第19話 5000兆円をばらまいてみた

 コンサート用の音響機材を運ぶためのキャスター付きの巨大ボックスの中に入れられて、金井和夫・美知子夫妻は秘密裏に空港の中に運び込まれた。ボックスは蓋を開けて中を検査されることもなく、ただの貨物として空港職員の目をかいくぐり、無事に奥田先生のプライベートジェットの前まで運ばれてきた。


 和夫と美知子はパスポートを持っておらず、出国審査も受けていない。貨物積み込みの直前に手早く巨大ボックスから外に出され、プライベートジェットに乗り込んだ二人はまんまと日本から密出国することに成功した。


 カロカロ共和国に到着した際には、名誉財務大臣夫妻のご到着ということで飛行機のタラップの先には赤じゅうたんが敷かれていた。待っていた現地の人達から拍手で迎えられ花束を渡されると、すぐそばに待機していた黒塗りのリムジンの車内に案内される。そのまま車は空港を出て、その間にパスポートのチェックも一切なく、二人は驚くほどあっさりと入国できてしまった。


「うわぁ……!ここが私たちの家?」

 美知子が思わず感嘆の声を上げた。壁も屋根も真っ白な巨大な邸宅と、几帳面に刈り込まれた緑の木々に囲まれた広々とした洋風庭園。和夫はテレビのニュースで見た、アメリカ大統領の住むホワイトハウスを思い出した。


「名誉財務大臣様ですから、これくらいの屋敷に住むのは当然です。お手伝いさんを3人と、屋敷の手入れをする庭師を2名つけておりますので、お二人は何もする必要はありません。家で働く者にはごく簡単な日本語を教えてはいますが、もしお困りのことがありましたら、私の携帯までご連絡をください」

「ちなみに、セバスティアンはどこに住んでるの?」

「彼はカロカロ共和国に家を作っていません。全部終わったら故郷のスイスに戻って暮らすんじゃないですかね?」

「そうなの……」


 案内してくれたフェルナンドのそっけない回答に、美知子が寂しそうな顔をした。この九年弱、ずっと一緒に家族のように過ごしてきたセバスティアンも当然カロカロ共和国に来てくれるものだと思っていたので、スイスに帰るというのは少し意外でもあり悲しくもあった。


 奥田先生の計画は、最後の詰めの段階を順調に進んている。

 カロカロ共和国の新通貨ホケレイロは、共和国政府の猛プッシュであっという間に国内に普及しはじめていた。ホケレイロとの両替に応じる他国の通貨も着々と増えている。

 奥田先生が牛耳る「日嘉友好議員連盟」の尽力で、日本では他国と比べてもかなり早い段階で、円とホケレイロの両替が可能になった。日本がいち早く積極的にこの新通貨を受け入れたことが、ホケレイロの国際的信用を高めるのにどれだけ貢献したことだろうか。

 現在、日本円とホケレイロの為替レートは1円が12ホケレイロ前後で落ち着いている。


 そして、カロカロ共和国の独立宣言から実に一年と二カ月後のことだった。

 ついに、ニューヨークとロンドンの外国為替市場において、米ドル・ユーロとホケレイロの為替レートが公式に開設されたのである。


 これで名実ともに、ホケレイロは国際的に認められた通貨となったと言えるだろう。神様が指定した十年間という期限まで、残りわずか四カ月というギリギリのタイミングでの開設だった。


 その記念すべき日、奥田先生と仲間たちは、和夫と美知子の住む邸宅の地下に設置された巨大金庫の中に集まった。地下金庫は、以前二人が暮らしていた家のリビングくらいの広さはゆうにある。

 金庫の一番奥に置かれているのは、神様から与えられた黒いATM。その前に全員が群がって、緊張した面持ちで液晶の操作画面をのぞき込んでいる。


 液晶画面に表示されたATMの残高は、3684兆円になっていた。

 五年かけて世界中に設立した金生教の支部に約1300兆円を移して塩漬けにしてあるが、この金生教計画はそこでストップしてしまった。それ以降はATMの残高はほとんど減っていない。

 逆に、カルト教団への監視が厳しくなったアメリカなど、政府に怪しまれることを防ぐため、やむを得ず支部を解体して資金を戻さざるを得なくなった国もあった。そんな国にコンテナで密輸して保管していた札束の山は、全部現地で焼却処分している。


 黒いATMから下ろしたお金は、誰にも存在を知らせずにこっそり保管しているだけだと十日後に残高が元に戻ってしまう。そうならないようにするためには、何らかの形で公式の帳簿上に記録を残し、社会の目に触れさせないといけない。

 そこで奥田先生は、金生教という名前だけの宗教団体を様々な国で立ち上げ、金生教の保有資産は何億円ありますと各国政府に届け出をしてきた。

 そうやって届け出をした金額については、社会の目に触れたと見なされるので、引き出して十日経っても残高は元に戻らない。


 ただ、この黒いATMにはそれ以外にもルールがあって、たとえ帳簿上は社会の目にふれさせたとしても、紙幣を未使用のまま焼却したり破いたりすると、その紙幣は使用されなかったものとみなされて、自動的にATMの残高として復活してしまう。

 金生教の保有資産は、政府に形だけ金額を届け出をして社会の目に触れさせた後は、世界のマネーサプライに影響を与えないように秘密の倉庫に保管して塩漬けにしてある。当然のことながら、全部が未使用である。

 だから、わざわざ危険を冒して日本に送り返して黒いATMに預け入れ直さなくとも、その場で焼いてしまえば勝手に残高として元に戻ってくるのだ。


 奥田先生以下、全員が固唾を飲んで見守る中、和夫は緊張しながら黒いATMを操作した。

 まずは液晶画面に表示された「振込」のボタンを押して、カロカロ中央銀行の口座番号を入力する。振込金額の入力画面では、ATMの中に残っている残高の3684兆円と全くの同額を画面上にインプットした。

 そして決定ボタンを押すと、「どの通貨で振り込みますか?」という質問文と共に、振り込みが可能な通貨の一覧表が表示された。


 上から順番に、一覧表をスクロールさせていく。

 表の中に、昨日までは存在しなかった一行が追加されていた。

 「国名:カロカロ 通貨:ホケレイロ」と。


 その文字を見るなり、わっ!と一同は一斉に歓声を上げた。

 大きくガッツポーズをする者、抱き合って喜ぶ者。皆がこの瞬間のために、今まで何年も苦労してきたのだ。独立国家を新しく作るなどという、まるで夢物語のような離れ業をやったのも、つまるところ全てはこのたった一行をATMに表示させるためだと言ってもいい。

 この一行が表示されたということは、ホケレイロは奥田先生が自分勝手にでっち上げた実体のない「自称通貨」ではなく、正真正銘のきちんとした通貨であると、黒いATMに認められたという事を意味しているのだ。


 和夫は震える手で「振り込みますか?」という質問に対して「はい」のボタンを押した。「処理しています」の文字が十秒間ほど表示されたあとで、「振り込みが完了しました」という文字が出てくる。

 この時、ATMのトップ画面にいつも表示されている黒い横長の欄が「残高:0円」になったのを見て和夫は息を呑んだ。初めて自宅にATMがやって来た時に「5,000,000,000,000,000円」と表示されていた残高が、ついに「0円」となったのである。


 それと同時に、先日カロカロ中央銀行の総裁に就任したばかりのエンゾがノートパソコンを叩き、わずかに上気した声で言った。

「入金が確認されました。先ほどATMから振り込んだ3684兆円が、確かにカロカロ中央銀行の口座にオンライン入金されています!」


 すると奥田先生はエンゾに対して、いきなりとんでもない指示を出した。

「よし。今すぐその3684兆円を残らずホケレイロ紙幣に印刷して、国民全員に一人50億円相当分ずつ配布するんだ」

「えっ!?」


 一同が絶句して、何を言ってるんだ?という表情で奥田先生の方を振り向いた。奥田先生はごく当然のことのように平然と言い放った。

「こんな貧乏国の国庫に3684兆円もの現金があったら、いくら何でも怪しすぎるだろう。IMFの国際金融統計にデータを出す前に、とっととホケレイロの形で国中にばらまいて、ホケレイロの価値を紙くず同然に暴落させないといけない」

「そ……それはそうですけど……。一人50億円って、いくら何でも多すぎでは?」

「カロカロ共和国の人口は7500人弱だ。3684兆円を7500人で割れば、一人あたり50億円になる。だから50億円を配る。ただそれだけのシンプルな話だよ。

 今の為替は1円が12ホケレイロくらいだから、要するに国民一人に600億ホケレイロずつ配ることになるな」


 エンゾが恐る恐る奥田先生に尋ねた。

「ちょ……ちょっと待って下さい先生。私はてっきり全国民の銀行口座にお金を振り込むものだとばっかり……まさか、紙幣で配るんですか?」

 奥田先生は、何をそんな当たり前のことを聞くんだ?とでも言わんばかりに「そうだけど?」とケロッとした顔で答える。

「そんな……無茶ですよ、国民一人ひとりに50億円ずつ紙幣で配るなんて……」


 奥田先生は、心配そうにそう言うエンゾを、顔色ひとつ変えずに笑い飛ばした。

「できるできる。そのために私はわざわざ、こんな貧乏な国で誰がこんな高額紙幣を使うんだと笑われながら、無理やり1000万ホケレイロ札を作らせたんだ。

 要するに、1000万ホケレイロ札を一人あたり6000枚配ればいいだけの話じゃないか。今まで私たちがやってきた、不可能としか思えない作戦の数々を思えば、そんなのずっと簡単な話だろ。私は秘かに手を回して、必要な印刷機も全部用意しておいた」

「でも、何で銀行振り込みでなく、わざわざ紙幣を配るんですか? 札束を目の前に積み上げるなんて、いくら何でもそんな見え透いた子供だましみたいな……」


 すると、奥田先生はあっけらかんと答えた。

「見え透いた子供だましだからこそいいんだよエンゾ。その方が国民の受ける傷がずっと浅くなると私は思っているんだ。

 銀行に振り込まれた金には、どこか現実味がない。もし仮に、この一人50億円のボーナスを銀行に振り込んでしまったら、その金を喜んで使おうとしてしまう国民はきっと相当数いるはずだ。

 でも、同じ50億円を受け取るにしても、ある日突然自宅に札束が大量に配達されてきたら、お前どう思う?

 あまりにも怪しすぎて、そんなものまず使う気になれないだろう。店側だって、その日のうちに一斉に受け取りを拒否するだろうよ。一瞬で誰もがそのバカバカしさを一目で理解できるから、ホケレイロでの売り買いをしなくなる。

 だから、結果としてこの方法が一番混乱を避けることができて、傷が浅いんだ」


 ポカンとしている一同に向かい、構わず奥田先生はさらに熱弁する。

「この国にはまだ、ホケレイロだけでなく米ドルもたくさん流通している。ホケレイロが紙くずになったところで、人々は財布の中身を米ドルに換えるだけのことだ。貨幣経済が崩壊する事もない」


「で……でも、ホケレイロで財産を持っていた国民は怒るはずです。ある日突然、自分の財産が紙くずになるんですから」

「それは最初から覚悟の上だろ? 私たちは、一国の通貨をわざと紙くずにするなんていう、究極に無意味でバカなことを敢えてやろうとしているんだ。それを忘れちゃいけない。

 そんな愚行をやるんだから、一時的に損をしてしまう奴らがある程度出てしまうのは仕方ないんだよ。そういう奴らには後日、しっかりした救済措置をすればいい。

 後で国民に『独立に浮かれてついついバカな政策を出してしまいました』ってきちんと謝罪して、損が出た分は政府がきちんと補償するんだ。

 例えば、大金をばらまく前日の銀行口座の残高にあったホケレイロの額を、政府が責任を持って同額の米ドルと交換すると約束する。そうすれば、怒っていた奴らもすぐに納得するだろう」


 先生の説明を聞いたエンゾは、ハァーと大きくため息を吐き出して、感慨深げにつぶやいた。

「茶番ですね、本当に……」

「ああ。茶番だな。でも、そもそも私たちはこの壮大な茶番をやるためだけに、わざわざカロカロ共和国を作ったんだ。それを今さら茶番だと言われても、『だから何?』という感想しか無いな。茶番劇は茶番劇らしく、徹底的にバカバカしくやって、やった後は素直に謝ってスパッと終わりにするのが、一番誰も傷つかないと思わないか?」


 奥田先生のその説明に、エンゾはようやく納得した様子で何度もうなずいた。

「分かりました。確かに先生のおっしゃるやり方が一番よさそうです。それでは大至急、3684兆円分のホケレイロ札を印刷させます」

「印刷して国民に配るまで秘密は厳守でな。途中でバレると横槍が入って厄介だ」


 かくして、3684兆円相当、つまり4京4200兆ホケレイロの紙幣を印刷するという、途方もなく無意味な作業が極秘裏に開始された。


 このことを見据えて奥田先生がわざわざ作らせておいた1000万ホケレイロ札は、日本円にして1枚83万円にも相当する超高額紙幣だ。

 しかし、そんな法外に高額な1000万ホケレイロ札を使ったとしても、印刷が必要な紙幣の枚数は実に44億2000万枚にものぼる。

 奥田先生が極秘に輸入していた大量の輪転機がフル稼働してひたすら紙幣を刷り続けたが、それでも全てのホケレイロ札を用意するのにかなりの日数を要した。


 エンゾの尽力で何とか全ての紙幣の印刷が完了すると、奥田先生はカロカロ共和国財務大臣の名前で「国民の皆様への恩賜お祝い金について」という布告を出した。

 その布告は、栄えあるカロカロ共和国の独立の喜びを国民全員で分かち合いたいという理由と共に、国民一人あたり600億ホケレイロを国庫から配布すると宣言するものだった。


 布告が出るや否や、反対や批判の声が出る前に先手を打って配り終えてしまおうとばかりに、カロカロ中央銀行の倉庫から国内の各地区に向かう現金輸送トラックがほぼ同時に走り出し、あっという間に大量の札束が全国民に配布された。

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