第2話 仕事納め

 その御用部屋のさらに奥に、幕府の真の最高幹部だけが入ることを許されている間が、あった。

 

 「それで、けいさま。これ以後、我らはいかようにすればよろしいのでしょうか?」

 狭い部屋の下座に座りははっと平伏しているのは、先ほど老中首座に就いたばかりの安藤対馬守信正である。

 

 上座には、先ほど御用部屋で上座に鎮座していた人物がいた。今、この部屋には、その人物と安藤対馬守だけが、いた。いや、正確には、それ以外にも5名の人間がこの部屋をひそかに見張っていたわけだが…。


 すると、上座のその人物は小机を引き寄せ、その上にある文箱の中からおもむろに1枚の半紙を取り出した。そして筆に墨を淡々と静かに含ませると、目の覚めるような達筆で

 <公武合体>

と記した。

 「おかみと、徳川が、心をいつにし、事に当たるべし」

 その人物は、その紙を安藤に見せながら、凛とした声で言った。そして、なおもその人物の言う言葉の意味が分からないという表情で戸惑う安藤に向かい、付け加えた。

 「お上の妹ぎみ…、和宮かずのみやさまを、将軍家に降嫁こうかせしむべし」

 その具体的な指針に、安藤は初めて意味を理解し、安どの表情を浮かべ

 「あい、わかりました」

と答えた。


 安藤対馬守が、その部屋を退出した。

 「ふ…。済んだね?」

 一人残ったその人物は、急にまるで庶民が使うような砕けた言葉であらぬ方向に向かい、話しかけた。

 「そのよう、です。小次郎ぎみ。しかし、まだアルゴリズムの最終確認を待たねば」

 「そう、だね」

 小次郎ぎみと呼ばれたその人物は、部屋の中をさっと見渡すと、それまで貴人らしく重厚なふるまいだったのと真逆な軽妙な動作でぴょんと、立ち上がった。

 「じゃ、この時代とも、いよいよおさらば、か…」

 その人物はつぶやくと、そのあらぬ方向にむかい右手を伸ばした。その手指は、何かをつかんでいる。

 そのとき、中空から突然、はしごが現れた。

 その人物はそのはしごに足をかけると、その身体を持ち上げた。

 その瞬間、その人物の姿は、かき消えた。



 「どうですか?上村かむらさん」

 「少しお待ちください、小次郎ぎみ」

 まだちょんまげとかみしもの姿のままで、僕は、せっかちに彼女に話しかけたが、彼女はパソコンを前にしていつも通り冷静そのものなようすで僕を制止するのである。

 彼女がキーボードをたたく音だけが、室内に響く。

 傍らには、僕だけではない、佐助さすけもいた。嘉助かすけもいた。ほかに数人も、いた。皆、僕と同じように息をつめて、彼女の作業を見つめている。


 やがて彼女が、キーボードをたたくのをやめ、ディスプレイをじっと見つめた。そして、僕たちのほうに顔を向けると、言った。

 「最終確認、とれました。歴史アルゴリズムが本来の位置に戻りました。完了、です」


 その瞬間、僕は

 「やったあーっ!」

と大きな声で雄叫びを上げてしまった。しかし、そこにいた一同も、みな、口々に歓喜を叫び、あるいは感涙にむせていた。

 「やりましたね?」

 「そうです、やりました。僕たちは、成し遂げました…」

 ふっと、身体から力が抜けた。そんな僕の肩をがしっとその鍛え抜かれた腕で支えてくる、相棒の佐助。

 「小次郎ぎみ…、いや、カイ君。さぞや、つらかったでしょう。本来なら、私がすべき役どころをカイ君に押しつけてしまって…」

 「いや、いいんです。佐助…、いや、シンさん。今まで、本当にありがとうございました。ほんと、シンさんがいてくれたからこその、僕の仕事でした」

 僕と、シンさんは、固く握手を交わした。


 数時間後、夜のとばりが降りる頃、駅前の居酒屋を借り切って、打ち上げの宴が執り行われた。

 みな、その手にビールの入ったコップを持っている。早く飲みたくて、うずうずしているものもいる。

 「小次郎ぎみ、早く早く。あいさつしてください」

 「あ…、はい」

 僕は、一つ咳ばらいをすると

 「えー、この、歴史軍団を代表して、一言、挨拶を申し上げます。みなさま!お疲れさまでした!乾杯!」

 と叫んだ。

 「乾杯―!」

 「乾杯、乾杯!」

 「お疲れ!」

 「ご苦労さん!」

 宴会場に、歓声がこだました。

 「あー、うまい!」

 「ビール、最高!」

 僕も、ビールをグイっと飲みほした。ほんと、3年ぶりのビールで、ある。この3年間、日本酒漬けだった。しかも現代の清酒と違い、どぶろくという質のはなはだ悪い臭い酒だったから、なおさらだ。


 「ところで、佐助…。あ、すみません。つい、口癖で」

 僕は、かたわらのシンさんに声をかけた。シンさんは、僕より5つ年上である。

 「いいんですよ、小次郎ぎみ。もう慣れてしまって、それ以外は言葉が出てこないのは私も同じですから。それで、なんですか?小次郎ぎみ」

 「証拠の隠滅は、どうでしたか?」

 「ああ、ばっちりですよ。この時代、まだ写真が普及していないので、幸いでした。もちろん、いろんな人間の記憶に残るでしょうが、歴史学的な史料…文章化されているものですね?それは、すべて消しました。幕府の役人が、首をかしげるかもしれませんがね…」


 「ただね…、小次郎ぎみ」

と声をかけて来たのは、嘉助さん、いや、コウさん。コウさんは、僕の側用人の執務をずっとそばで補佐してくれていた。歳は、50歳近い人である。

 「わたしは、江戸城を行きかう大名やその家臣たちの会話をよく小耳にはさみましたが…。小次郎ぎみの噂は、ほんとすごいものでしたよ。みんな、顔を合わせるたびに、<松平 紀伊守きいのかみは、凄い>って、そればかりでした」

 「うん…」

 僕も、耳がいいほうだからそれは気づいていた。ちょっと派手にやりすぎた感も、あったかもしれない。いちおう、井伊直弼を大看板に押し上げてはいたが、事実上僕が、全部を仕切っていたことは事実である。

 「このままだと、松平紀伊守のことは、伝説化すると思いますね。これが武士たちに与える影響は、大きいと思いますよ。特に心配なのは…」

 「薩長…、ですか?」

 

 僕は、少年時代から政治に興味を持ち、政治的な活動の様々な事柄をつぶさに研究し、政治的に高度な手法の数々を習得し、今回の歴史修正作業で実践した。

 徳川の血筋とはいえ一介の浪人に過ぎなかった20代の若者が、その高度な政治的テクニックにより徳川幕府の頂点に登りつめ、絶大な専権的な権力を握ってしまった。大老職には井伊を推し、僕は、側用人でさえない側衆という小身の旗本が務める役に就いたつもりだった。

 しかし、幕府や諸藩の武士たちの目には、僕は明らかに、安政政権の事実上の中心人物である<従四位下侍従、大老格、十万石格式の、松平紀伊守 斉興なりおき。本名は、大村小次郎。11代将軍徳川家斉の男系の孫。現将軍の徳川家茂よりも嫡系である高貴な人物。本来の官位は、民部卿。よって、卿さまと呼ばれる>であった。

 歴史を修正するには、このような絶大な権力が必要だったのだが。


 「さすが、小次郎ぎみ、ですね。そうです。薩長の有為の士たちが、巨大な影響を受けると思いますよ。それが、維新の原動力になってくれればいいんですが…」

 薩長の面々に、要らぬ情報を与えてしまったかもしれない。政治(絶対権力の握り方)は、こういうふうにするものだという格好のお手本を彼らに見せてしまったかも。

 しかし、証拠となる文書は、すべて抹消した。政治の手法を学ぼうにも、人の口伝えだけでは不足するに違いない。僕は、そう楽観していた。

 注意を要する人物として、僕は、薩摩の大久保利通を思っていた。しかし僕の考えるところ、大久保はそれほど政治的に優れているとは思えない。大久保は、岩倉具視あっての大久保だったと思うのである。


 「もう、一人、私たちの正体に気づいた人物が、います」

 シンさんが、言った。

 「水野、左京大夫さきょうだゆう、ですね」

 僕は、即答した。

 水野は、僕たちが最初に紀州を訪れた時の、紀伊徳川家の城代家老だった人物である。一介の浪人、しかも政治的亡命者であった<卿さま>を自分の後継者に押し上げ、井伊直弼と共に安政のクーデタを実行する後ろ盾となってくれた。

 ただ、最初の訪問時に、僕と佐助の正体を見破っていた。

 当初の計画では、僕が佐助の役回りをし、佐助ことシンさんが大村小次郎の役回りをするはずだった。水野は、まずその役回りが逆ではないかと勘繰った。僕らはその誤解に合わせ、役回りを替えた。

 ところが水野は、大村小次郎を名乗った僕が<徳川の血筋ではない、偽者だ>と見破ってしまった。しかし水野は、なぜか僕らの計画に同意し、惜しみない援助をしてくれた。おそらくだが、徳川の祖法を復活させるという点で、僕らと利害が一致すると見たのだろう。僕らが少なくとも、徳川にあだなす存在ではないと思ったのだ。その後も、僕らを逐一観察し、僕らの活動の神速迅雷(随時、どこにでもいつにでも開くタイムトンネルあってこその)なのを見て実力を認めたらしい。

 「あのおじさん、ほんと、私たちをいっぱい助けてくれました。感謝ですね」

 「僕の直筆の手紙を確か持っていると思いますが、水野は、たぶん口外しないでしょう」


 やがて、宴はお開きになった。

 歴史軍団の仲間たちとは、今後も親しくさせてもらおうと思い、連絡先の完全抹消などはしなかった。修正した時代が、150年以上も前だったからバレることもないだろうと思ったからである。

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