第4話
『深海のリトルクライ』
好きな人がいた。
と言ってもそれが恋愛感情だったか、それとも友愛だったのかは、今はもうわからない。何故なら、その人はもうこの世にいないからだ。
高校だっただろうか?大学だっただろうか?過去のトラウマも時間と共に風化して、なんとかではあるが人に対しての恐怖心が薄れていた頃のこと。戯れにバンドのボーカルをしたことがあった。何かの打ち上げにカラオケに行った時、どうやら俺の歌をえらく気に入ったらしく散々頼み込まれ、渋々参加した。彼はギターで俺が来るまではボーカルもしていた。弾きながら歌うのは、まだ素人の俺には無理だったんだ。とそんなことを苦笑いしながらぼやいていたっけ。練習の時、一緒にカラオケに行った時、大袈裟だってくらいに褒めてくれた。彼の目はいつもキラキラと輝いて、まるで宝石のよう。純で無垢な目。汚れまみれの世界だけを見ていた俺には、あまりにも美しく見えた。彼と背中を合わせて歌ったステージは、たまらなく興奮した。勢いのまま抱きついた時、あの時もしかしたら過ちを犯していたかもしれない。それくらい俺の心を動かす存在だった。
ある日から彼は学校を休み始めた。それが結構続いたから彼の家を訪れてみた時のこと。扉を開けて出てきた姿は酷く窶れていた。大丈夫だ、心配すんな。今思えば、強がりの常套文句だった。けれど俺はその手を取ることなく彼の家を後にした。それから数日、彼は死んだ。自殺だった。
海の中へ、まるで人魚が海へと帰るように…その身を自ら深淵へと沈めていった、らしい。
俺の心は砕け散った。また救わなかった、見送った。だから俺はもう誰も救えないんだと思った。誰も幸せに出来ないんだと思った。だって、失うから、俺は大切な人を失うから。
だから、もう…誰も大切にしない事にした。
失くすのはもう、嫌だから。
ー
家の鍵は閉まっている。合鍵は渡したからコンビニでも行ってるのか?そんな短絡的な発想に今の俺は至れなかった。
彼は、自らの痕跡を残したままこの場からいなくなっていた。
弾かれたように家を飛び出す。近場のコンビニ等には一応目を通すものの案の定そこにはいない。俺は一つの結論に辿り着き、全力で否定していた。車を走らせ海へ向かう。
「あーー、くそ!」
焦る思いは思考を悪い方へ悪い方へ向かわせる。彼にそんな兆候は見られなかった。死んだ時を繰り返す?クソ喰らえ。背中に火をつけながら、それでも冷静を絞り出して、ハンドルは汗で滑って、アクセルを踏む力が強くなる。大丈夫だ、大丈夫だ…
俺は二回失敗した。ならもう間違わない筈だ、三回目は無い筈だ。けれど、もし、もしまた失敗したならば、その時は…このまま車ごと深淵へと突っ込んでしまおうか。なあ?蓮。
「地獄の果てまで、ついてってやるからな…」
ー
その広大な青さに心を奪われていた。
なんで空は青いのか?なんで海は青いのか?この世には不思議が沢山あった。誰かに聞けば教えてくれるのかな?でもこの見た目でそんな幼稚な事、流石に憚られるというもの。ならば自分で見つけるしかない。
椿さんは、俺が海の番組を見ているとチャンネルを変えてくる。見たい番組があるんだ、と。けれど奪われてしまえば欲しくなるのが世の常か。海への憧れは高まるばかりであった。
「海、見てみたいな」
…
恥ずかしかった
彼は何も知らない少年のような目をする。素直で、危うくて、優しい。それをすぐに隠そうとする。だから知って欲しかった、皆に知って欲しかった。この人は素敵な人なんだ、と。
そんな彼の目は見透かすように俺の穢れを見ていた気がした。ずたずたに引き裂かれた矜恃も、立てなくなるくらいに綻んだ心も、全て全て。そんな錯覚に陥った。
だからせめて、最後までは、何も知らないでいて欲しかった。このまま無様に羞恥を晒すのなら
「俺、お前の歌好きだよ」
この身を溶かして、このまま泡になってしまえ…しまえ…
…
聞いたことのないメロディが頭の中に流れてきた。隣に貴方がいて、そうして成り立つ歌。そんな気がした。
海から声が聞こえてきた様な気がする。
働いてたんだ、所持金はある。すぐに調べられる手段は持っている。ずっとつけてた香水はまだ残っている。散々延命されたけれど、ドールとしての匂いはどうしても消せないもので、公共物に乗るのは控えていたが…。車の免許もないし、夕夜はまだ帰ってきていない。渋々駅を目指した。数駅見送って、目的地で降りて、地図アプリに導かれるまま歩を進めた。潮の香りが鼻腔をくすぐる。やっとついた、海だ。
独りで来た海は、前とは違った。恐ろしかった。あまりの雄大さに呑み込まれそうだ。ザァザァと掻き鳴らす波の音は、まるで怒号のようで、ぴりぴりと肌に痛い。それでも、ああ。負けるものか。ざくざくと砂浜を踏みしめ、そして俺はその雄大さに立ち向かって行った。靴のまま海水に挑み、そのまま腰まで浸かる所まで歩いて、進んで、立ち向かった。-勝利なんて何処にもないのに。
…
ー負けるものか
殴られ、閉じ込められて、手首を縛られ、足枷を付けられて
ー絶対に負けるものか
猫の餌を皿に盛られて、トイレも行けない、漏らした、怒られた、殴られた
ー負けたりなんてしない
辱められて、プライドも心もズタズタにされて、目の前が真っ暗になったり、白くなったり
だけど…!俺は、お前に負けたりなんてしない!
『なぁ、大丈夫か?』
その日は鍵がかかってなかった。
訪ねてきた友の顔。大切な人。ずっと我慢してきたもの、全部ぜんぶ、弾けて、崩れて…。でも見せちゃダメなんだ。『助けて』なんて、言っちゃダメなんだ。だから…
『大丈夫だ、心配すんな。』
胸にコツンと拳を当てた。これ歌いたいんだけど。って貰った楽譜。知ってる、人魚姫の歌だ。
『分かった……ありがとう』
彼の顔が見えなくなって…それから、泣いた。残ってた水分全部無くなるまで、泣いた。なんて醜くなったんだ俺は。なんて無様なんだ俺は!こんな姿を見せたくない、知られたくない。君の記憶の俺は、唯の君の歌が好きな男でいさせてくれ。扉を開け放ち、駆け出した。
海へ
歌、一緒に歌えなくてごめんね。
ゆうや……
「れーーーーーーーん!!!!」
怒号の様な叫び声、砂を蹴る音、それから水を掻き分ける音。肩を掴まれて、振り向いて見た顔、凄い剣幕だ。
「ゆ、夕夜どうしたの?」
「ん、はぁーーーーー!?どうしたもこうしたもありゃあせんわー!?こんちきしょーが!!」
思いっきり頬をぶたれた。それから。思いっきり抱き締められた。ぜえぜえと肩で息をつきながらそれでも、しっかりと俺を抱き締めている。
「お前が死ぬなら、俺も死ぬ」
「俺は死なないよ」
「うるさいわボケ馬鹿ハゲクソ野郎」
夕夜の震える手が、俺の手を握った。そのまま手を引かれて浜辺の方へと歩いていく。傾いた陽を受けた夕夜の後姿。逞しく、大きく見えた。
「助けに来た、ーー」
……嗚呼、ああ、そうか……俺は、間違えてたんだ
ー
「もう海禁止」
「こんなこともうしないって!ね?ね?」
じとー、っとねちっこい流し目で見やった。対するこいつは悪びれもせず、手を合わせて媚びるような甘い声で口先だけの謝罪を入れてくる。
「何しようとしてた?」
「…着衣水泳」
「嘘つけ!」
衣服を岩の上に広げて、お互いにパンツ一枚で並んで水平線を見つめていた。太陽はそろそろ海に沈む。
「…歌が聞こえた気がした。なにか忘れ物したみたいな…よくわかんねぇけど行かなきゃって」
「昔の記憶、とか。前世とか」
「前世?…ん〜」
何らかの引きつける作用があるんだろうか。やはりいくら本人が大丈夫と言おうと、海に行くのは今後避けるべきだ。てかこいつの大丈夫は全然信用ならん。
「でも、もう大丈夫だと思う」
「あ?」
「な、なんだよ…」
教えるべきか。けれどあの店主が隠してきた事を俺が言っていいのか。教えてどうする?今後の奇行の可能性を…。
「俺の『前世』もきっと、夕夜が好きだった。から、もう幸せなんだ、俺達」
お前は俺が思ってるよりも断然大丈夫なのか。まあ信用ならんけど。
「言いたいことあるんだけど。どっちに言えばいい?」
「両方とも俺だから、どっちとかねぇよ。何?どした?」
「好きだ」
「…へ?」
「好きです」
失くすとか怖いとか、救えないとか間違うとか。そんな事もうどうでもいい。お前が海の中へゆっくりと沈んでいくのを見て、俺はただ後悔だけをしていた。なんで言わなかった、なんで手を取らなかった、なんで傍にいなかった。ただひたすらに後悔だ。だからもうどうでもいいんだ。臆病風に吹かれ、間違う事を恐れ、消化するだけの人生を送る。それでも良かった。けどそこにはお前は居られない居てくれないから。失くなったり、救えなかったり、汚れたり憎くなったり、腹もたって、傷ついたり。必ずお前はそれを連れてくる。だからこそ、もうそれでいいんだ。
「だ、だめ、ダメダメ…そんなの…俺はドールで…道具で」
「俺が好きって言ってんだよ」
「あ…はい。えっと…えぇ、ホントに?」
「信じろバカ」
真っ赤になっていく頬を包んで、前髪にキスをしてそれから抱きしめた。俺の腕の鳥籠に収めて、溢れるくらいに愛を注いで、そのさえずりと共に歌を歌おう。一緒に空を翔たこう。
「歌って、どんな歌?」
「えっとね…人魚姫の歌。知ってる?」
「……。知ってるも何も。今度聞かせて。…あぁ、歌うのは俺か」
「…そうだよ。ごめんね、まだギターは弾けねぇんだ」
「夕夜!」
「っお、お!?待って待て待て!」
蓮に手を引かれて、二人一緒に海へ落ちた。無音。何もかもなくなる。恐る恐る目を開けると、揺れる水面の煌めきを受けた君が俺へ向かって腕を広げている。なんとかばたばたと泳いでそこへ飛び込んだ。それから唇を重ねる。酸素が与えられて、俺が与えて、ゆったりとゆらゆらと水面を眺めてキスをした。昇っていく泡沫をぼんやりと見つめていると、夢幻の様な世界へ片足を突っ込んでいく錯覚を起こしていく。何もかも曖昧になって来て、ぼんやりとしてくる。けれど、重ねる唇だけは本物で愛しくて頬を挟んでもう一度、もう一度。射し込む陽を背に抱えて、透けるように溶けるような髪の毛、まるで人魚姫のようだ、綺麗、キレイだ。腰に手が回ってきて、そのまま抱えられ上昇した。太陽を目指す様な、そんな感じで。
「夕夜大丈夫?ぼーっとしてるけど」
「う、ん…うん」
なんだか人魚になった心地だった。とは口が裂けても言えまいて。重力の支配下に戻り、濡れた髪を肌にくっつけて、雫を滴らせている。水中ではあんなに神秘的だったのに急に艶めかしく見えてきて鼓動がドキドキと走り始めた。
「あのさ」
「…おう」
「『俺』が溺死を選んだのは、人魚姫の様に泡になれると思ったからなのかなって」
「お前」
「全部見えた…だからこそ。俺は今、幸せだよ。夕夜」
……
……
「あれ、数字変わんない?」
「もう最大値。一定期間で制限があんだよ」
「そりゃそうか」
気持ちよかったんだなっと手首に唇を添わせて呟いた。みるみるうちに真っ赤になっていく。可愛い。
「毎日やったら永遠の命、か」
「永遠じゃない。夕夜が死んじゃえば俺も死ぬよ」
指を絡めて遊ばせる。逆上せ上がる程愛し合い、その熱を冷ますために夜風に当たってチューハイに舌鼓を打っている。月はまん丸で闇夜にぽっかりと黄色い穴を開けている。
「なんでーさ」
「…俺、夕夜以外と関係持つつもりないし。は?なんでそこで笑うんだよ!」
ゲラゲラと汚く笑った。あんまりにも嬉しくて、それでいて悲しくて。生き続けて欲しいと、そう思うよりも強く『俺のモノ』として共に死んでほしいと願う自分に対して。
「俺に捨てられる、なんて考えないの?」
「そんな事…。そうだね。夕夜が信じてって言ったから、その時まで」
「あーーー嘘嘘嘘嘘、はいはい、白状します!…俺と一緒に死んでくれ」
自分で言ってても恥ずかしい。こんなの、プロポーズじゃないか。月夜に照らされて、その目は水面のようにきらきらと煌めいた。
「はい」
静かに雫が落ちる。泡沫になんてならないで、なるのならその時は、今度は俺も連れてって。
「それってつまりは、俺がじじいになって枯れてもお前は瑞々しい美しいまんまってこと?」
「う、美しい!?」
「かぁーーー、マジか!堪んねぇなぁ!ドール最高!!」
「さいっっっってぇ!!」
「月が綺麗だぜぇえええええ!!!」
「おい、ちょデカい声だして、ほんと……あっはは」
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