第3話 喫茶店の男
俺はコーヒーで言えば、ブラックが好きだ。
砂糖もミルクも入れない、混ざり気無しのシンプルさが好きだ。
出てきたものをそのまま飲めばいい。
そこには余計な手順は無いし、それには余計な味が無い。
目の前には三杯目のブラックコーヒーが置かれている。
僅かに冷めてきて、もう湯気も立っていない。
俺は待ち合わせのこの喫茶店で、約束の時間から随分と待たされている。
今のところ、相手からは何の連絡も無いしこちらから連絡も取れない。
約束は反故されたのだろうか。
相手が時間に来ない、これだけの事にどれ程の意味が含まれているのかわからない。
世の中の出来事は大抵ブラックコーヒーの様にシンプルにはいかない。
出来事一つ、いや言葉一つに必ずしも含みを持たせている。
それでいて、含みを持たせた側はその含みを理解される事を当たり前だと思っている節がある。
女ならなおさらの事だ。
女ってのは唐突な事をしでかしたり言ってのけたりするのに、前段階はあったと無茶苦茶な主張をするものだ。
つまり、今約束の相手である女がこの喫茶店に来ないのも連絡が取れないのも、女自身に弁明させれば、前段階はあった、と言うだろう。
考えただけでも、うんざりだ。
住宅街の片隅でひっそりと佇む喫茶店は、今日も閑古鳥で営業中だ。
俺以外の客はもちろんの如く誰もいない。
というより、店内に俺以外の人間がいない。
この店の女主人は閑古鳥には興味が無いらしく、常連客とはいえ他人の俺に留守を任せて仕入れという買い物に出掛けている。
店の奥の席に座り、自分で入れた温くなった三杯目のコーヒーをたしなむ。
囁きの様に僅かに聴こえる店内BGMはジャズで、そのリズムに合わせて机を指で叩いて暇を潰す。
BGMより大きな音の壁掛け時計の秒針がゆったりと時を刻む。
相対性理論、というやつなのだろうか。
待ち人来ず、今日御神籤を引けば書いていそうだ。
本来なら忙しいはずの俺が何故暇を弄ばなければならないのだろうか?
待ち人の女が来ないうえ、店の女主人は俺を身代わりに出かける。
女というのは何とも身勝手だ、と言いたいところだが本当に身勝手なのは男の方なのかもしれないので迂闊な判断はできない。
何しろ相手は物事を伏して含めて進めるものだから、明示されているものだけでは判断は危険なのだ。
住宅街の片隅で経営している喫茶店の女店主というのは、地主だとか大企業の社長だとかの愛人らしい。
同業者に聞いた他愛ない噂話だ。
不穏な金回りやら肉体関係をひとまとめした結果、喫茶店経営に繋がるらしい。
女店主一人に伏された物語だ。
人には人それぞれの物語がある。
そんな事は当たり前の話だが、そういう個人の物語は大抵伏されていて大っぴらにされる事はない。
だから、他人が知る由もない。
しかし知る由もないのに、わかってくれと人は他人に懇願する場合がある。
私の事何も知らないくせに、と怒鳴る割に理解している前提で話を進めたりする。
あ、いや、話がずれだした。
いや、そもそも話はずれているからいいのか。
語る手間を省き、理解されようとする努力を失念し、心の境界線を引いては、依存する様に相手の察知を求めたりする。
言葉を並べるのは簡単なようで困難でもあり、言葉を綴るのはイージーかつハードだ。
恋人同士が喧嘩する原因は、言葉足らずだ。
少なくて足りなくて、多すぎて足りなくて。
俺は少なかったのか、多すぎたのか。
その答えが今は足りない。
店の壁に掛かっている時計を見ると、約束の時間から随分と経っていた。
待ち合わせがこの店の中で無ければ、とっくに帰ってしまっているところだ。
一応の店番を頼まれた以上黙って帰るわけにもいかなくなって、ここでこうして時間が過ぎていくのをただ待っているだけしかできない。
約束の相手、女が来ないというのは実はあまり良くない状態だ。
待ち合わせの相手が来ないことに良いことなど無くて当然の話ではあるが、それ以上に良くない方向に転がりそうな話である。
それは伏した女のせいか、はたまた隠した俺のせいか。
女は伏す、男は隠す。
女は気づかれるのを当たり前のように待っていて、男は気づかれないように物事が進むのを待っている。
隠しごとはバレてしまうことの方が多い。
それはどうしても違和感が生じるからだ。
浮気なんてわかりやすい例えだ。
態度の変化は微妙な部分から読み取られ、そこから突き止められたりする。
生活の変化なんて出してしまえば、突き止めてくださいと言っているようなものだ。
隠すのは難しい。
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