第9話 とてもにんげんらしく
朝からルチアは食欲旺盛だった。
「もう少し食事を足しましょうか」
「むぐむぐ」
ルチアは彼女の両手にも収まらないほどの大きなパンを次々に齧りながら、メルウェートが作ったスープで流し込む。
次の瞬間には皿に乗せられた干し葡萄に手を伸ばして口一杯に頬張る。その際に食卓の上に零れたが全く意に介せず次々と食べる。食べる。食べる。
異常なまでの食欲。
ここの所、彼女は家に居ながら寝ぼけ眼でぼんやりと過ごすことが多かった。かと思えば大量の食事に手を付けて、そのままぱったりと眠ってしまう。
メルウェートは地下の食糧庫から次々に食べ物を持って来ては、彼女のために大量の食事を用意した。彼女が大好きなビスケットも毎日のように何十枚も焼き、食べさせている。
「むぐっ」
不意に彼女が喉に食べ物を詰まらせる。よく噛まずに飲み込んだのだ。
慌てて水差しから直接に水を飲むルチア。
苦笑しながらメルウェートがたしなめる。
「お行儀が悪いですよ」
「むぐぅ」
ルチアは恥ずかしそうにしながらも口の中の食物を咀嚼してごくりと飲み込んだ。
メルウェートは彼女の背をさすりながら、焼きたてのビスケットを載せた新しい皿を机に乗せた。
「落ち着いて食べて下さい。まだまだ食料には余裕がありますから」
「うん……ごめんね、お腹が空いてたまらないの」
「ははは。元気な証拠ですね。私を食べたいなんて言わないで下さいよ」
メルウェートの軽口にも返答する間もなく、彼女はビスケットを頬張る。
「いふぁないよ……ひがういいではふぁべたいけど……」
「何て言っているか全くわかりません」
声を上げて笑うメルウェート。ルチアはばつが悪くなってさらにビスケットを口に詰め込んだ。
◇
やがて早春の長い夜が訪れる。
夕食を食べ終わるなり早々に寝台にひっくり返ったルチアはそのまま眠った。
手持無沙汰になったメルウェートは自分の部屋に戻って食料品の在庫を表にしてまとめていた。春になればあのドレイショウニンの伝手で食料を買い付ける必要があるとルチアに聞いたからだ。
夜中までには時間を残して一通りまとめ終わる。
明かりを消そうと手を伸ばしたその時、部屋の扉が叩かれた。
彼は書類を片づけ乍ら返事をする。
「どうぞ」
きぃと軋んで少し開いた扉から、ルチアのか細い声が届く。
「メルウェート、お部屋に入っても……良い?」
「勿論です」
彼女は寝巻に着替えていた。
彼女の細い身体の線がろうそくの明かりで壁に影を映す。ほぼ一日中食べていたにも拘らず、全く太る事の無いその体は竜の神秘だった。
彼女は部屋に入って来るとメルウェートの寝台に腰掛ける。彼も彼女の隣に並んで座った。
「……その」
言い出しにくそうに俯きながら口籠るルチアを見たメルウェートは彼女を和ませようと冗談を飛ばす。
「もうお腹が空いたのですか? 夜食も作りましょうか」
「ち、違うよぅ! もぅ」
メルウェートは慌てる彼女の様子に声を上げ笑う。
しかしルチアはそう言ったきり黙ってしまった。
彼は彼女の言葉を待った。
「……あのね、お礼が言いたくて」
彼女は指先をいじりながら訥々と口を開く。
「……今日も、ごはんつくってくれてありがと」
ルチアは殊更に健気な言葉を口にした。普段であればそのような言葉をわざわざ口にする事は無い。
メルウェートは彼女がお礼を言うためにわざわざこの部屋を訪れた意味を考える。
――確かにここの所は彼女の食事量が異常に多かった。
食べることで他の生き物の命を奪いたくないと言って、なるべくなら食事を控えたいと言う彼女の事だ。そのような繊細さの有る彼女は、食べる事に執着している自身を恥じているのかもしれないと考えた。
だが、いくら何でも畏まって言う事では無い。食後に、さもばつが悪そうに『食べ過ぎたぁ』と後悔するのが普段の彼女だ。
メルウェートは彼女の改まったその様子を見て、何か『他』に思うところがあるのではないかと目星を付ける。
だから彼は事もなげに受け答えた。
「お安い御用ですよ。居候の身ですからこれくらい」
しかしルチアは脚の間に両手を挟んで、もじもじと動いて落ち着かない。
彼の予想通り彼女は何かを言えずに居た。
メルウェートは辛抱強く彼女の言葉を待つ。
「……それから、お願いがあるの」
「何なりと」
「んと……抱きしめて欲しいの……眠れなくて」
メルウェートは彼女の言い淀んでいた事を理解した。
――食欲に比例してメルウェートに甘える頻度が増えた彼女。最近はとかく私の身体に触れたがっていた。
ここの所彼女は食べてすぐに寝てしまい、今までのように私と長く喋る時間を持っていない――だから、彼女は寂しかったのだ。一人になる事を恐れる彼女はスキンシップが足りなかったのだ。
メルウェートそう納得すると、子供っぽい所のあるルチアの言動に目尻を下げ、彼女の背中に手を回して引き寄せた。
彼女は彼の胸に抱かれてほうっとため息をつく。
自らの頭をぐりぐりと彼の胸に押し付けたり、彼の心臓の音を聞いたりと、しばらくしたいままに振る舞った後、彼女はゆっくりと彼から離れた。
「落ち着きましたか?」
「……うん」
だが尚も彼女は彼の寝所を出て行こうとしない。
寝台に腰掛けたまま、言葉を紡ぐ。
「……ねぇ、メルウェート」
「はい」
「わたしのこと、こわくない?」
メルウェートに今さら何を。と言う思いが沸き起こる。
「怖くありませんよ。貴女の腕も脚も、可愛い人間の女の子にしか見えません」
そう言って白く透き通ったルチアの肌を褒める。
「……まぁ、本来の竜の姿を見れば卒倒しかねませんが」
と、付け加えた後に彼女の様子を見る。彼女は少し悲しそうな表情を浮かべた。
「ほんとうは、こわい……?」
「冗談ですよ。貴女の姿なら問題ありません」
メルウェートのからかいにルチアは口を尖らせる。
彼女らしい元気が戻ってきた所で彼は質問を切り出した。
「……何か悩み事ですか?」
「うん。ばれてた?」
「それは、もう。貴女に元気が無いのは珍しいので」
ルチアは寝台に乗ったまま、脚を前後に振って遊ばせながら言う。
「……今さら、なやみ事と言うほど、なやんでいる訳でも無いんだけど……わたしはメルウェートから見て、本当に人間の女の子に見えてるかな?……って」
「先程言った通りですが人間にしか――」
メルウェートは自分の顔を見上げるルチアの大きな双眸に見据えられて言葉に詰まる。
赤いルビーのような虹彩に、潤んだ瞳。どこまでも真っすぐ刺すような視線は彼に軽い緊張を覚えさせた。
彼女のその様子にいつになく真剣であると感じた彼は言葉を止めた。
改めてルチアの事を考えれば、確かに人間離れしていることに改めて気が付く。
――長いまつげ、柔らかく長い髪、しなやかな肢体。
彼女を構成するどの部分をとっても非常に造形が整っている。
器量の良いその相貌は街を歩けば多くの人が振り向いて、見目麗しいその姿に感心する事だろう。
加えて豊潤な知識と温和な佇まい。それでいて時折見せる幼女のような子供っぽさ――。
メルウェートは彼女の見栄えと立ち振る舞いを見れば、どこか高貴な王族に見初められてもおかしくないと思った。
一方で、少し物覚えが悪い所や、数が数えられない事、加えて衣装の色彩センスは壊滅的な事は目を瞑ろうとも思った。
けれども、強大な力を持って人間を凌駕する存在でありながら、しかも凶暴な事で知られる赤竜にも関わらず人間の事が大好きで、人と対等に接しようとする態度は竜らしからず――。
「……まぁ、ルチアさんは有体に居れば人間離れしていますよね」
「褒められてる……?」
相変わらず正直で真面目なメルウェートの言葉を受けてルチアは怪訝に眉をひそめたが、くすっと笑う。
「もぅ……ほんとにメルウェートは変な人だよね」
「変わり者とは自覚していますよ。困ったものです」
メルウェートの自らの事を突き放した様な言いぶりに再び笑顔を浮かべるルチア。
彼女は、彼が竜の化身である自らを恐れていない事だけは確信した。
「……だからこそ、わたし達はうまくやっていけたのかな」
「少なくとも、この半年間は楽しかったですよ。それが何よりの証拠だと思いませんか?」
彼がそう言って彼女の言葉を促す。
だが、彼女は『そっか』と言ったきり薄く微笑んで黙った。
時折、蝋燭の炎が震えて二人の影が揺蕩う。
ゆるやかな時間が流れた。
何度目かに影が揺らめいた時、ルチアが唐突に口を開く。
「ねぇ、メルウェート……わたし達」
ルチアはとても優しい笑顔でメルウェートを見た。
「――こども作れないかな」
思いがけない言葉に絶句しかけるメルウェート。
しかしやっとの思いで言葉をひねり出す。
「……どういった意味でしょう」
「そのままの意味なんだけど……試して……みない?」
ルチアはいつになく積極的にメルウェートに迫った。
「どうしたのですか。貴女は他の竜との子孫を残す予定では?」
「メルウェートと居てわかったの――わたしは竜だけど、人間として生きたい」
彼が面食らっていると彼女はメルウェートに飛び付いた。
彼が寝台に押し倒されるとその身体の上に馬乗りになり彼の右手をとる。
ルチアの手によって、彼女の控えめな胸に当てられたメルウェートの手の平。
わずかに早い彼女の鼓動が彼に伝わる。
「ほら、心臓の音わかる? ここも人間とおなじなんだよ?」
彼は彼女の手を振り払うと口を開いた。
「しかし――」
「わ、わたしだって恥ずかしいんだよぅ……」
そのままメルウェートの胸にうつぶせになり、顔を背けるルチア。彼からは彼女の顔は見えなかったが、どんな表情でいるのかは手に取るように分かった。
きっと、また顔を真っ赤にしているに違いないと。
彼に覆いかぶさった格好になって、彼女の体温が彼の腹に、胸に伝わる。
瑞々しい果物の様な香りが彼女の首元から仄かに立ち上り、彼の鼻孔をくすぐった。
――スイレンの花の香り。
彼は、とある地方にしか咲かないその花にまつわる知識を知っていた。
『清純な心』を表す白いその花から作られた香水は、花嫁向けの高級品として珍重される。
――女性がそれを自らに振りかけるという行為はその身の全てを捧げるという意味があった。
メルウェートは彼女の事を思い言葉を紡ぐ。
「……そもそも、人と竜の間に子供を儲けることができるどうかは判りません。身体の小さな貴女を傷付けてしまう可能性だってあります」
「わたし、丈夫だもん」
「都合のいい時だけ竜のように振る舞わないで下さい。それは判っています―――が」
不意にルチアの人差し指がメルウェートの唇に当てられた。
彼女の潤んだ赤色の瞳が彼の困惑した黒色の瞳に向けられる。
「こういう時、人間だとどうするの? いっぱいしゃべる、の?」
ルチアは少し悲しそうに呟いた。
メルウェートは頭を振って黙る。
――今、彼女を拒絶すれば、これまで培ってきた信頼や愛情が失われてしまう。かといって彼女を受け入れても彼女に痛い思いをさせてしまうだけかもしれない。
――どちらにせよ彼女を傷付けてしまう。
メルウェートには彼女に応えるべき仕草が、言葉が見つからない。
彼が黙り続けていると、彼女の悲痛な声が漏れた。
「……どうしたらいいの? わたしはメルウェートの事が……もっと仲良くなりたい……どうしたら……」
彼女の双眸に涙が溜まる。零れ落ちそうになって彼の胸に顔を埋めた。
すすり泣き、小さく肩を震わせはじめる。
「……」
メルウェートはルチアの頭を撫でようとして、そして止める。
彼は彼女を傷付けないように少し距離を置いていた。けれどそれが結果的に彼女の心を削る様に薄くひっかき続けていた。
彼はようやく、自らの中途半端な優しさが彼女を苦しめていたことに気が付く。
――人間に生まれれば良かったと嘆いていた彼女。
叶わない願いを渇望して、それでも今を一生懸命になって生きようとしていた。悲しい思いを抑えながらも健気に明るく振る舞い、人間に歩み寄った。
「……ルチアさん」
彼の呼びかけに拒絶されたと感じてより一層嗚咽を高めるルチア。
堰を切ったように泣き始めた彼女の泣き声で部屋が埋まる。
しばらくして泣き止むも、その沈黙に重い物を感じるメルウェート。
彼は覚悟して眼鏡を外し、傍らの机に置く。
それから彼女の肩に手を掛け――。
「……ルチアさん?」
急に自らの身体に乗っていた彼女から力が抜けたように感じた。
つい先程まで彼女は泣きながら全身を強張らせていたにも関わらず、今はだらしなく彼に身体を預けている。
メルウェートは上半身を起こし見た。
彼女はすうすうと寝息を立てている。
涙の跡が痛々しい。
――先ほどまであんなに喋っていたというのに。
メルウェートは違和感を覚えながらもルチアを自分の寝台にそっと寝かせた。
無垢な赤竜のあどけない寝顔をしばらく見つめ、それからそっと頭を撫でて部屋を後にした。
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