第20話 5000兆円を使いきってみた

 人類が貨幣経済というものを発明して以来、その日のカロカロ共和国民ほどの意味不明すぎる経験をした国民はおそらくいないだろう。

 カロカロ共和国民の平均年収は50万円くらい。そこにある日突然政府から、一人50億円ずつ、大量の札束が何の連絡もなく各家庭にいきなり配達されたのである。


 カロカロ共和国民の誰もが、この突然のボーナスに喜ぶどころか困惑した。ある者は役所に問い合わせの電話をかけ、ある者は隣近所同士で相談しあったが、誰に聞いてもよく事情は分からない。

 ほとんどの者が、いきなり配送されてきた紙幣の束を怪しんで手を付けようとはしなかったし、商店の方も即座に、ホケレイロでの支払いを拒否するようになった。代わりに、人々はそれまでも通貨として流通していた米ドルを再び使い始めた。ただそれだけのことだった。

 せっかく米ドル、ユーロとホケレイロとの取引を開始したばかりのニューヨークとロンドンの外国為替市場も、即座にホケレイロの外貨両替を停止させた。そしてIMFの専務理事が遺憾の意を発表した。ただそれだけのことだった。


 そのうち、財務省が独断で国民全員に金を配ったらしいという話が徐々に知れわたってきた。国民の誰もがこの謎過ぎる財務省の暴挙を不思議がったが、その理由は結局よく分からない。

 奥田先生と仲間達だけが、全ての事情を知っている。彼らはいま十日ぶりに、和夫と美知子の邸宅の地下金庫の中に集まり、この十年間彼らが進めてきた取り組みの、最後の集大成の場に立ち合おうとしていたのだった。


「この場にセバスティアンが立ち合えなかったのは本当に残念だが、仕方ない」

 奥田先生はそう言って「始めてくれ金井さん」と和夫に頼んだ。


「こんな大事な時に、セバスティアンも何考えてるのかしらね」と美知子が不服そうに愚痴る。

 奥田先生は「それは私の責任です。どうしても彼にしか頼めない、重要な極秘任務があったので、彼には私からお願いして、アメリカに行ってもらったんです」と謝罪して、機嫌の悪そうな美知子をなだめた。


 今日は、彼らがちゃんと5000兆円を全部使いきったかどうかの判定が下るという、運命の日なのだ。


 彼らが黒いATMの中のお金を全部カロカロ中央銀行に振り込んで、ATMの残高をゼロにしたのがちょうど十日前の午後一時のことだ。

 このATMの中のお金は、引き出せば一旦その分だけ残高は減るが、引き出したまま使わずに放置しておいたり、何らかのルール違反をしたりして、実質的には使用されていないと判断されると、十日後に残高は元に戻ってしまう。だから、全額を引き出して残高をゼロにしたとしても、そこから十日間は油断ができないのだ。


 十日前、彼らはATMから3684兆円を引き出して、カロカロ共和国の中央銀行に振り込んだ。カロカロ中央銀行はその振り込まれた額を全部紙幣に印刷して国民にばらまき、結果、その紙幣は一瞬で紙切れ同然になり、価値は消滅した。


 これを、形としては3684兆円を社会に流して使ったと言うことはできるだろう。

 だが、こんな意味のない形式だけの空虚な茶番劇が、ルール違反であると黒いATMに判定されてしまう可能性はゼロではなかった。奥田先生は絶対に大丈夫だと信じて疑わなかったが、こればかりは黒いATMの反応を見てみないことには何とも言いようがない。


 引き落としから十日経った、今日の午後一時を過ぎても残高がゼロ円のままだったら、神様はこの茶番劇がルール違反ではないと判定してくれたことになる。こうなれば彼らは見事に十年以内に5000兆円を使い切ったことになるわけで、和夫と美知子は元の借金生活に戻らなくてすむ。

 だが、もし3684兆円が残高表示に戻ってきてしまったら、彼らが約五年かけて取り組んできたこの茶番は何らかのルール違反であり、全て無駄な努力だったということになる。そうなってしまったら、期限まで残り四カ月もない今から打てる手など、何一つ残っていない。


「さあ、どっちだ……」

「頼む……ゼロ円のままでいてくれ……」

「俺たちは立派に5000兆円を使ったはずだ。それは間違いないはずだ……」


 果たしてどちらの判定が下るのか、一言も発せずに固唾を飲んで見守る一同。

 静寂の中、和夫の腕時計の針が、カチ、カチ、カチと進んで、午後一時を回った。

 黒いATMの液晶画面の右上に小さく表示された時計の表示も、12:59から1:00に変わる。


 ATMの残高は――0円のままだ!


「やったあああぁ!!」

「うおおおお!」


 その瞬間、その場にいた全員が抱き合って大喜びした。和夫も美知子も一緒になって、誰彼構わず肩を組んではしゃぎ回った。彼らはついに、神様から指定された十年以内という期限内に、見事5000兆円を全部使いきったのである。


 その大部分はホケレイロ紙幣としてカロカロ共和国中にばら撒かれ、紙切れ同然の価値になって一瞬にして消滅した。それでもまだ彼らの手元には、金生教の支部の資金として、様々な通貨の形でひっそりと世界各国に塩漬けにしてある1300兆円がある。

 後はこれを、世界経済に影響を与えない程度にゆっくりと引き出して使っていけばいい。1300兆円といえば、日本の国家予算の十二年分以上だ。こんな巨額、どんなに贅沢をしようが、たった十一人の仲間では到底使いきれるものではない。


 「先生!やりましたね!」と片岡さんが声を掛けると、めったに感情を顔に出さない奥田先生も、どこか安堵の表情を浮かべながらニッコリと笑った。


「愛すべきカロカロ共和国の国民にも、これでずいぶん迷惑をかけてしまったね。明日からは国民に対して、紙切れになってしまったホケレイロの補償をしてやらなきゃな。市内は大混乱で、政府に対する抗議の声が高まっているようだ」

「それはそうでしょう!でも、適切な対応を取れば、こんな混乱はすぐに収まりますよ。今日くらいはみんなで祝杯を上げましょう!」

「そうだな。まあ、明日になれば全て片がつくことだ」


 ――翌朝。

 目が覚めた和夫は、自分が酔いつぶれて、服も着替えずにソファーで寝てしまっていたことに気が付いた。二日酔いで頭がガンガンと痛む。


 5000兆円を見事に全額使いきったことを確認した後、一同は和夫の屋敷の大きなリビングルームでホームパーティーを行ったのだった。リゾートホテルのシェフを呼びつけ、最高級の料理を急ぎで用意させ、ホテルに備蓄してあったビンテージのワインを何本も持ってこさせて全部空けた。みんなが浴びるように酒を飲み、夜遅くまで大騒ぎをした。


 今までの和夫には、もし十年以内に5000兆円を使い切れなかったら元の借金生活に後戻りするという、精神的な足枷があった。そのせいで、たとえ5000兆円の財産を持っていても「これは今だけの幻なんだ」といつも心が晴れなかった。

 でも、昨日でその足枷は消えた。もうこれで自分は晴れて正真正銘の大金持ちだ。


 それなのに、驚くほど和夫にその実感はない。喜びが無いわけではないが、それよりもずっと大きな、空しさとバカバカしさの方が頭の中を重苦しく満たしている。


 和夫はこの十年間、「お金って一体何なんだろう?」という問いを常に突き付けられてきた。時間だけは腐るほどある虚しい暮らしの中で、その問いがいつも頭の片隅にあって、その事ばかりをぼんやりと考え続けてきた。


 一人50億円ずつの現金を配られたカロカロ共和国の人たちは、それで幸せになるどころか大混乱に陥っている。

 自分だって、5000兆円をもらって幸せになったかと言われると正直微妙だ。

 生きがいだったギャンブルもすっかりつまらなくなったし、無職の自分が高価なものを買おうとするたびに怪しい目で見られて、自分の社会的信用のなさを否応なく痛感させられた。

 ついにはFBIに追われる身となって、五年間の潜伏生活を強いられる羽目になった。命を狙われるかもしれないといってセバスティアンから渡された拳銃は、今でも部屋の机の引き出しにしまってある。

 今でこそようやく、カロカロ共和国の名誉財務大臣などという職をもらって、この南の国で贅沢な暮らしをさせてもらえるようになったが、パスポート無しで密出国をしてきてしまったので、おそらく日本にそう何度も気軽に戻ることはできない。


 もちろん、カロカロ共和国は地上の楽園のような素晴らしい南の島で、ここに骨を埋めることには何一つ不満は無い。彼は、それは重々覚悟した上で密出国することを決めたのだ。

 それでも、日本語を話す人がほとんどいないこの異国の地で、住み慣れた日本のことを思うと時々ホームシックになる。


 お金が人を幸せにするということは間違いない。今の暮らしと十年前の借金生活のどちらが良いかと尋ねられたら、今の生活の方が断然いいに決まっている。

 でも、じゃぁお金は多ければ多いほど幸せになりますか?と尋ねられたら、その点について和夫は首をひねって悩んでしまうのだった。


 十年間悩み抜いた末に、和夫は最近ようやく自分の考えに整理がついてきた。

 俺は、こんな金は要らなかったんだ――


 俺はただ、借金がなく将来の不安がなく、時々ちょっとしたプチ贅沢ができて、身の危険を感じるほどの注目も浴びることのない、ほどほどの金の蓄えがあればそれで十分だったんだ。

 突然降ってきた身の丈に合わない5000兆円のせいで、三十代から四十代にかけての働き盛りの十年間を、俺は人目につかないようひっそりと山奥に隠れ住み、何もせず無駄に食いつぶした。それは金には変えられない損失だ。

 この十年、ほとんど人とも会わずどこにも行かず、楽しい思い出の一つもない。それで今さら普通の社会生活を送れと言われても、もはや俺にその自信はないし、こんな怠け者を喜んで受け入れてくれる人もいないだろう。


 なんだったんだ。俺の人生は。


 二日酔いでまとまらない頭でそんなことを考えながら、和夫は部屋で一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。すると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

 ドアを開けると、そこには美知子と奥田先生が立っていた。


「先生、どうしたんですか?一人でうちに来られるなんて珍しい」

 奥田先生は穏やかな微笑を浮かべながら静かに言った。

「実はお二人に、少しお話ししたいことがありまして」


「なんですか先生?それじゃ一階の応接間に行きましょうか。こんな散らかった部屋じゃ何ですし」

「いや、地下の金庫に行きましょう。ちょっと、あまり他人には聞かれたくはない話なので……」

「へぇー。ずいぶん大げさですね。珍しいなぁ、何もしてない私なんかに大事な話なんて。スミマセン俺、昨日は飲み過ぎちゃって頭ボーっとしてますが、そんな大事な話だったらちゃんと頑張って聞きますよ。ところで先生は二日酔い大丈夫ですか?」

「ハハハ。私は大丈夫です。頭はスッキリしています」


 和夫は机から金庫の鍵を取り出して、美知子と奥田先生と一緒に地下金庫に降りていった。金庫とはいえ十分過ぎるほどの広さがあって、外に音が漏れず秘密を守るのに便利なので、メンバー同士の打ち合わせの場としてもよく使われている。

 金庫内に置かれた何脚かの椅子を引っ張ってきて、和夫は先生に座るよう勧めた。それで自分は美知子と一緒に並んで、先生と向かい合って座った。


「それで、先生、私たちに話ってのは何なんです?」

「ええ、実はですね。お二人には……」


 奥田先生は探し物でもするように、自分のジャケットの内ポケットに手をつっこんでゴソゴソとまさぐっていた。何か大事な書類でも渡されるのだろうかと和夫は思った。しばらくして先生はポケットの中の目当ての物をさぐり当てると、懐から手を引き抜いた。


 その手に握られていたのは、拳銃だった。

 和夫がアッと声を上げるよりも早く、間髪入れずに引かれる引き金。銃口に閃光が瞬き、和夫の右脇腹にドスンという衝撃と鋭い激痛が走る。


「が……!! せ……先生……!?」

「ちょッ!な、何するんですか先生!? うそ!嘘でしょ……!?」


 脇腹に銃弾を受けて力なく椅子から崩れ落ちた和夫を見て、美知子が悲鳴を上げた。顔面蒼白になって和夫の肩にすがりつき、おびえた目で奥田先生の方を見た。

 先生は美知子の体に拳銃を向けたまま、能面のような無表情でボソリと言った。


「嘘じゃありませんよ奥さん。あなたにも死んで頂きます」

美知子に向けられた銃口から二発目の弾丸が放たれ、美知子は倒れた。

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