狙う彼女との距離は一瞬で縮まる。その一瞬でセシルは軸足を引き、正面から斜めに体勢を変えた。
そして横にした杖で飛び掛かる彼女の牙と爪から自身を守りつつ、しかし力には逆らわずに身を任せ、廊下を蹴った。
彼女の勢いのまま、セシルの視界は横に流れていく。このまま押し倒されればもう逃れることは出来ない。
だがセシルの背を打つのは地面ではなく、豪奢な装飾が施された窓ガラスだった。
甲高い音と共にガラスを突き破り、セシルの身が夜空に投げ出される。ミーシャは恐怖と驚愕に口元を覆い、目を見開き、落下していく二人を見送ることしか出来なかった。
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