第8話 はかないせんたくし
「起きて! 起きて! メルウェート!」
「む……」
寝台に横になっていた彼を起こしたのはいつになく興奮したルチアだった。
メルウェートは慌ただしく揺すられて目を擦りながら眼鏡を身に付けて見ると、ルチアは頬を上気させながら彼の毛布を引きはがそうとして掴んでいた。
慌てて彼の部屋に入ってきたせいか、寝巻姿のままで服装は乱れている。
ちらちらと彼女の白い素肌が目に入り、眠気の飛んだメルウェートは彼女のただならぬ表情に異変を覚えた。
「何かあったのですか……?」
ルチアは何かを我慢できないようにばたばたと毛布を暴れさせる。
それから満面の笑みで玄関を指差す。
「……外! 吹雪止んだよ!」
彼女はメルウェートを起こすや否や、居ても立っても居られないのか自分の部屋に駆け戻って行った。
(雪が止んだ。春が近づいているのか――?)
外着に着替えて戻ってきたルチアはメルウェートにも着替えを促した。
「早く行こうよ! ゆきがっせん日和だよ!」
少し前にメルウェートはルチアと約束をしていた。
それは吹雪が止んだら雪合戦をしようという物だった。
一人で暮らしていたルチアは雪合戦を知らないので、吹雪が止んだ日に遊ぼうという約束を結んでいた。
メルウェートはその事を思い出して苦笑する。まさかそんな小さな約束をここまで真剣に覚えていたとは思わなかったのだ。
先程からの興奮冷めやらぬ様子に、よほど楽しみにしていたに違いないと感じた。
彼は寒さがあまり得意では無かったが、ここまで彼女の楽しそうな様子を見ていると、流石に約束を反故にするわけにもいかずに促されるまま着替えようとした。
しかし、いつもであれば彼が着替えようとすると慌てて去って行く彼女は部屋を出て行こうともせず、微動だにしない。
「どうしたんです?」
メルウェートは部屋を出て行かないルチアの事を不思議に思って問いかけた。
彼女は彼を見つめていた。頬はどこか紅潮している。これから始まる初めての雪合戦に興奮しているだけでは無かった。
「……」
「……?」
メルウェートは仕方なく、事もなげに上半身のシャツを脱ぐ。
慌てて両手で顔を覆って自らの視線を隠すルチア。しかしその指の隙間からメルウェートの鍛えられた上半身を覗いていた。
「……?」
彼は不審な視線を感じながら畳んであった服に着替える。
「何か……私の身体に気になる所でも?」
「……ううん、何でもない!」
ルチアは言うなり部屋を逃げるようにして去って行った。
残されたメルウェートは小首を傾げる。
彼はここの所、彼女が自分のすぐそばに居る時間が長くなっているように感じていた。
繕いごとをするなり、お茶を飲むなり、ほんの些細な事でさえ手を伸ばせば触れるくらいの距離で行なう事が増えていた。
彼女のその行動を自分に気を許している事の表れとも思っていたが、ここの所は必要以上に近くにいる事が多くなっていた。
それこそ暖炉の前で本を読んでいる時はあまりに彼のそばに近くて、彼女の遊ばせた脚が何度も彼の肩や組んだ膝にぶつかる始末だった。
しかしその度に悪びれもせず嬉しそうにしているルチアを見ていると、咎める気も起らず釣られて微笑みを返していた。彼の微笑みを受けて返す様に、どこか照れたようにはにかみを浮かべながらうっとりと彼の事を見つめることも有った。
メルウェートはルチアの中ではきっと吹雪に閉じ込められた退屈しのぎにそういった行動が流行っているのだろう。と、解釈していた。
だから自分の着替えを見つめるという今朝の不可解な行動もその一つという事だろうと納得する。
吹雪が止む日を心待ちにしていた彼女を待たせるのも悪い気がしたので、メルウェートは早々に畳んであった衣服に袖を通す。
居間に出てみるとそこにはルチアがメルウェートのために繕った外套を持って立っていた。彼女も防寒着を着こんでいた。万全の態勢で雪合戦に臨む様子だった。
メルウェートはそわそわと落ち着きのない彼女から外套を受け取るとほぐすように肩を回しながら言う。
「そんなに慌てなくても雪は逃げませんよ」
彼女は双眸を見開き、きらきらと輝かせて一言だけ返答した。
「行こう!」
メルウェートは暖炉の火掻き棒を手に取ると、洞穴の入口に作られた扉に向き直る。
それは凍りついて開ける度にひどく骨が折れる。
彼は二重になった扉の隙間に棒を差し込みながらこじ開ける。
案の定、開いた入口には雪の壁ができていた。
メルウェートがそれを棒で突いて壊すと、小柄なルチアがいそいそと外へ出て行く。彼は扉の大きさに張った氷を割ってから彼女に続いた。
住居の外は白銀の世界だった。
一面を雪と氷が覆っている。
メルウェートが初めてここに来た頃の灰色と茶けた大地はどこにも見当たらない。
しかし、雪は高山特有の強風に吹き散らされて、全体に厚く積もっているという訳では無かった。
ルチアはきょろきょろと辺りを見渡すと、岩陰へ小走りに駆けて行く。
雪玉を作るために、雪溜まりへ向かったのだ。
ルチアは根雪が積もっている場所を見つけては駆け寄って雪玉をこしらえていく。
さらさらの雪質に、玉を作りにくそうではあったが、彼女は器用にも雪玉を作り上げた。
一つ作り上げる度にメルウェートの方を見て誇らしげに掲げる。それを何度か繰り返す。
やがて両手で抱えるだけの雪玉を抱えた彼女は物陰に隠れた。
その様子を温かい目で見つめていたメルウェートは、彼も住居である洞穴の入口に溜まっていた雪を集めて握り拳大の雪玉を作り始める。
と、そこへ雪玉が飛んできて彼の後頭部に直撃した。柔らかい雪玉は程よく破裂し彼の頭が雪まみれになる。
雪を振り払う彼の耳に遠くからルチアの笑い声が届いた。
こうして二人の雪合戦は始まった。
◇
心ゆくまで遊んだ後は、体温で温められた雪が着ていた服に染み込んでじっとりと重い。
各々の体温に溶けた雪が火照った身体を冷やすには役に立ったが、二人の足先や手先はかじかむ様に冷えていた。
「……これは着替えないと風邪をひきますね」
「……くちん!」
メルウェートが言うや否やタイミングよく可愛らしいくしゃみをするルチア。
「戻って着替えましょう。ずぶ濡れです」
二人は家に入るなり暖炉の火を起こし直して濡れた外套を脱いで暖炉の前に干す。
ルチアは外套の下に半袖のドレスしか着ていなかった。
震えて暖炉の前に縮こまる。
メルウェートは準備してあった手拭いを慌ててルチアの肩に掛けた。
「寒い……」
「それはそうですよ。ほら、よく拭いて下さい」
メルウェートはルチアの濡れた髪を拭く。
「つのは、くすぐったいよぅ」
ルチアはどこか嬉しそうに言う。
角は竜にとって重要な器官であり、他者に気安く触れさせることは無い。
しかしルチアはメルウェートに触れられても嫌に感じなかった。むしろもっと触れて欲しいとさえ思う。
彼女は目を細めながら甘えた声を上げる。
「前も拭いてよぅ」
「子供みたいなことを言わないで下さい」
彼は水分を吸って重くなった手拭いを受け取ると、新しい物を渡す。
彼女は憮然とした表情を作って、それからあきらめたように肩をすくめて受け取った。
ルチアは長い髪や肩口の水分を一通り拭くと、楽しそうに声を上げた。
「全身びしょぬれになっちゃったね!」
「少し暖まったら着替えた方が良いでしょう」
彼女は彼の言葉を聞いて何かを思いついたかのように目を見開く。
「ねぇねぇ、メルウェートって服装に興味ある?」
彼は暖炉の火を強めながら答えた。
「あまり有りませんね」
にべも無い返答にもへこたれず、ルチアは自分の意思を貫き通した。
「ドレイショウニンさんにね、人間の男の人が好きそうな服をもらってきたんだ。ふふふー」
ルチアは楽しそうに笑んでいる。
メルウェートは嫌な予感がした。
「見たい?」
「え?……ええ、勿論ですが、別に今でなくても――」
「待ってて―!」
ルチアはメルウェートの言葉を無視して、小走りに居間を出て行った。
しばらくするとルチアが籠に沢山の衣装を入れて戻ってきた。
「どれを着て欲しい?」
メルウェートは気が進まなかったが、しぶしぶ彼女の趣味に付き合うことにした。
竜の化身とはいえ見た目は人間のルチアが衣装を抱えて表情を輝かせている様はただの年頃の少女にしか見えない。
様々な型のドレス――それもほとんどが深紅の――を見せびらかすルチア。
フリルが付いたものもあれば飾り一つない落ち着いた物もある。給仕様の服も有れば、もはや服として機能していないような面積の無い服も有った。
だが、どの衣装も概ね強烈な赤を基調に彩られていて目が痛くなるように感じた。
おそらくこれらは煌びやかな舞踏会にあっても浮くほどの代物。彼女の感性とはいえその点においては人間の感性から浮世離れしていた。
メルウェートはそんな特殊な趣味に溢れた服を持ち上げてまじまじと見ていた。
すると彼が持っていた衣装に興味を持ったと勘違いしてルチアが声をかける。
「それ、着て欲しい?」
「いえ特には……」
「むぅ……もう少し興味を持ってほしいなぁ」
メルウェートは言葉を返す代わりに、むくれて拗ねるルチアの頭を撫でた。
彼女は一瞬ぴくりと固まるが、すぐにされるがままになって機嫌を直した。
彼は頭を振って言葉を落とした。
「正直な所、服そのものには興味がありませんが、こうして貴女が好きな物を見せてくれることはとても嬉しいですよ」
「そう?」
ルチアは彼の言葉に破顔する。
「わたしも、メルウェートがうれしいなら、うれしいな」
彼は付け加えた。
「まぁ、好みと言う点で言えば私は赤よりも少し薄い色の方が目に優しくていいかと思いますが」
「……じゃあこれは?」
ルチアはごそごそと籠を漁る。それから探し当てた物を誇らしげに掲げた。
「ほら、この下着! これなら目に優しいでしょ」
彼女が持っていたのは純白のパンツ。
メルウェートはそれを見て一瞬言葉を失うと、眼鏡を押し上げて口を開く。
「……貴女は下着も全部赤色だと思っていました」
「そんなことないもん。全部赤だと、竜としても、人間としてもばかみたいでしょ」
メルウェートは彼女のそういった独特の感性は理解できなかったが、小言を述べることで体裁を繕う。
「……でも、他の人に見せては駄目ですよ。はしたないと思われます」
「メ、メルウェートだから見せてるんだよ?」
ルチアはたしなめるようなメルウェートの言葉に、自らの行動が急に恥ずかしくなって、顔を赤らめる。
それからおずおずと尋ねた。人間の常識から外れた事をしてしまったのではと言う引け目を感じたのだ。
「……下着って、見せたらだめなの?」
「駄目です」
「そっか……わかった」
納得して頷くルチアを前に、メルウェートは頭を振った。
「……男性に下着を見せるような女性は、一般的には慎みが無く、はしたないと言われます」
「そういうものなんだ……でも、ドレイショウニンさんは男の人にとっては、女の人の下着が見えると嬉しいって言ってたよ」
メルウェートは苦笑し、彼を恨んだ。
あの奴隷商人はどんな情報をこのいたいけな赤竜の少女に吹き込んだのだろうか。と。
「……色々な趣向を持った人が居ますからそういうことも有るでしょう」
「じゃあ、メルウェートはどんな下着をわたしに着て欲しい?」
彼は一瞬、言葉を失う。
どこまでも素直で一途な彼女は彼に気に入られたいがあまりデリケートな話題でさえ、人間の常識をやすやすと超えて踏み込んでしまう。
「……貴女が好きな下着なら何でもいいですよ。貴女の自由にしていいのですよ」
「そうなのね。わたしは今まで人間の男の人はみんな女の人の下着が好きだと勘違いしてたよ。また考え直すね。人間の常識ってむつかしいね」
ご理解ありがとうございます。と言って、メルウェートは微笑んだ。
「そっかぁ……そっかぁ。見られると恥ずかしいのね」
ルチアはぶつぶつと独り言を言いながら、彼の教えを反芻するように唱える。
彼女は腕組みしながら真剣に考えた。
そもそも竜は服を着ない。
服を着る習慣は、どうしても人間の真似ごとのような格好になってしまっていた。
だから人間の常識からつい外れてしまう。
メルウェートの言葉で自分の思うがままにして欲しいと言われた彼女は、しばらくして名案を思い付いた。
その表情は明るく、とても清々しい。
――では、いっそ。
「ぱんつ――要るのかな?」
「……?」
メルウェートが返答に困っていると、彼女はそれを彼が納得したと思って満足そうに頷いた。
「はかなければ……いいよね!」
ルチアは自らの考えがとても素晴らしい物と思って嬉しくなる。
居てもたっても居られず、ドレスの裾がひらひらと舞う様に跳び回った。メルウェートの言葉と、人間の常識について、会心の答えだと勘違いしたのだ。
一方の彼は呻くように呟いた。
「……一人で納得しないで下さい」
彼の苦悩をよそに、ルチアは遊び盛りの仔山羊のように彼の周囲を跳ね続ける。
「はしたないですよ」
彼は羞恥心と親心の混じった複雑な思いを抱える中、なけなしの語彙をひねり出した。
しかし彼女はあっけらかんと言い放つ。
「はいてないから恥ずかしくないもん!」
最早返す言葉が見つからず、メルウェートは頭を抱えた。
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