第7話 ちえはなかなかみにつかない
事の起こりは三日前。
いつものように吹雪が吹き荒れていたある日の事。
その日も家に籠っていたメルウェートとルチアは雑談の中で人間の子供達の教育について触れた。
ルチアがふと何気なく発した一言からそれは始まった。
「もし子供が生まれたら、どんな勉強させたらいいと思う?」
「……あまりにも気の早い話だと思いますが」
そういって困惑するメルウェートをよそに、ルチアは楽しそうに続けた。
「わたしはやっぱり人間の学校に入れてあげたいなぁ。時々は竜のお友達にも会わせて……」
ルチアの思い描く未来はとても明るかった。目を輝かせてあれこれと妄想していた。
しばらく考えていたメルウェートは彼女の様子を見て提案する。
「……では、人間の子供達の学校で行われる教育をルチアさんに教えてあげましょうか」
「ほんとに?! それ、嬉しい!」
ルチアにとってはメルウェートのそれは思いがけない提案だった。
知識と言えば蔵書の本を読み漁るだけ。昔はともかく、今の人間達がどのような教育を言受けているのか思いもよらなかった。
彼の方を満面の笑みで見つめる彼女の目には嬉しさのあまり涙がうっすらと浮かんでいた。
ひとまず彼は両腕に収まる程度の大きさの手製の黒板を持って来た。ここの所、ほぼ毎日と言ってよいほど続く彼女との談義の中で必要になったので二人して作ったのだ。長い冬の暇つぶし、と言う目的も有った。
黒板の材料は彼女の住み家である洞窟の地下に渡って広がる倉庫に有った物から作られた。全てルチアの収集癖によって集められた骨董品だ。
木枠がトレントの幹、板がミスリル銀の艶消し板、塗料に月光蝶の鱗粉と、見る人が見ればそれだけで卒倒しかねないほど高価な材料を用いていた。だが何しろ知識の取得に貪欲な錬金術師の青年と好奇心旺盛な赤竜の少女の事である。知識を前に細かい事は気にしない二人は伝説級とも呼べるそれらを惜しげもなく使っていた。
メルウェートは幼年者に向けて組んだ学習の計画を黒板に書き連ねるとルチアに見せた。
「これが初等科の時間割です。一日かけて幾つかの内容を学びます」
「すごいねぇ、一杯勉強するんだねぇ」
ルチアが感心する事しきり。内容の些末について彼に逐一訪ねている。
「ええ、まぁ私が組んだ内容ですから……過剰な知識量かも知れませんが」
「メルウェート、先生だったの?」
「田舎に住んでいた頃、食うに困って教師のまねごとをしていました」
そう言われて見れば、かけている眼鏡がいかにも先生っぽいと、一人納得している彼女はひとしきり彼の様子を揶揄しつつ、やがて黒板に書かれたある文字の前に動きを止める。
不審に思った彼が見ればそれはごく初歩的な単語。小首を傾げて悩んでいる彼女を前に助け舟を出す。
「読めませんか?」
「初めて見る単語だよぅ」
「貴女が使う『古語』にはない言葉ですからねぇ」
メルウェートはその意味を教える。幼年者向けの時間割には『自由時間』を入れてあった。表に描かれていたその言葉をルチアは指していた。
「これは『じゆう』と読みます。意味は、そうですね、何でもできる状態の事でしょうか。束縛や、窮屈と逆の意味で使われることが多いようです」
「そうなんだ! こんな文字なのね……」
「意味はご存知だったようですね。人間が不自由を感じたのは最近の事だったのです。『自由』が失われて初めて『自由』と言う概念が生まれたのですよ……それまでは自由と言う概念は無く……」
しみじみと感慨深く述べるメルウェート。
ルチアは太古に使われていた古語しか知らなかった。最近になって生まれた言葉はあまり知らないのだ。
「……」
ルチアは考え込んでいた。
しばらくして、メルウェートを困惑したように上目遣いに見る。
「もしかして……メルウェートは私といて……不自由な事とか……ない?」
「どういう意味でしょう?」
彼は彼女の言葉が意味するところが分からず思索する。
――そもそも自分自身は奴隷としてここに連れて来られた。だが心優しい彼女の事。きっと自分が不自由を感じているのではないかと不安を抱いたに違いない。
彼は頭を振った。
今さら何をと。無粋にも程がある、と。
彼は彼女の住み家に居て不満を感じた事は無かった。
衣食住を整えられた環境。それから無尽蔵の知識を持つ彼女と話している時間は何よりとても楽しい。
仮に不自由だからと言って、その不満の矛先を彼女に向ける事はあり得ない。
彼は彼女の事を尊敬するようになっていた。何より、一緒にいると心地良かった。もはや彼女無しの生活はさぞかしつまらないものになると思えていた。だからこそ不自由を感じると言う程度で、彼女に対してそんな不満をぶつけるわけがなかった。
それだけに、気心が通じていたと思っていた彼女が浮かべる表情は、彼の想いを超えていて衝撃を受けた。
それから、彼女が抱いている不安は彼女の優しさと気遣いに基づく事にも気が付いて少し嬉しくなった。
一方のルチアはメルウェートの問いかけに対して何かを言い淀んで、考え込んでいた。
何かを言おうとしては口を閉ざし、また口を開く。そしてまた閉じると言う事を繰り返す。
彼女は何か言う事を躊躇っている様子だった。
「……あ、あのねメルウェート」
「何でしょう」
ルチアは意を決する。
彼女の顔は紅潮し、彼から視線を逸らしてそわそわと落ち着きがない。
「んと、えーと……不自由だったら……その、わたし……手伝うからね?」
「どういう意味でしょう。何を手伝ってくれるのですか?」
彼女は恥ずかしそうにして口籠った。
「わ、わたしの身体で良ければだけど……」
ルチアは手で顔を覆ってそれ以上は二の句を継げない様子。
メルウェートは全く要領を得ない彼女の言動をひとまず置くことにした。
時々このように意味の分からない言葉を述べては一人顔を赤くするルチア。メルウェートはこれまで何度かこういった彼女の不自然な言動を目にしていたが、いつもこれといって明快な理由が見つからなかった。現段階で考えても答えが出ない事は考えても意味が無いという考えに至り、彼は話を進めるに限ると考えた。
「ふむ……まぁいいでしょう。とりあえず勉強を続けましょうか」
一方、机に突っ伏すと蚊の鳴くような小さな声で後悔を呟くルチア。
「わたし、何言ってるんだろぅ……」
想いが伝わらず空回りしている不憫なルチアであった。
その日は終わりまで、淡々とメルウェートの教育が続いた。
◇
その次の日。
メルウェートは時間割に沿ってその内容をより詳しくルチアに伝える。
教師が生徒に教えるように、実際に講義して見せていた。
しかしルチアの様子はどこか上の空で、形ばかりの返事が続く。
「ふーん。そうなんだー」
「真面目に聞いていますか?」
「だって、いつものお話と違ってメルウェートのお勉強難しいんだもん。いぢわるしてない?」
「していません」
メルウェートが指していたのは初等教育の基礎であった。
――語学。
これを基礎にあらゆる学問が組み立てられている。人に自分の意思を伝えるのに用いる。
また、本を読み解き更に多くの知識を身につけるために必要である。
――算術。
人間の社会の中で読み書きに次ぐ重要性を担う学問。
これができなければ日常的な買い物に困ったり、お金を騙し取られたりする。
そのどちらもルチアには初めての内容だった。彼女はその内容に頭を悩ませていたのだ。
意外にも、彼女は物覚えが『非常』に悪かった。特に算術については致命的であった。
今覚えた事も、次の日にはすっかり忘れているような有様だった。
昨日の続きを講義するつもりだったメルウェートは肩透かしを受けたような格好になって、しばし彼女の理解に歩調を合わせる。
「思い出してみて下さい。今、ルチアさんが解いているそれは昨日出した問題と全く同じですよ」
メルウェートの助言に耳を貸す事も無く、ルチアは簡単な足し算を前に頭を悩ます。
しばらく待っても一向に計算が進まない。
彼が辛抱強く待つ事、小一時間後。
「……わかんない」
彼女は匙を投げた。
メルウェートは昨日説明した内容と全く同じ説明を行った。
「……という訳です。判りましたか?」
「むつかしいってばぁ! どうして『10足す3』が『13』になるの? どう考えても『3』じゃないの?」
「違います。貴女の世界ではそうなのかもしれませんが――違います」
「二回言わなくても分かるよ! いぢわる!」
ルチアは舌を出してまるで子供の様にメルウェートに八つ当たりをする。
彼女の理屈はこうだった。
人間の指は10本しかない。10本を越えたら、また1から始めるしかないではないか。
だから越えた分を数えて行くと――『3』なのだと。
「……」
メルウェートは頭を抱えた。
「……どうして自分の年齢は判るのに、足し算が苦手なのでしょうか。どうやっていままで色々な事を覚えてきたか教えてもらえませんか?」
ちょいちょい、とルチアがメルウェートの服の裾を引っ張る。
文房具を治めてある箱の奥からごそごそと取り出したのは随分と古びて分厚い手帳。
しかも一冊だけでなく、何冊かをひとまとめにしていてつぎはぎだらけ。
触っただけで壊れそうなくらいに傷んでいた。
彼女はそれを開いて見せた。
紙面には丸いころころした特徴的な文字が並んでいる。
書かれた文字は『古語』。
紛れもなくルチアが書いた物だった。
「……日記ですか?」
ルチアは満面の笑みでこくこくと頷く。
「日記をずーっと書いてるから分かるんだよぅ。思い出せなくなったらまた見返してるの。
……偉いでしょ?」
「それは偉いですね」
メルウェートはまるで子供にするようにルチアの頭を撫でる。
彼女はうっとりしてそれを受け入れた。
ひとしきり褒められると彼女は日記帳を慎重に箱の中にしまった。
「大事な物なのですね」
「見ちゃ駄目だよ? さすがにわたしでも、それは怒るからね」
「ええ。とても興味深いですが、また貴女に齧られては叶わないのでそれはよしておきます」
「その話……また蒸し返す?」
二人は些細なきっかけではあったが、これまでに何度か取っ組み合いの喧嘩をしたことが有った。意外にも、ルチアは竜の化身であったが、人間の姿の彼女はまるで見たままのように非力であった。だからいつも一方的に子供っぽい彼女が暴れて、メルウェートは彼女を上手にあやすような状況であった。
そして、ルチアが大人の人間であるメルウェートに反抗するためにとった最終手段は『噛みつく』という所業だったのだ。
「もうこりごりです」
メルウェートの心底から参ったような言葉に笑うルチア。
喧嘩しては仲直り。
その度に心の距離が近づいていた。
今では喧嘩こそなく、お互いに居心地の良い距離感を得ていた。外から見れば彼らが仲睦まじい親子か、兄妹に見える事だろう。
ふとルチアが壁の仕掛け時計を見て言う。
「ふふ。もうすぐお昼だね。お腹空いた?」
不思議な仕組みで動いているその時計は仄暗い冬の家の中で唯一正確な時間を示していた。
「大丈夫です。食事はこの問題が終わってからにしましょう」
「う……やっぱり解くんだね……よーし、わたしがんばるよ!」
ルチアは改めて勢い込んで問題に取り組み始める。
メルウェートの目には彼女のそういった態度は大変好ましく映ったので微笑ましく見守る。
彼女が問題に取り組む間、手持ち無沙汰になったメルウェートは彼の癖である思索に耽り始めた。
彼女の記憶力についてである。
彼女は物覚えが悪かった。正確に述べるならば『新しい事』を覚えるのはとても時間がかかる事が判った。
理解力は人並み以上にあるのに記憶力があまりに劣っており、メルウェートにはそれが不思議でたまらなかった。
彼はふと、日記帳の事を思い出す。
彼女がつけ始めたという日記はずいぶんと古い物だった。
それこそ古文書とも呼べる。
彼女は二千年を生きた赤竜。つまり、長きに渡って様々な知識を有すると言う事。
その一方で二千年生きた中に拾い上げられた知識もあれば、こぼれた知識も有ったはずだ。
(竜に、覚えられる量には限界はあるのだろうか?)
彼は一人考え続ける。
彼女の記憶力が極端に悪い理由について、簡単な仮説を立てた。
もし、記憶力に限界があるのならば彼女が物事を覚え続ければいつかは記憶できる限界に到達してしまう――人間と違って永きを生きる彼女らが人間の記憶力で記憶を進めれば、それはきっといつか起こるのではないか、と。
(もしこの仮説が正しければ、彼女の記憶の速度が人間よりも遅いという理由がつく。そして、限界を越えてこのまま多くの知識を身に付けて起こる事態とは何だろうか?)
メルウェートは内心青ざめる。思考が最悪のケースに及ぶ。
(もしかして――無理に記憶させれば彼女の記憶は……!)
メルウェートは想像した。そして危惧した。
限界を超えて詰め込まれた知識はきっと器から溢れた水のように零れ落ちる。そしてそれ以降覚えることは叶わなくなる。
目の前で新しい事に一生懸命になっている彼女がこれ以上の馬鹿になっては可哀想だ。
メルウェートはがっしと彼女の両肩を掴んだ。
「ルチアさん! その勉強はもう必要ありません。ご飯にしましょう!」
突然の言葉にルチアはびっくりして言葉を返す。
「ふぇええ? ……どうしたの? おなかすいて我慢できなくなっちゃった?」
「そうではありませんが、勉強はルチアさんに必要ありません」
「どういうこと? ……うーん、変なメルウェート……わかったよ。ご飯の準備をするからその後でまた教えてね」
向学心旺盛な彼女の言葉に一抹の不安を覚えた彼。
「いえ!……いや、それ位の計算能力は身に付けておいた方が良いとは思うのですが……いえ、それでも」
彼は『良い子』で頑張るルチアと『頭の弱い』ままのルチアの、どちらが好ましいのかその狭間で葛藤していた。
◇
今日、渋る彼をよそにルチアにせがまれた人間の子供向けの学習を一通り終えた。
彼らは食卓を囲みながら、話はルチアの子供時代に及ぶ。
メルウェートはルチアの話す内容に自らの予想が杞憂だとわかって安堵していた。
「――つまり元来から物覚えの悪い子だったと」
「えへ。他の兄弟からはたくさん馬鹿にされちゃったけど、それでもわたしは一番体が大きくて強かったから、皆をねじ伏せて言う事聞かせたんだぁー」
ルチアはふんすふんすと鼻息荒く、自慢げに語る。
食事をしながらの会話は弾む。パンの欠片を手に、いつになく上機嫌の彼女だった。
メルウェートは嬉しそうに話す彼女を前に破顔する。
――人と竜の生き方は違う。
永くを生きる竜族はゆっくりと知識を蓄え、人間のように生き急ぐことは無いのだと、メルウェートは理解した。
彼女とのやりとりの中で竜と人では常識が違うという事を思い知った。
彼はこれ以上、ルチアに無理やり勉強を押し付けようとは思わなかった。
――もし彼女に足りないことが有った時には、自分が助ければ良いと言う事にも。
メルウェートの心配をよそに、ルチアは無邪気にも彼に問いかける。
「ご飯食べ終わったら、勉強の続き……する?」
あまり物覚えは良くないが、勉強を一生懸命にするという態度は立派な彼女であった。
「いえ……」
メルウェートは否定しようと口を開きかけたが、ルチアの言葉にかき消された。
「勉強も楽しいけど、ほんとはメルウェートとお話できるだけで楽しいんだよ。明日もいっぱい教えてね!」
幸せそうな彼女の表情を見ていると、この笑顔を守りたいと思うメルウェートであった。
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