act.20 [ダハール新市街/貧民層居住区]
[ダハール新市街/貧民層居住区]
暗く澱んだ空気に包まれるダハールの貧民街。人々の顔からは生気がうせ、生きるしかばねまであともう一歩という状況なのに、それでも太陽は誰にも等しく燦々と輝いて。
軍からの配給も止まり、皆腹を空かしている。降りかかる砂を払う気力もなく、誰もが道端に座り込んでしまっていた。うつろな彼らの視線の先には、国王軍のトラックがある。民衆との間に土嚢を積んでバリケードを張りながら、数人の兵らが民衆を監視していた。民衆達もまた、いつか配給が始まるものだと信じてその場を離れられない。もはやこんな状況が、数日前から続いていた。
「あの……すみません……」
そんな中、乳呑み児を抱いたひとりの女性が、バリケードの前に立つ兵士に声を掛ける。民族衣装の袖から覗く腕はガリガリで、骨と皮ばかりが目立った。赤ん坊は泣く元気すらないのか、静かに母の胸で眠っている。
「なんだ」
兵士は吐き捨てるように返事をした。手にした小銃のセイフティに指を掛ける。
「ミルクを……赤ん坊に飲ませるミルクをください……」
かすれた声を必死に搾り出し、女性は兵士に懇願した。しかし兵士は、彼女の言葉に憤ったように声を荒げ、冷たくいい放つ。
「何度もいわせるな! 次の物資の配給は三日後だといってるだろう! ここにはなにもない、分かったらとっととうせろ!」
「でも、でも今週の配給はなかったじゃないですか! あと三日も待つなんてそんな」
女性は必死で食い下がった。
無関心だった民衆達も、次第に彼女らのほうへと視線を向ける。場はにわかに険悪なムードへと包まれていった。
「うるさい! 軍にも余剰物資はないのだ! 人のおこぼれをもらうことしかできないクズどもが、偉そうな口を利くんじゃない!」
兵士の怒号が、民衆達の心に突き刺さる。
「おねがいです! どうかミルクを、この子の分だけでも!」
「ええい! くどいわ!」
兵士はついに女性を突き飛ばした。彼女はライフルの
これには民衆達も黙って座っているままではいられなかった、ひとり、またひとりと女性の周りに集まり彼女を介抱する。兵士への不満は最高潮だった。死んでいた目に、やり切れない怒りの炎が渦巻いている。
「なんだその目は!」
兵士が小銃を構え、威嚇の怒声を浴びせかける。民衆達は弱々しい悲鳴を上げ、皆兵士から背を向けた。その時、どこからか兵士の顔面目掛けて小石が飛んできた。油断していた兵士はそれを鼻先に食らい、見事に血を流している。
「誰だ! 前に出ろ!」
駆けつけた他の兵士が小銃片手に、民衆を怒鳴りつける。しかし彼らは目を合わせないようにと、兵士達に背を向け続けた。
「お前か! それともお前か!」
持ち場を離れた兵士達は、群衆を蹴散らして犯人を見つけようと躍起だ。怯える人々に銃を突きつけて、その場を練り歩く。彼らの意識は完全に、トラックからは離れていた。
その隙をついて、トラックの荷台へと忍び込む影ひとつ。顔を長い布で覆い、正体を隠してはいるが、襟足から灰色の髪が見えていた。そして彼は、トラックの荷台から兵士の
「食いもんだ! 食いもんがあったぞ! こいつら隠していやがった! 皆で奪っちまえ!」
刹那、民衆達は幽鬼のように立ち上がり、口々に「食いもん」と唱えながら貧民街を埋め尽くした。兵士達はその異様さに圧倒され、発砲することさえ忘れている。そしてさらに群衆の後方から、ライフルを連射する音が鳴り響いた。そこにいたのはやはり、先ほどトラックへと忍び込んだ人物だ。手に大量の小銃を抱え、背後にある廃屋のなかから、次々と武器を取り出し民衆達のほうへとばら撒いていった。
「このなかに武器があるぞ! 国王軍などやっちまえ! 王様を引きずり出して、潰頭台にかけてやれ! もう我慢することはない! 俺たちは自由だ!」
その一言に扇動され、民衆達の怒りは一気に噴出した。手近にいた兵士に集団で襲い掛かり、いままでの鬱憤を晴らすかのように撲殺する。バリケードは蹴散らされ、携帯食料の奪い合いとなった。またある者は、廃屋から武器を持ち出し街を北上していく。その先には上流層の居住区と、王の住む宮殿がある。
街は狂気に沸いた。
その波はどんどん膨れ上がっていく。
武器を手にした民衆達は「王を殺せ」と叫んでいる。
やがて貧民街の覆った暴徒はいなくなり、あとには無残にもひっくり返された軍用トラックと、兵士達の哀れな骸だけが残った。
踏み潰され、蹴り倒され、すでに原型を留めない。
「とんでもないことをしよる」
静まり返った貧民街で、ひとりの老人がさっきの人物に声を掛けた。オリバーだ。
「爺さんか」
顔から布を取り外したジェリコが、振り向いて笑う。
「いつから考えておったんじゃ、こんなこと。あれから家に帰って、葉巻箱のフタを開けた時はびっくりしたぞ。葉巻と一緒に、一斉蜂起の計画書が入っておったんじゃからな。今頃は街のいたるところで同じような暴動が起きとるだろう。溜まりに溜まった鬱憤が、ダハール全体から噴出しておるわ」
遠く、上流層居住区から聞こえる阿鼻叫喚に耳を澄ましてオリバーがいう。ジェリコもまた感慨深げに街を見回し、作戦の一部成功に対し首を縦に振った。
「民衆達を取りまとめてくれてありがとうな。情報が漏洩したらすべてがパーだから、初動の人選がもっとも重要だった。俺はこの街をよく知らない。あんたと出会えてホントによかった」
「ほ! よくいうわ、年寄りをこき使いおって」
オリバーが黄色い歯を見せて笑う。
「年寄り扱いするなっていったのはあんただろーが」
「そうだったかの? まあよいわ、それにしてもこれほど大量な武器を、あの短期間で調達するとは。“横取り屋”というのは、随分と羽振りのいい商売なんじゃのう。まったく、カスパニウムの試験採掘で使われた廃坑を利用して、武器を持ち込むとはよく考えたものだ」
オリバーの問いに、ジェリコはすこし鼻白んで答える。
「半分はユギト達の功績さ。新市街地内へカスパトロンを供給しようと、以前から坑道を掘り進めていたんだ。その仕事を俺の友人が引き継いだってだけの話だよ」
「例のギコア人か?」
「そういうこと。この武器も全部ギコア人のシンジケートから調達したんだが……そこで爺さんにはひとつ謝らなければいけないことがある」
ジェリコは表情を一変させ、ひどくいいづらそうに口ごもった。普段であれば、それほど気にしないことだったのかもしれない。だがいまのジェリコには、それを手柄と声高にいってしまえるほどの無神経さも、また人情を欠いたビジネスライクな気持ちにもなれなかったのだ。
「配給物資の横流しのことか?」
ジェリコの様子を見て、オリバーはこともなげにそういった。
「知っていたのか?」
これにはジェリコも驚きだった。その件に関しては、自分とバレットしか知らないはず。
「これでも宮殿の出納官吏を任されておったのだぞ。あぶく銭の出所くらい、すぐに察しがつくわい。まあ手口までは分からんが……配給の責任者に袖の下でも握らせたか?」
悪ガキをたしなめる古株の教師のようにオリバーはいった。その顔に、ジェリコを咎めるような様子は微塵もなかった。「企業秘密さ」とうそぶく彼だったが、その表情はすぐに曇る。
「すまない。一時的とはいえ、民衆を苦しめた」
ジェリコはうなだれて、ヒビ割れた大地に視線を落とす。
「いうな。そのお陰で民衆は生き返ったのだ。この息吹を見ろ。これが私の知るダハールだ。これこそが砂漠の民ニグ族の、魂の故郷! ラッダハート王国である!」
太陽を背に、宮殿へと手を広げてオリバーが叫んだ。泣いている。全身を震わせて泣いている。在りし日の記憶と、希望溢れる未来だけを思い描き、辛かった数年間を呑み込んだ。失ったものは砂漠の砂ほどにある。だがそれもようやく報われる。
ジェリコは、先ほど兵士に倒された母子が道端で休んでいるのを見つけた。どうやら暴動には巻き込まれなかったらしいが、女性は息を切らしもはや一歩も動けない様子だった。ジェリコはすぐに彼女らのもとへと駆け寄って、最初にトラックから持ち出した携帯食料を手渡した。
「ミルクはもうすこし待ってくれ、すぐに持ってくるから」
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます!……」
女性は涸れ果てた涙を流しながら、ジェリコに礼をいい続けた。赤ん坊のカサついた頬を、ジェリコが撫でてやると、にこりと笑い、だぁだぁと言葉にもならない声を上げた。
「爺さん、この子達のこと頼んだぜ」
ジェリコは背後にいるオリバーへと声を掛けた。
「どこかへ行くのか?」
「ああ、武器を手にしたとしても所詮は烏合の衆だ。民衆が宮殿を陥落しやすいように、ちょいと手助けしてくる」
立ち上がったジェリコは、きちんとホルスターに収められた“ゴールド・メーカー”を取り出し
「そうか。世話をかけるな」
意を解したオリバーは、女性が食事をしやすいようにと彼女から赤ん坊を受け取った。
「それに……」
「それに?」
「あそこには俺の“戦場”がある」
宮殿を見つめながらジェリコはそうつぶやいた。それは哀しく、どこか儚げな横顔だった。
立ち込める砂埃、火の手の上がる街。
ヒビ割れた大地に伸びる影と、そして――民衆達の革命の声。
〈つづく〉
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