第9話
セシルをセシルリアと呼んだエルザ様なら、きっとセシルの希望となってくれる。
そう、思ったのに。
「まさか。私をかの有名なセンティリア家のご令嬢と見間違えになるなど、ゼスリンクス様はお疲れのようですね」
セシルの言葉に、声に、表情に、動揺はなかった。
まるで動じず、まるで揺るがず。私が彼女をそう呼んだ時に覗かせた困惑も驚きも見せず、平坦な口調でセシルは慇懃に返答した。
どうして。
「え、ええ……そう、そうですわね。あの子は今も領地で静養中の身……
どうして。
そんな簡単に退いてしまうんですか。
あなたは間違っていない。セシルは確かにセシルリアなのに。
あなたが思わず呟いてしまった名前こそが、彼女の本当の名前なのに。どうして。
いや分かってはいるんだ。セシルが平民になっているという事は、彼女の家族にも呪いが通じてしまっているという事。
それなのにどうして同じ公爵家というだけで、どんな繋がりがあったかも分からないエルザ様に通じないと言えるだろうか。
流石にそう上手くはいかない、かぁ。
「お名前を伺っても?」
「セシル。貴族でもない、ただの平民のセシルでございます」
「そう、貴女が。
魔法学院に入学した初めての平民、その一人であるセシルの事はエルザ様もご存知だったようだ。
少しだけ表情が硬い。他の大多数の貴族のように嫌悪を示す事はないけれど、エルザ様にとっても、平民の存在は受け入れ難いものなのかもしれない。
「このお店を選ぶなんて、良い目を持っていますのね、セシルは」
しかし歯牙にもかける必要のない平民を相手に会話を続けるのは、やはりエルザ様の人柄なのだろう。
うん。別にいいじゃないか。今は平民と貴族、先輩と後輩の関係でも。そうして新しい関係を築いて、それを踏まえてまたいつか、公爵令嬢同士の関係を取り戻せば。
「お褒めに預かり光栄でございます。けれど
だというのに! なんでセシルはそういう事を言うんですかね!?
学院がいくら平等を謳っていても
ほらエルザ様の眉がぴくってなった!
「……そんなことはありませんわ。店主のルーナとは長い付き合いです。彼女の人柄も、彼女の作る品の出来も良く知っています。彼女が薦めてくれたこれも、他所の一級品に劣らない出来ですわ」
手に持っていた香水の瓶を見つめ、それ以上のこの店を貶める発言は許さないとエルザ様がセシルを睨む。
私だったら足が竦んでしまいそうな鋭い眼光に晒され、それでもセシルは退こうとしない。
「それならば良いのですが。公爵家の娘となれば身に着けるもの一つ取っても気を使わなければならないでしょう? 良くお考えになられた方がよろし──」
「すいませんエルザ様! ちょっとセシルをお借りします!」
これ以上セシルの口を開かせちゃいけない。強引にセシルの手を取り、頭を下げてエルザ様から引き離す。
私の行動も大概失礼だけど、このままセシルに話を続けさせる方がもっと大変な事になる……!
「……なに」
「なに、じゃないですよっ。相手は現役公爵令嬢なんですよ!?」
強引に店先まで連れ出したセシルが何を考えているのか、その表情からは何も読み取れない。
いや、ただ面倒臭いと思っているのだろうことだけは分かった。
「それで?」
「それで、って……」
面倒臭い。それは私に対してだろうか、それとも私を含めた全部に対してなのだろうか。
私相手だけなら別に構わない。セシルに、セシルリアに好意的に接せられない事は最初から覚悟できていた。
でももしも全部にそう思っているのだとしたら、それは……辛い。
「自暴自棄になるのはやめてくださいっ!」
「あんたには私がヤケを起こしてるように見えるのか? 別にそんなつもりはないんだけど」
「ヤケになっているんじゃないのなら、私にはセシルがエルザ様に嫉妬しているようにしか見えません!」
かつて自分が持っていた物を持つ、エルザ様への嫉妬としか思えない。
……無理もないと思う。私の知るセシルリアは傲慢であったけど、公爵令嬢という地位に誇りを持っていた。その誇りと自負故に原作の
けれどそう思えるのは私だけだ。セシルがセシルリアである事を知る私だけなのだ。
他の人から見たらただの平民が貴族に無礼を働いているだけ。
いくら学院が平等を謳っていても、公爵家に盾突いた平民を守ってくれるとは思えない。学院内であっても身分制は未だ揺るがない。
「嫉妬、ね」
「セシル、いいえ、セシルリア様……あなたを平民に貶めたグリムニルの呪いは絶対に解いてみせます。だから諦めないでください。私じゃ頼りないかもしれないけど、アルベルト様やみんなの力を借りればきっと……!」
私の言葉が今の冷え切ったセシルの心に届くとは思っていない。
でもせめて伝えておきたかった。原作がどうあれ、私はセシルの、セシルリアの味方だと。
「──ははっ」
そうして縋るようにセシルの両肩を抱いて訴えて、返ってきたのは乾いた笑い声だった。
「あんたは眩しいなあ」
赤と黒の髪の間から覗く
見間違いじゃなかった。でも、なんで? どうしてセシルが私にそんな目を向けるの?
「あんたが私と
「師、匠……グリムニルが……?」
その瞳に吸い込まれるように目が離せなくなっていた私の耳に、聞き逃せない言葉が届く。
グリムニルが師匠? それは、どういうこと?
そんな設定、そんな関係、私は知らない……。
五年前のはグリムニルのせいじゃないの? そのせいでセシルリアは平民になったんじゃないの?
「あんたは確かにありえたかもしれない未来を識っていたんだろう。けどもうとっくにその未来からは外れているんだよ。この世界はゲームじゃないんだ。いつまでもそうやってゲーム感覚でいると、そのうちもっと大切な何かを見失うよ」
「そんなっ、私はゲーム感覚でなんて……!」
そんなつもりない。
キャラだとかイベントだとか思ってはいても、それは本心からじゃない。
セシルリアもフェリアもアルベルト様も他のみんなも、キャラなんかじゃない、ちゃんと今を生きている人間だと知っている、分かっている!
……でもセシルリアにはそうは見えなかったのかもしれない。
この世界で唯一、私の隠し事を知っているセシルリアには、私の言葉が不快に聞こえていたのかもしれない。
自分がゲームのキャラクターだったと言われて、事情を知っているように振舞われて、不愉快に思って当然じゃないか。
「私が嫉妬するとしたら、それはきっとあんたにだろうね」
「え……?」
セシルリアが、私に?
原作と違ってアルベルト様とまだ何の繋がりもなく、ただの男爵令嬢でしかない今の私に?
私がセシルリアに対して抱いていた前提が崩れ落ちていく。
違う、私は大きな勘違いをしてる。何か、とてつもなく大きくて、取り返しがつかないような勘違いを。そんな気がしてしまう。
「……悪かった。忘れてくれ。そんな顔をさせたいわけじゃないんだ」
足元が根底から揺らぐような衝撃に、いつの間にか私は青褪めて、ひどい顔をしていたんだろう。
そんな私を見て、セシルリアはバツが悪そうに目を逸らした。
「ご、ごめんなさい……私、あなたにきっと酷い思いをさせてしまっていたんですよね。気を付けてたつもりなのに、あなたには私が能天気でゲーム感覚に生きているように、そう見えてしまったんですよね……」
「……違う。気にしなくていい。あんたが悪いわけじゃない」
「で、でもっ、私、私があなたにそんな顔をさせてしまって……!」
「違うよ。違うんだ。あんたも師匠も誰も悪くない。誰のせいでもない。悪いとしたらそれは、私だけなんだよ」
そう言って自嘲するように笑うセシルリアを見ていると、胸の奥が締め付けられる。
どうしてか今にも訳も分からず泣きだしてしまいたくなる。
「本当に気にしなくていい。忘れてくれ。今の事も、私の事ももう忘れてくれ。あんたは私に関わるべきじゃない。あんたの知識にない私は、あんたにとっても邪魔なだけだろう?」
「そんな事ありません! そんな風に思った事なんて、私は一度だってありません!」
セシルリアが一歩下がる。ほんの数センチなのに、見えない壁に阻まれたように酷く遠くに感じられる距離。
手を伸ばしても届かない、そんな気がして。
私は考えるよりも先に、手を伸ばすよりも先に、セシルリアへと倒れ込むように胸に飛び込んだ。
「っ、おい……?」
「分かりません。私は何も分かっていません。でもあなたを邪魔に思った事なんて一度もない……! 怖い人だと思いましたっ、勝手な人だと思いました! でもそれだけです!」
「……それはあんたが本来のセシルリアを知っているからだろう。でなきゃ私なんかと関わろうと思うはずがない」
「違います!」
確かに私はセシルがセシルリアだと気付けた。原作のセシルリアを知っていた。
だから知識を頼りにセシルリアに近づこうとした。けど、それだけじゃない。
「あなたがセシルリア様だと知っていたからアルベルト様やエルザ様のお力を借りようとしましたっ。でもたとえあなたがセシルリア様じゃなくても、私はあなたと仲良くしたいと思ってます!」
「……なんで」
「原作がどうとか関係ない! だって昔から、
物語としてしか知らなかった学園生活。私はそれに胸を躍らせていました。
私の知ってる物語たちなら、こんな事があった。あんな事になった。こんな人と出会った。あんな人たちに出会った。そんな風に記憶を頼りに、夢みたいにはしゃいでいた。
現実だって分かっているのに、こんなに楽しくていいんだろうか、こんなに幸せでいいんだろうかって、現実味がなくて。夢だったらって思うと怖くて、それを誤魔化すみたいにまたはしゃいで。他にどうしたらいいのか分からなかった。
それがセシルリアの気に障ったというのなら、そうなのだろう。
「……お前」
「お願いです……関わるべきじゃないなんて言わないでください……! 私にとってはこの世界で出会った人たちはみんな、ただ一人のかけがえのない人たちなんです……ずっと欲しかった友達なんです……!」
「……」
ボロボロのマントを握りしめて、堪え切れない涙をぼろぼろと零しながら、私はセシルリアに縋りつく。
どうすればセシルリアを繋ぎ止めることが出来るのか分からなくて、でも手放したくなくて。
結局、私はあの真っ白なベッドの上に居た頃と何も変わっていない。自分の力じゃ何も出来ず、人に縋らなきゃ立ち上がる事も出来ない、ただの子供のままだ。
「あー……くそ、情けない」
「ご、ごめんなさいっ。我儘ばっかり言って、ごめんなさい……」
呆れられているんだろう。
それはそうだ。まるで役に立たないとはいえ前世の記憶を持つ私は、それを含めたら学院の誰よりも年上なのに、こんな子供みたいに駄々をこねる事しか出来ないなんて。
「違うッ!」
頭の上から聞こえる大きな声に、情けなく体が跳ねる。
昔は怒鳴られたりなんてした事なかったから、レイラになってからもずっと、大きな声が苦手だった。慣れていたつもりだったのに、本当に情けないな。
「ああ、いや、悪い。お前に怒鳴ったわけじゃない。自分が情けなくなっただけだ」
「セ、セシルリア様は情けなくなんて……」
「情けないよ。あんたに八つ当たりして、こんな顔をさせてるんだから」
恐る恐るといった、けれど優しい手つきでセシルリアが私の頬を撫でた。
……ああ、寝付けない夜、看護師さんがこうしてくれたっけ。
その手に手を重ねて、温もりを確かめる。眠るまでそばにいてくれた。そんな記憶。
ゲームや漫画、創作物だけの作り物の記憶だけじゃない。そんな優しい思い出も、私には残っていた。
「お前はそのままでいい。そのまま健やかに、この世界で生きていけばいい」
「そこにセシルリア様も居てくれる……?」
「……私は」
「ううん、ごめんなさい。そんなの我儘だよね」
その思い出に引っ張られて、そんな甘えた事を言ってしまってすぐに後悔する。
私はもう昔の私じゃない。
貴族という恵まれた身分に生まれて、自由に駆け回れる体があるんだ。そんな我儘、言っていいはずがない。
「子供なんだ、我儘なんていくらでも言えば良い。ずっと先の未来は約束出来ないけど、それでもまだ、私は此処にいるさ」
「セシルリア様……」
そんな優しい表情も出来たんだ。
私の知らない、セシルリア様の顔。悪役令嬢なんて称号に似つかわしくない、優しい姉のような顔。
「その呼び方はやめてくれ。セシルでいい。私はセシルリアじゃない、ただのセシルだ」
「……私、セシルの力になりたいんです。セシルがセシルリア様に戻れるように、協力したいんです」
「ああ。……ありがとう」
セシルは儚げに微笑んで、涙を拭ってくれた。
……………………恥ずかしい。良い歳して何を甘えているんだろう私は……。
「す、すいません。もう大丈夫です。こんな事しちゃって迷惑ですよね」
抱きとめてくれていたセシルの腕から逃れ、顔を背ける。
うわ、顔すっごく熱い……。
私の記憶の事を知っているセシルに迷惑を掛けてたと分かったばっかりなのに、こんなんじゃだめだめじゃないか。
「いいよ。あんた……いや、お前が子供だったって事は良く分かったからな。甘えさせてやるくらいの甲斐性はあるつもりさ」
「ぜ、前世含めれば私の方がうんと年上ですっ!」
「ふうん? 前世はいくつだったんだい?」
「十二です!」
今が十四だから、合わせて二十六歳。圧倒的お姉さんですよ私は!
「やっぱり子供じゃないか」
「な、話聞いてました!? セシルより一回り以上お姉さんなんですよ!」
「精神年齢がそれに追いついてないんじゃ、姉扱いは出来ないな」
なんだか前世の記憶について知られた時よりも弱味を握られたような感じがする……。
今まではずっとみんなのお姉さん気分でいたのに……。
「そ、それよりもグリムニルが師匠ってどういう事ですか!? それに私に嫉妬する理由も全然分かりません! それとエルザ様にも謝るんですよ!」
「二つは内緒だ。エルザには……まあ、次に会った時にでも謝っておくよ」
頬を膨らませてセシルに詰めよるけれど、言葉こそ柔らかくなっていてもやはりちゃんとは答えてくれない。
「呪いについても教えてくれないんですか」
乱暴に頭を撫でられる。
その感覚が心地良くて、つい甘えるように受け入れてしまう。
「……いいよ。教えてやる、私の事情について。今のお前は危なっかしいから。でもそれはまた後でな」
そう言うセシルはまるでお姉さんみたいで、子ども扱いされていることが丸分かりで、教えてくれるというのにそれがなんだか不満だった。
去っていくセシルを引き留める事も出来ずに見送る。……それがなんだかとても遠くへ行ってしまったように感じるのは、どうしてだろう。
こんな事になるなんて思っていなかった。でも確かに私とセシルの距離は近づいて、踏み込めたはずなのに。遠退く彼女の背中にもう二度と届かない、そんな不安が私の中に残った。
セシルの姿が雑踏に消えた後も、フェリアが様子を見に来てくれるまで私は店先に立ち尽くしていた。
フェリアに連れられた私はまず最初にエルザ様に頭を下げた。エルザ様は朗らかに笑って許してくれたけど、必ずセシルにも謝らせますと約束する。
泣いていた事を悟られてしまったのか、フェリアもセシルに少し思う所があったようだけど、悪い人じゃない、と私が必死にフォローすると渋々とだが納得してくれた。
その後、気を取り直して私たちは互いに香水を選び、それを入学のプレゼントだとエルザ様に贈られ、ありがたく頂戴して。
帰りの馬車に同乗させていただいて学院へと戻り、フェリアに治癒魔法についてどうして隠していたのかとこってりと絞られて──結局、自覚したのはつい最近だったと誤魔化した──私の初めての学院での休日は終わったのだった。
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