第3話 なまえをきめよう

 彼女の叫びに硬直するメルウェート。

 死んだ。

 と思った。


 しかし、その後の彼女はずいぶん淑女的な対応だった。


「……もぅ。ひどいな」


 彼女は脱力してふうっと息を吐いた。

 見た目通りの少女のように、頬を膨らませて拗ねただけだった。


「……すみません。貴方と一緒に暮らす以上、嘘は付けないと思いました」


 途端に彼女の細い肩がぴくりと反応する。


「今、なんて言ったの?」

「……嘘は付けないと」

「その前」

「一緒に暮らす、ですか?」


 彼の『一緒に暮らす』という言葉で途端に機嫌を直した少女は肩をすくめつつ口を開いた。


「……じゃあ仲直り。わたしもあなたに近づき過ぎたから、お互い様だもの」


 そう言って笑う少女の笑顔は眩しい。

 メルウェートはしたたかに頭を垂れた。


「本当にすみません……えーっと」


 そこで気が付く。

 彼女の名前を知らない。


 名前が無いとどうも呼びにくい。おい。とか、お前などと呼ぶのはもっての他である。

 『赤竜さん』などと呼ぶのは、逆ならば『人間さん』などと呼ぶのに同じだろう。それでは失礼にも程があると思った。だからまずはとにかく彼女の名前が必要だった。

 彼がその旨を伝えると、彼女は事もなげにこういった。


「名前……無いの」


 魔法が闊歩するこの世界の常識的に、名前を知ると言う行為は魔法を知る者にとっては危険な行為である。なぜなら名前を知る事で魔法の対象となり、呪いを掛ける事が容易くなるからだ。だから目下から名乗るし、目上は名乗らないこともある、この場合は彼女が名乗らないのもそのような思惑があっての事だと、メルウェートは思っていた。


 だが、『名前が無い』とはどういう事か。彼が疑問に思って彼女に問いただすと、人間になってからずっと一匹で誰とも会わなかったから、名前が必要なかったとの事。確かに一人であれば名前を呼んでくれることもあるまい。

 それにしても名前を必要としないほど居た一人の時間とはどれだけ寂しかった事だろうか。小さな彼女の虚しい日常を思うと涙の一つや二つこぼれては仕方ないと思ったかどうかは知らない。しかしメルウェートが眼鏡を外して目元を拭った所を見れば、それなりに感傷に浸る思いをしたのも事実。


 何はともあれ、彼がお詫びついでに彼女に名前を差し上げたいと思うのは自然な事だった。


「名前、欲しくありませんか?」

「うん、欲しい!」


 先ほどまで泣いていた烏が今となっては笑っている。感情の起伏が実に豊かな『赤竜』だった。

 さてどんな名前にすればいいのかメルウェートは悩む。強そうな名前にしては華奢な姿の彼女には似合わない。その実は頑丈で最強と謳われる『赤竜』である彼女だが、こうも見目美しい姿では、濁音の響いたような強そうな名前は相応しくないと感じる。だからといって人間の名前を気楽につけていいものかも迷う。

 ならばいっそ本人の要望する名前は無いかどうか、聞いてみるのが一番手っ取り早くて無難だと思い至って口を開く。


「なにか、好きな名前は有りませんか?」

「うーん、ダイゴロウ? それかセイジロウ」


 非常に残念な事に彼女の美的感覚ネーミングセンスは壊滅的であった。そればかりかどうひっくり返してみても男性の名前しか出てこない。人間の事を思って読んだという本は、非常に偏っていた様だ。

 これは困ったと、頭をひねりながらうんうん唸って考えるも、彼女に相応しい名前など簡単に出てくる事は無い。そうなるともっと彼女の事を知らなければならないと、メルウェートは彼女の引き出しを開けにかかった。


「好きな物は?」

「昔はお肉、今は人間」


 『好きな物』が『食べ物』では無い事を祈った。

 青年は彼女の回答を聞こえなかったものとして聞き流した。

 そしてこれではまだまだ彼女を知るには物足りないと思ったのでさらに質問を続ける。


「大切にしている物は」

「なんだろう……大自然?」


 なんというか凶暴で最強の『赤竜』というより大自然を尊ぶ高潔で尊いエルフ族を見ているような気分になってきたメルウェートはこんな子が一人で寂しく山奥に籠っていたことに想像が至り、再び少し涙ぐんでしまった。もう一度眼鏡を外して目を拭うも、彼女の一言で我に返る。


「……あ、縄張りも」


 そうだったそうだった。見た目に騙されるところだった。彼女は曲がりなりにも『赤竜』。竜は縄張り意識が強く、そこへ侵入した生き物を事もなげに殺しにかかる。凶暴で最強の名をほしいままにした『赤竜』であればその縄張りは広大だ。多くの生き物が彼女の住み家に近寄ること能わず、彼女の高温のブレスの前に燃え尽きた事だろう。

 そんな陰惨な情景が脳裏をよぎったので質問を重ねて暗くなりかけた気持ちを紛らわせる。


「あなたの生まれは?」

「生まれ? 覚えていない……何年生きているか。くらいしか覚えてないの」


 メルウェートは、彼女がまるで生まれたての赤子のようだと思った。

 ――ふと、彼女のイメージと、言葉が重なる。


 生身の人間の事をほとんどと言っていいほど知らない彼女。知識は本から得た物のみで実践的な知恵は身についていない。これから覚えていくことになる今の状態は例えるなら真っ白な状態。何も穢れの無い純白の存在。ならば、相応しい名前は。

 一筋の光明が彼の脳裏を照らすがごとく浮かび上がった名前。


「ルチア――は、いかがでしょうか。」

「ん……ふふ。『光』という意味ね」


 さすがは永い時を生きた凶暴で最強の『赤竜』。

 好奇心旺盛な彼女の特性もあいまって、知識は蓄えていた様子だ。知を追い求める錬金術師として蓄えた知恵の中から選んだ稀有な語彙ですら、彼女はその意味を理解しつつその意味を汲めたように見える。


 彼女は嬉しそうに微笑む。彼が見れば目の端に涙を溜めている。と、不意にへの字に眉を歪ませた。途端に腕の中に顔をかくすようにして、それから肩を震わせ始める。


「ど、どうしました?」


 慌てたのはメルウェート。その状況はさながら子供を泣かせた大人の様。


「ぐす、な、何でもないよぅ」

「何でもないという事は無いでしょう、どこか痛いのですか? 多少なら薬の知恵も有ります、見せてごらんなさい」

「ううん、どこも痛くないってば……嬉しかっただけ!」

「……」


 臆面も無く顔を上げた彼女の表情はそれはもう大変に動揺したものだったが、目には涙、きつく結ばれた口元、紅の差した頬と耳。どれをとっても端正な美しさを持つ彼女だったので赤面したのはむしろメルウェートの方だった。そのまま美しいものに見惚れるようにぼおっとしてしまう。

 彼女は告白するように続けた。


「……わたしね、寂しかったの。長い間ひとりぼっちで、この姿に変化ができるようになる前は誰よりも大きな姿だったでしょう、近づいたら皆怖がっちゃって。そしたらドレイショウニンさんが現われて、話し相手になる人間を連れてきてくれるっていうから……しかもその人は友達になってくれるだけじゃなくて名前までくれた」


 メルウェートは自分を連れてきた奴隷商人がそんな約束をルチアと取り交わしていた事を知った。

 が、今はそれよりもずっとひとりぼっちで寂しく暮らしていたこのいたいけで健気な少女に同情した。彼女は――凶暴で最強の名を謳われる『赤竜』だが。

 そもそも人間は群れて暮らす動物だから一人が寂しいのは判る。ところが、竜であるところの彼女に同じようにその常識が通用するかと言えば、やはり通ずるところがあった。

 どんな動物だって気心のしれた仲間と暮らすのは心強いに違いないのだ。


 成り行き上、仕方なく彼女に近づいて見たメルウェートだったが、ここまでか弱い姿を見せられると、暴虐で残忍な『赤竜』とは言え、守ってあげたくなる気持ちになるのは禁じ得ない。

 それが人間の優しさだし、強さでもあり、美徳とするところでもあるからだ。

 

「……それで私は友達として、いかがでしょう?」

「会えて、とても嬉しいわ」


 ルチアは泣きべそのまま笑っている。

 メルウェートは優しく微笑んだ。

 彼が目を細めて、輝くような少女を見ていた時の事だった。

 彼女の口から提案、もといお願いが更に飛びだした。これまでは多くの事に遠慮して、身を引いて悔しく寂しい思いをしてきた彼女であったが、もう目の前の青年に遠慮をしなくてもいいと思えたのだ。


「ね、メルウェート。ぎゅって、していい?」

「構いませんが……そっとお願いします」

「わたしそんなに馬鹿力じゃないもん!」


 彼の沈黙の意味を察したルチア。

 ふくれる彼女に、少し噴き出すメルウェート。


「では、どうぞ」


 立ちあがったルチアはそれでも背が低かった。メルウェートの腰に手を回し、甘えるように彼のお腹に顔をうずめる。人への変化の時に背丈までは考えが至らなかったようだ。

 青年はたまたま小柄に変化してしまったという彼女が大きく成長するのはいつのことになるだろうかと計算を試みたが、少し考える程度にしておいた。今はさびしん坊の彼女の一時の拠り所になってあげようと思った所だったし、何より彼女が頼ってくれることが嬉しかったからだ。

 自身の知識欲を満たすような真似は、今は心に思う事さえも野暮だと感じたのだった。


 さて、夜は更けていた。満月の綺麗な晩の事だった。


 こうして凶悪で凶暴で知られる赤竜でありながら謙虚を知った少女と、英知を知る錬金術士でありながら慈愛を知った青年は出会いを果たしたのだった。

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