11. わかんないよ
左右の前脚を交互に動かして、一心に私を殴りつける。
それなりに力を込めているようで、ちょっと痛い。
必死の形相と言うには、いつもと同じ
「亜耶、待ちなさい!」
背に母の声を浴びながら、二階へ駆け上がる。
勢い任せに部屋のドアを叩き閉め、しばらく立ち呆けたあと、渋々とベッドの端に腰を下ろした。
苛々を鎮める方法が、何も思いつかない。
新たに聞かされた父親像が偽りかとも疑ったものの、それこそ当を得ない仮定だろう。
「危なかったぁ。ギリギリセーフかな」
「何がよ?」
ミャアはどうやって移動しているのやら、またもや気配も無いまま傍らに座っていた。
足をブラブラさせる様子は、人間さながらだ。
「嘘をつかずに済んだね」
「嘘だらけなのは、お母さんじゃない!」
いいや、とカワウソが首を横に振る。
今晩に限れば、母は嘘を言わなかった、と。
じゃあ、今までつき続けた嘘は、カウントしなくていいのか。百八なんて数じゃない、千や万だって超えてそうだ。
母もお婆ちゃんも、とっくにカワウソになっていないとおかしい。
「んー、お母さんは隠してたけど、はっきり嘘を言ったりはしてなかったよ」
「そんな! 嘘も黙ってるのも同じことでしょ」
「アヤちゃんを傷つけようとしたわけじゃない」
「詭弁よ!」
屁理屈をやりこめようと尚も抗弁する私を、毛に覆われた手が制した。
左手を私へ突き出し、よく考えてみて、とミャアが告げる。
「それでもお母さんに騙されたと言うなら――」
「言うよ、何年越しの話だと思ってんのよ」
「じゃあさ、どんな理由でも、やっぱり嘘はよくないってことだよね?」
その通り。相手がどう受け取るかが問題なんであって、悪気は無いなんて言い逃れだ。
創作おまじないと同列にしてほしくない。
私は自分の言ったことに、ちゃんと責任を……。
嘘の責任ってなんだ。
分かんないよ、もうっ。
服のまま、布団の上に倒れ込む。
階下から微かに水音が伝わるのは、母が食べ終わったということであろう。
普段なら洗い物の次は母の風呂、それを待って私が入る。
勉強をする気力も湧かず、一階へ降りるのも面倒臭い。仰向けで目を閉じた私を見て、ミャアが肩を揺すってきた。
「寝るの? 風邪引いちゃうよ」
「うるさいっ」
暖かくすれば文句は無かろうと、布団を被って壁を向く。
風呂どころか顔も洗わずに、この夜はブラウス姿で眠りに落ちた。
◇
焼ける家から、父が子供を抱いて飛び出す。
「要救護者を確保!」
離れて見守っていた人垣から、歓声が上がった。
感謝のつもりか、抱えられた子が毛だらけの手で父の胸をポンと叩いた。
「ありがとう、ぎゅふっ!」
笑うカワウソの面妖さに、布団を跳ね上げて身を起こす。
なんて夢だ。
起こされた原因は、即座に判明した。
ミャアが隣で丸くなり、幸せそうにギュフギュフと寝言を発している。
肩甲骨の辺りが寝違えたように突っ張るのは、寝巻に着替える手間さえ惜しんだせいだろう。
部屋の明かりも点けっぱなしで、枕元の目覚まし時計もハッキリと見えた。
午前五時五十分、二日連続の早起きだが、思ったより熟睡したみたいだ。
寝直すには眠気が飛んでしまい、半開きの
半時間くらいその体勢でじっとしていると、ミャア以外が立てる物音が、思いのほか明瞭に響いてきた。
洗面所の水が流れる音、廊下を歩く忙しないリズム。
オーブンがチンっと鳴ってから十分ほどして、スイッチを弾き照明を消す音まで聞き分けられた。
母が帰って来るのは、昨夜よりも遅いはず。週末の出勤は、大体そう。
夕食が必要なのか聞きそびれたと考えつつ、扉の閉まる音で、また家には自分一人になったことを知る。
一人と一匹、だったか。
考えがまとまらない父のことは脇へ
昨夜は聞き流してしまったが、ミャアは私の事情に随分と通じているようだ。
物の怪だからそんなもの、と納得しそうではあるけれど、来歴の謎は余計に深まったとも感じる。
いつから私を見てきたのだろう。
私と母の喧嘩を仲裁して、このカワウソに何か益があるのか。
拭い切れない疑念が、むくむくと私の中で膨らむ。
ミャアを起こさないように注意して、ベッドの先に手を伸ばし、スマホをケーブルから抜いて引き寄せた。
分からないことは検索、高校生の基本だ。
ブラウザであちらこちらのサイトを閲覧し、ひとしきり調べ物を進めた頃、ミャアが大あくびと共に目を覚ました。
「おはよ、アヤちゃん」
「ん。いい加減、着替えないとね」
昼には勝巳に会うというのに、髪はベタつくし、爪も汚れている。
シャワーを浴びようと、ようやく私も動くことにした。
着替えを出して浴室へ向かい、外出用の私服に着替え終わったのが九時過ぎ。
朝ごはんに目玉焼きを作ろうとキッチンへ入ると、食卓に置かれたメモ書きが目に入った。
書類の裏側にサインペンでメッセージを残したのは、母の他に有り得ない。
私が必ず読むように、席と向きも合わせて、一語のみ書かれていた。
“ごめんなさい”
反射的に紙を握り潰し、部屋の隅にあるごみ箱へ放り投げる。
的を外した紙球は、床を転がってテーブルの下へ潜り込んだ。
朝になって冷めた頭で考えれば、母への怒りはさほど感じない。
どうでもいい、くだらない、そんなネガティブな思考ばかりが渦巻く。
自暴自棄と言われそうな自分が腹立たしく、ただただ気が立って、謝罪を受け入れることを拒絶した。
八つ当たりに近いと、理屈では分かっているのだが。
珍しく寡黙なミャアへ、これもとばっちりであろう嫌味をぶつける。
「また朝ごはん食べたいの? 気楽でいいね、カワウソは」
「食べないよ」
「へえ、我慢するんだ」
「ボクがいると、気が散るでしょ。一人でゆっくり食べなよ」
ミャアにまで、気を回されるとは。
私の不機嫌さを敬遠したとも考えられるけれど、ペラペラ喋りたくないのは事実だ。
トーストの上に目玉焼きを乗せ、オレンジジュースをなみなみとグラスへ注ぐ。
何日と続けた独りの朝食が、今朝はパンを噛む音が気になるほど、やけに静かだった。
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