第5話 いきるということ
メルウェートに悪気がない事が判り、ルチアが警戒心を解いたのはそれからちょうど一週間後の事だった。
その日はとても天気が良く、日差しが強かったが、高い山に位置するルチアのねぐら周辺では空気は程よく温み、絶好の散歩日和だった。
並んで立つ二人の素肌を優しい風が撫でて行く。
「たまには散歩もいいものですね。ここは景色が良い」
彼の穏やかな声にルチアは満足する。
「でしょう? ここをわたしの住む場所に決めたのも、この景色をいつでも見られるからなんだよ」
しばらく歩いた二人は彼女のねぐらに近い山の頂上に登り、下界を見下ろしていた。
眼下には自然豊かな森が広がっていた。川が森を縫うようにして流れ、遥か遠くには雪山も見える。
「ええ、絶景です。とても良い所です」
二人は雄大に広がる景色を眺めながらのんびりと時間を過ごしていた。
紺碧の空。
流れる白い雲。
「……なんだかデートみたいだね」
ルチアは悪戯っぽい笑みを浮かべながらつぶやいた。メルウェートの横に並びつつも、さらに少しだけ近づいて同じ景色を見る。
「そうですか? 私にはピクニックに思えます」
「じゃあ、ピクニックデートだね!」
彼は空を見上げた。
ルチアには答えてみたもののどちらでも良かった。
彼は想いを馳せるように語り出す。
「私は自然が大好きです。万物が流転し、その全てが事象として結集する。とかく不思議とその真理に近づくにつれておのずと自然はこうも偉大で神秘的なものかと思うようになりました。だからこういった景色に触れ合う事は自らの精神を自然に融和させ、鋭敏に研ぎ澄まされた様な気分になります」
「あーあの雲、わたがしみたい」
彼の言う事を途中から全く聞いていなかったルチアは事もなげに言い放った。
だが、意外にも彼女の言葉は彼の気を惹く事に成功した。
ルチアの呟きを意外に思ったメルウェートは振り向く。彼女は肉が好きだと聞いていたからだ。
「ルチアさんはお菓子が好きなのですか」
「うん。でもわたがしは特別だよねーふっわふわで、しゅっと溶けて、あまーいの」
彼女の好きだという菓子と同じく、溶けてしまいそうなくらいに幸せそうな表情を浮かべる彼女。口元からはすこし涎が垂れている。
メルウェートはこれが最強の赤竜の実際の姿かと思うと、あまりの意外性につい笑いを漏らしてしまう。それからこの先の事を考えて提案してみた。
「私は今、奴隷の身で、ほとぼりが冷めるまで今すぐに街に戻れるわけではありませんが、いつか街に行く機会があったら一緒に食べましょうか。綿菓子を」
それは良い提案だと満面の笑みを浮かべたルチア。
「食べすぎには気を付けなきゃだけどね」
彼女の華奢な体型からは想像できない言葉だった。彼には、彼女が食事制限をしている様に思えなかったのだ。
メルウェートは彼女と何度も一緒に食事をしていたが、ふと思い返して見れば彼女の食べる量はとても少ないことを思い出した。そもそも食料をどこから手に入れたか判らないが、この辺りでそれを確保するのはとても困難だと言う事はおのずと分かった。だから節約していたかと言うとそうでもなかった。
ルチアはいつも、彼女よりも体の大きな彼のために多めに食事をよそう気遣いを見せていた位だった。
彼はそんな彼女の気遣いを思い出し、これが人間の姿であれば育ち盛りであるはずの年代に相応しい食べ物の量かと危惧した。
「……そう言えば、いつも小食の様ですが、大丈夫でしょうか」
「う?」
ルチアはきょとんとして振り返る。さも何を言っているのだろうと言わんばかりに間抜けな顔になっていた。
しばらくして彼女は答えた。
「うん。大丈夫。それよりも、メルウェートはいつも残さず食べてくれるけど……足りてる?」
彼は逆に質問される形になった。
「ええ、十分です、ですが――」
「良かった。足りてないのは問題だけど、無駄はもっとよくないもの!」
彼の言葉を待たずにルチアは嬉しそうに辺りを舞ってはしゃぐ。春の陽気に嬉しくなったのか、そのまま少し離れた所まで楽しそうに駆けていくと、ふと動きを止めた。
彼女の行動を不審に思ったメルウェートが目を凝らしてみれば、どうやら山兎を見つけたようである。岩肌の色に同化した山兎を見付けるのは難儀なものだが、彼女の目は優れていた。
彼女の狩りが成功すれば、今晩の夕食は少し豪華になりそうだと、彼はほんの少し期待して微笑む。
ルチアは様子を伺うためにしばらく動きを止め、目も止まらぬ速さで山兎を捕まえた。流石の身体能力と言うべきところだ。道具も使わず素手で野生の生物を捕まえてしまう辺りは遥かに人間離れしていた。
きっと貴重な食料を見つけて目の色が変わったのだろうと彼は思った。
兎は暴れていたが、大人しくしなさいとぼやく彼女の言葉の後に観念したのかぐったりと脱力する。
ルチアが絞殺したのかと思ったが、よく見れば腹は上下している。兎は生きていた。
彼は次の瞬間、彼女が取った行動に驚く。
彼女は何のためらいも無く自らの服を引き裂くと、口で咥えながら山兎の脚に手早く巻き付ける。脚が折れていないか確認をして、そっと岩陰に隠した。
彼女は怪我をしている山兎を見つけてその手当をしたのだった。
高価な彼女のドレスの裾はびりびりに破れて見る方も無かったが、そんな事は全く意に介せず、彼女は口の端を優しく結びながら彼の所へ戻ってきた。
「タカに襲われたみたい。安全な場所でしばらく眠らせたから起きたらもう大丈夫だと思う」
暴虐の『赤竜』がもう何をしようと驚かなくなっていたメルウェートだったが、少しだけ感心してその行いを褒めようかと彼女の頭に手を伸ばしたその時だった。
彼女はにわかに口を開いて、先程の彼の問に対する答えを返す。
「メルウェート……さっきの答えだけど」
「何でしょう?」
彼女は言い訳を始めるように、少ししょんぼりして言葉を紡ぐ。
「わたしが少ししか食べない理由ね……本当は、ほかの生き物を殺さずに生きていきたいの。どうしても命を奪わないと生きていけない事は分かってる。それでも、だから……あんまり食べたくないの」
「……」
彼は驚いていた。
――奪う命を最低限にしたい。
まるで修道女のような観念を持った赤竜が居るとは思っても見なかった。むしろそれを実践している分、巷の坊さん達よりもよほど神々しく見えた。
だが、彼には言わなければならないことが有った。
「その気持ちは判ります。ですが食事で貴女の健康を害しては困りますよ」
「わかってるよぅ。ちゃんとしてるもん」
メルウェートは頭を振った。
彼女は分かっていない。食事は大切だ。
これまでは思いやりのようにも感じたが、ここは彼女のためにもきっちり指導しなければならないと使命感に燃えていた。
メルウェートには彼女がそれらしく何かを繕っているのは分かっていた。そして彼女が彼に何を言わせたくないかも分かっていた。
「……ならば、きちんと『豆』も食べて下さい。毎食のように、私の皿にだけ避けてよそうのは止めて下さい」
「……ばれてた」
ルチアは気まずい様子で舌を出している。
「好き嫌いは良くありませんよ。はっきりとは判りませんが、貴女は育ちざかりに見えます。偏った滋養では大きくなれません」
「もう十分、大きいもん」
ルチアはむくれながら不満を表す。
彼は再度分かっていない、と頭を振った。
「そうですか。大体、ルチアは今何歳ですか。私は貴女の見た目でしか判断できませんが、人間ならばあなた位の歳であれば何でも食べないと身体が弱ってしまいます」
「今の年齢……」
彼女は指を折々数え出した。
「んと、二千と……じゅ、二十歳」
「今、鯖を読みましたね?」
「ぶう……」
再びむくれる彼女。
それからしばらくメルウェートの説教は続いた。
嫌々をしながら説教に耐えるルチアの様子はもはやただの可愛い少女そのものだった。
人間が赤竜に対して、毎日のご飯の事で懇々と垂れる説教は大陸史上初めての事となった。
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