歴史軍団・牙 第2部

よほら・うがや

第1話 3月3日

 江戸城内に、急を知らせる声が鳴り響いていた。

 茶坊主たちがいつにもましてせわしなく、ほとんど走っていて着物の裾が敷居に引っかかり転びそうになっている。

 廊下を行きかう旗本たちが、右往左往し、あちらこちらで数人単位で固まってひそひそと話し込んでいる。


 そして、城内の奥まった場所にある、そこは老中や若年寄が日常詰めている場所、御用部屋であった。その上座に、悠然といつものように鎮座している人物がいた。

 体型はやや細身、年代はたぶん30歳前後、顔だちは細長く貴人のようである。しかし、その体躯たいくからは、おそらく剣法、あるいは柔術であろう、鍛え抜かれたものが感じられるオーラを放っていた。さらにその人物の最大の特徴は、それだけの巨大な衝撃的な知らせを聞いても、眉一つ動かさない、その悠然とした態度であった。まるでこういうことが起きることをあらかじめ予測して備えていたような雰囲気を醸し出していて、ある者はそれを不審に思い、ある者はそれを頼もしく思うというふうであった。


 「けいさまー、卿さまー」

 慌てて敷居でつんのめりそうになりながら駆け込んできたのは、年のころ40歳くらいの初老の男。のっぺりとした面長な風体だが、眉間にしわを寄せており実直なようすがかいまみえる。

 「卿さま」と呼ばれた人物は、その御用部屋の上座に鎮座している人物だった。

 「ええい、御前であるぞ。落ち着かんしゃい」

 そばに控えている裃姿の男が、たしなめた。

 「あ…、し、失礼しました」

 上座の人物は、うんと黙ってうなずいた。駆け込んできた男は、立ち止まり息を整えると、その前に着座し、ははっと平伏した。


 「先ほど…、桜田門外にて…、大老殿が、みまかりましてございます…」

 それは、あの有名な桜田門外の変の第一報であった。亡くなったのは、時の徳川幕府の最高職、大老に在任していた、井伊 掃部頭かもんのかみ直弼で、水戸や薩摩の浪士たちに襲撃されたのである。

 時に、安政7年3月3日であった。


 「卿さま…、いかが、いたしましょう?以後、われらは…」

 駆け込んできたその者は、明らかに動揺していた。無理もない。幕府の最重要人物のが、とつぜんいなくなったのである。

 「かくなるうえは…、おそれながら卿さまを、ご大老職に推挙、申し上げます」

 「…」

 卿さまと呼ばれている人物は、しかし、黙ってその者を見つめている。

 「卿さまは、この、安政政権において、事実上、掃部頭さまと同格、いやそれ以上の御仁であられました。もちろん、譜代の国持ち大名のみが大老職に就くという大権現様以来のならいはあるでしょう。しかし、今は緊急事態です。そして、卿さまは、本来ならば将軍家を継がれるべき御身…。むしろ、大老職にふさわしいと思われます。なにとぞ…、なにとぞ、大老におなりあそばすよう、謹んで申し上げます!」

 その者は、いつもの落ち着いた実直なキャラとはまるで異なる別人のように、べらべらと饒舌にまくしたてるように言上した。

 すると、その部屋に居並んでいた、老中・若年寄たちがいっせいにははっと平伏し

 「われらも、対馬守つしまのかみ殿と、同意見でございます。卿さま、なにとぞ、なにとぞ、大老職におつきあそばしてください!」

と唱和した。


 沈黙が、少し長く続いた。それは、いつものことなのだろう、一同が平伏したまま微動だにせず、上座に鎮座する人物の回答を待っていた。

 やがて、その人物がおもむろに、言葉を1つ1つ選ぶかのようなゆっくりした口調で答えた。その声は、貴人らしい凛とした、しかしその中に深い知性のきらめきを含んでいる、そういう声質だった。

 「対馬守、以後、そちに託す」


 まもなく、その人物は部屋を退出した。一同、平伏したまま、しばらくの間、じっとしていた。

 その後に開かれた衆議により、ひとまず老中の安藤対馬守信正が、事実上の老中首座となることが決まった。

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