03. 高校三年

 高校三年も九月の下旬になると、卒業後の進路がまざまざと現実味を帯びてくる。

 夢想の時間は終わり、そう簡単に覆せない数字として、自分の実力が確定する季節だ。


 母は百貨店勤めで帰りは十時を過ぎることも多く、家のことは今までお婆ちゃんと私に任せきりだった。

 学校から帰った私は、独りで母の帰宅を待つことが増える。

 買い物を真っ先に済ませ、洗濯機を回してから勉強。食事の準備は七割方、私が請け負った。

 母も週二日の休みには、キッチンに立つようになる。これが私の休める残りの三割だ。


 母の手料理なんて、何年ぶりか思い出すのも難しい。本当に出来るのかハラハラと見守ったが、予想外の手慣れた仕事ぶりに驚いた。

 それをそのまま感想として口に出すと、何とも微妙な表情で見返される。


 受験前なのにゴメン、と、これまた珍しく頭を下げられた。

 私が家事を担うことを、母は負い目に感じていたのかもしれない。幼い頃から手伝っていたのだし、気にしなくてもいいのに。


 それに、忙しく働いていると、余計なことを考えずに没頭できる。家事も気分転換と思えば、より集中して勉強に取り組めるというもの。

 実際、ジワジワとではあったが、模試の成績は上昇していった。


 十二月の十二日、覚えやすい並びのこの日は、随分経ったあとでも簡単に思い返せる。マフラーが必須の寒い夕方だった。


 高校から家の最寄り駅まで、私鉄で三駅離れている。クラスは違ってしまったが、近所の紗代は大抵、同じ電車で帰ることが多かった。

 その日は加えて、同級の勝巳も混じり、三人で真面目な話に終始する。


 彼は経済学部を受けるはずが、ここに来て悩んでいたらしく、私の受験校について熱心に尋ねてきた。

 進学後のカリキュラムを質問され、私の知る情報を細かく話す。面倒でも、話題が話題だけに無下には出来まい。

 この時ばかりはからかったりせず、ノー嘘で話を進める。


「そっか、アヤは文学部を受けるのか。英語が得意だし、やっぱ英文学とかやるの?」

「まさか。心理学科に進むつもり」

「おいおい、嘘の技術を磨くつもりじゃねえだろうな」

「なわけないでしょ」


 全く無いわけでもない。他人を騙す方法を学問として学べるなんて、素敵よね?

 でも、本当の理由は、カウンセラーに興味があったから。


 医学も薬学も私にはハードルの高い分野だけど、言葉で人を癒せるなら自分にもやれる気がした。挑戦しようと思える仕事だ。

 カウンセリングにおいて、時には嘘も必要だろうし、そういう意味では勝巳の予想も正しい。


 心理学科が充実した大学が地方には少なく、東京に出たいところ。新幹線が必要な遠さだから、当然、下宿暮らしが必須となる。

 母に相談してみると、関東行きは猛烈に反対された。

 仕方なく隣県の公立大学を第一志望にしており、紗代や勝巳とは卒業を機に離れてしまうだろう。もっとも――。


「紗代は東京へ受けに行くんだっけ? 羨ましい」

「千葉は東京じゃないよ」

「似たようなもんじゃん」

「レベルはアヤちゃんの方が高いしさ。そりゃ、お母さんも近くを勧めるって」


 合格するなら、私にだって不満は無い。

 ただ、C判定ってのが、ねえ。難しいんだよ、田舎のくせに。

 紗代はA、勝巳はB、私だけ一歩足りない現状らしく、焦りそうにもなる。こういう不安を誤魔化すには、やっぱりアレかな。


「今年のクリスマス、一週間早いんだってね」

「え。マジ?」


 相変わらず、勝巳は躊躇無く食いついてくれた。

 紗代は既に胡散臭い眼差しを向け、鼻の頭を摘んでいる。

 これが彼女の警戒ポーズ。騙されてやるもんかという、私への威嚇も兼ねていた。


「太陰暦だった頃の名残りでね、今だと少しずつ実際の日付とズレるんだって」

「へえ」

「だから、七十年に一度、調整のためにアーリー・クリスマスになるんだよ」

「なるほど」


 無茶苦茶だ。

 信じる方がどうかしているけど、そこはほら、鍛えられた話術の力で、ね。


「プレゼントとかも前倒しになるみたいだし、予定があるなら気をつけなよ」

「おうっ」


 フヒヒ、たっのしいー! 

 これが通用するのだから、勝巳を騙すのはやめられない。


 紗代の鼻は、ちぎれんばかりに潰されていた。

 彼女を騙すのなら、もっとハイレベルな嘘が必要だろう。それはまたの機会というタイミングで、電車が到着し、私たちは帰路に就いた。


 二駅目で勝巳が手を振って別れ、三駅目で私と紗代も降りる。

 二人並んで駅前の信号が青に変わるのを待っていると、紗代が何か言いたげにこちらへ向いた。


「なに?」

「あの、勝巳ってさ……」

「説教? 可愛らしい嘘じゃん」

「自分で言わないでよ。まあ、あんなので騙されるのが悪いけど」

「でしょ。生活の潤いよ。潤滑油ってヤツね」


 度々小言を聞かされたものだから、この時も文句を言われるのだと考えた。でも、それは早とちりだったみたい。

 横断歩道を渡りつつ、彼女は衝撃的な発言を繰り出してくる。


「勝巳って、アヤちゃんが好きだと思う」

「は? はあぁ!?」

そばで見てると、分かるよ。今日もすごく楽しそうだったし」

「……やるな、紗代。そんな高度なワザヲ、ツカッテクルトワ」

「ちょっと真似しないでよ。鼻摘んで喋らないで!」


 仲がいいから好きっていう発想は、短絡的すぎる。

 それじゃあ、しょっちゅう国語の問題を紗代に解かせる山田くんは、彼女が好きだってことに……。


 ……好きかもしれない。脈は皆無なのが悲しいけど。

 いや、山田くんはいいんだ、山田は。


 勝巳は平凡な外見だけど、笑顔が基本の爽やか男だ。モテモテとまではいかなくても、それなりに女子人気はあると聞く。

 男女隔てず気安く喋る性格で、だからこそ私もイタズラの対象にしてきた。怒ったところなんて、見た覚えが無いしね。


 彼とよく喋る女子は、私の他にいくらでもいるし、紗代の勘繰り過ぎだろう。

 彼女も確証があるわけでなし、適当に反論し合ううちに、交差点でお互いに別の道へ就いた。


 恋愛とは縁遠い上に、受験の方がよほど心を占める。

 夕食、風呂、問題集のおさらいと夜を過ごしている内に、勝巳の話なんてすっかり頭から追い払われた。

 ん、正直に言えば、爪の先くらいは意識に上ってたかも。


 深夜、日付が変わって三分後、暖房を切ってベッドへと潜り込む。冬も本格的になってきたため、しばらく布団が冷い。


 恋愛どころか、覚えたての単語まで吹っ飛んだのは、その半時間後のこと。

 縮こまらせた身体へ、ほんのりと暖気が忍び寄る。


 最初は温かく、いつか食べた鯛焼きを思い起こさせた。

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