第21話 5000兆円で戦ってみた

 脇腹が焼けるように痛い。拳銃で撃たれた所を押さえた手が赤黒く血に染まり、ニチャニチャした粘っこい液体の感触がする。


 わずかに体を動かすのも声を絞り出すのも激痛でままならなかったが、それでも和夫は頭を上げて、奥田先生をキッと睨みつけた。

 先生は銃口を和夫の方に向けたまま、まるで陸に打ち上げられた魚が苦しんでビチビチと暴れているのを眺めるような目で、静かにこちらを見ている。


「な……なんで先生……こんなことを?」

「あなた方に死んで頂いて、それで私の計画は完成するからです」

「俺、べつに何もあなたに……悪いことしてないのに、なぜ……」

「確かに、今は悪いことはしていませんね。でも今後もしないと言い切れますか?」

「なに……それ?」


 訳が分からなかった。今まで俺は一つも悪いことしていないのに、今後するかもしれないから殺される?なんだそのバカげた理由は。


「何しろ、あなた方夫婦はバカですから。調子に乗って、この秘密の5000兆円のことを今後うっかり誰かに話してしまうかもしれない。

 5000兆円の話が外に漏れたら、我々は不正な方法で法外な資産を得たと見なされて、一瞬で全ての地位と財産を失うのは火を見るよりも明らかです。それでも、バカは事の重大性を理解せず、平気でそういうことをやるんですよ。

 たとえ私がどんなに厳しく口止めをしようが、バカな人間はバカですから、どうせそんなことはすぐに忘れて、ペラペラと要らぬ事をしゃべってしまう」

「ふざけんなよ先生……こんなヤバい話、誰にも言うわけないだろう。俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ……」


 奥田先生は軽蔑しきった目で和夫を見下ろしながら答えた。

「まぁ、今はまだそうかもしれませんね。でも、バカというのは五年経ち十年経つとすぐに気がゆるむんです。それで『悪気はなかった』などと言って、簡単に秘密をペラペラと誰かに喋ってしまう。そうなってしまった後ではもう遅いですから、バカは早めに口を封じておくに越したことはない」

「先生……俺たちのこと今まで、そんな目で見てたのか?」


 和夫がそう聞くと、奥田先生は口元を歪ませて、気味悪い笑顔を頬にはりつけながら平然と「はい」と答えた。


「最初に会った時から、私はあなた方のバカさ加減が不愉快でなりませんでしたよ。とはいえ、今までは黒いATMを使えるのがあなた方だけしかいなかったので、不愉快でしたけれどもずっと我慢してお付き合いしてきました。

 でも今は、5000兆円を十年以内に全額使いきるという神様とのゲームも、我々の完全勝利で終わりました。もう黒いATMも、あなた方お二人も用済みです。

 ちょうど今カロカロ共和国は、無能な財務省がホケレイロをばら撒いたせいで経済が大混乱になっていて、国民は皆カンカンです。

 ですので、今回の浅はかな政策は全部、バカな名誉財務大臣が思いつきで気まぐれにやらかしたことで、大臣は責任を感じて妻と共にピストル自殺したってことにしようと思っているんです。

 そうすれば国民の怒りもすぐに収まるでしょうし、5000兆円の秘密も守れて、まさに一石二鳥」

「な……なんだと……この野郎……」


 和夫は最初に会った時から、奥田先生のことが嫌いだった。

 それでも、頼れる人がこの人しかいなかったので仕方なく今まで付き合ってきたが、最後の最後でこんな風に裏切られるとは。

 やっぱり、こいつ嫌いだなと思った俺の直感は間違ってなかった――


「拳銃というのも、なかなか狙ったところにちゃんと当たってくれないもんですね。こんなに近くから撃ってるのに」

 奥田先生はそう言うと、今度は両手でしっかりと拳銃のグリップを握りしめた。発射の反動で銃口がぶれず、ちゃんと狙った所に当たるように、両腕をまっすぐに伸ばして肩に力を入れる。照準は――美知子だ。


「やめろ……美知子じゃなくて俺を撃て……やめろ……!」

 和夫は美知子の盾になろうとして、奥田先生が構える拳銃の前に立ちはだかろうと体を起こし、そこで激痛に耐えきれずガクリと崩れ落ちた。

「そんな頑張らなくても大丈夫ですよ。どうせ奥さんの後にはあなたも撃ちますから。ご心配なさらなくとも、ちゃんと奥さんと一緒に死ねます」

「よせ……ッ!よせぇ……」


 体が動いてくれない。何とかして美知子をかばいたいのに、体に少しでも力を入れるたびに、脇腹に激痛が走って力が抜けてしまう。

 畜生!なんとかしなきゃ……なんとか……!!


 その時だった。和夫の手が偶然、ズボンのポケットに触れた。ポケットの中には財布が入っていて、わずかにふくらんでいる。それに気付いた和夫の脳裏に、ある記憶が電光のように甦った。


 ――未使用で焼いたり破いたりした紙幣は、黒いATMの残高に戻る。


 まだ奥田先生に会う前、美知子の発案で、札束を焼いてバーベキューをやったことがある。すると、焼いた札束の分の金額は黒いATMの残高に戻ってしまった。

 だったら、この財布の中にあるまだ使っていない100ホケレイロ札……これをビリビリに破ったら、黒いATMの残高は100ホケレイロ分だけ元に戻るのではないだろうか?


 昨日、俺たちは確かに一度、5000兆円を使いきっている。でも、ここで新札を破れば、一旦たどり着いたゴールから再び100ホケレイロ分だけ戻ってしまう。

 その100ホケレイロをもう一度ATMから払い出してゴールし直そうにも、黒いATMを操作できるのは和夫と美知子しかいないのだ。つまり、奥田先生は俺たちを殺すことができなくなる。


 これだ!これしかない!


 和夫は激痛に耐えてなんとかポケットから財布を取り出し、中から100ホケレイロ札を一枚抜き出した。奥田先生は美知子の胴体に拳銃の狙いをつけることに集中していたが、そんな先生に向かって、和夫は100ホケレイロ札を突きつけて言った。


「先生……。見ろよこのお札。まだ使ってない新品のお札は、焼いたり破ったりして壊したら、その分だけATMに残高が戻る。確かそれがルール、だったよな……?」


 奥田先生は、ほんの少しの間、和夫から目を離しただけだった。

 脇腹を撃たれて、痛みで立ち上がることもできない和夫には、どうせもう何もできない。だから放っておいても何も問題ないと、奥田先生はたかをくくっていた。

 ところが、そんな和夫がいきなり態度を一変させ、あまりにも自信たっぷりな口調で強気に話し始めたので、先生は異変を感じて思わず和夫の方を振り向いた。


 奥田先生の怪訝そうな顔を見て、ニヤリと笑う和夫。100ホケレイロ札を持つ両手を上下にひねると、札の端が少しだけピリッと裂けた。

 すぐにその行為の意味に気付いた先生は、思わず「ま……待て!」と叫ぶと、銃口を慌てて美知子から和夫の方に向け直した。


「いーや。待たねえ。くたばれクソ野郎」


 和夫が100ホケレイロ札をビリビリに引き裂く方が、奥田先生が引き金を引くよりも一瞬だけ早かった。


 国中に大量にばら撒かれて暴落した100ホケレイロ札の価値など、今や紙幣に使われている紙の値段よりもずっと安い。だが、その100ホケレイロ札は確かに未使用の新札だ。

 それがビリビリに破かれたということは、5000兆円の残高のうち4999兆9999億9999万9999円までは使いきったが、1円以下のごくごくわずかな金額にすぎない100ホケレイロ分の金額だけが、ATMに戻ったことを意味する。

 その瞬間、5000兆円を全部使いきって無事に到着したはずのゴールが、再びほんの少しだけ遠ざかった。5000兆円と比べたら、まさに塵のようなごくわずかの差だが、それでもゴールではないことに変わりはない。


「いや……!!まだ残高が戻ったとは限らん!!四捨五入されれば、こんなのは誤差の範囲であっさり消える額だ!ATMの残高がゼロになっているかどうか、確認すればすぐに分かる!!」


 普段の冷静沈着さからは想像もつかないほどに狼狽しきった奥田先生は、そう怒鳴りながら黒いATMに慌てて駆け寄り、操作画面の液晶パネルをのぞき込んだ。

 そしてのぞき込むなり、「畜生!!死ね!!」と狂ったような声で叫び、思いっきりATMを蹴りつけた。


 黒いATMを動かせるのは、この世で和夫と美知子だけしかいない。

 二人のどちらかが液晶パネルに触れない限り、ATMに電源は入らず、操作画面は真っ黒のままだ。奥田先生には、残高がちゃんと0円のままなのか、それともさっき破かれた100ホケレイロの分だけ戻ってしまっているのか、確認のしようがない。


 0円かもしれないし、そうでないかもしれない。


 こういう時、奥田先生はなまじ頭が良いだけに、「どうせ四捨五入されて0円になっているに決まっている」などと根拠もなく楽観的に信じこんで、和夫と美知子をさっさと殺してしまうだけの思い切りの良さを持ち合わせてはいなかった。「ひょっとしたら残高は0円ではないかもしれない」という一縷の可能性、ほんのわずかの恐れ。それが彼の動きを止めた。


「この能無しのバカ野郎があっ!!」

 奥田先生はそう口汚く叫ぶと、苛立たしげにどすどすと足音を立てながら和夫の方に歩いて行き、地面に転がる和夫の顔面を無慈悲に思いっきり蹴りつけた。その様子は、国会議員として振る舞う普段の温厚な奥田先生とはまるで別人のようだった。

 蹴りつけられた時に、口の中が切れて和夫は血を吐いた。脇腹からも血を流して、激痛で起き上がることもできないというのに、和夫はそれでも脂汗を流しながら勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ふてぶてしく奥田先生に言い返した。


「そのバカ野郎に出し抜かれたてめえこそ、本当の能無しだろうが。さあ今すぐ俺と美知子の傷の手当てをしろ……まったく、てめえの拳銃の腕前が悪くて命拾いしたな。撃たれた所はむちゃくちゃ痛いが、この様子なら、俺も美知子もまだ死ぬほどじゃない」


 その時だった。

 奥田先生の背後から聞きなれた男の声がした。


「本当に、だから拳銃の訓練は必要だって言ったじゃないですか」

 そして、それに続いて鋭い銃声が一発。


 背中から放たれた銃弾に胸を貫かれた奥田先生は「な……!なんだ……?」と呻き、驚愕の表情を浮かべながらドサリと力なくその場に倒れ込んだ。


「素人の撃つ拳銃なんて、至近距離でも当たらないんですから」

 そう言いながら平然と笑う金髪の男。その手には、まだ銃口から煙を上げている黒い拳銃が握られている。


「セバスティアン!なんでここに……?」

「話は後です。間に合って本当に良かった。まずは止血をしないと」


 そこに立っていたのは、極秘任務でアメリカに行っていたはずのセバスティアンだった。一体、彼がなぜ今ここにいるのか。

 セバスティアンはその説明はひとまず後回しにして、走って金庫を出ると屋敷の使用人たちを急いで呼び集め、救急車も呼んだ。それで使用人に包帯を持ってこさせると、和夫と美知子の撃たれた場所をきつく縛って止血処理をした。後で医者がその処置を見て、救急隊員がやったのだと勘違いしたほどの的確な処置だった。

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