第10話 5000兆円をさらに相談してみた

 5000兆円を全部使う方法は無い。もし使ってしまったらお前は殺されるだろう。


 そんな冷徹な宣告を兄の秀夫から受けてから数日。和夫と美知子は呆然と虚ろな日々を過ごしていた。


 和夫は、5000兆円をもらってすぐに買った新車のアルファードの運転席に座ったまま、エンジンもかけずにただボンヤリと外を眺めていた。真新しいハンドルをなでながら、「空しいなぁ」と溜め息をひとつ吐く。


 何も考えずに勢いで買ったはいいものの、納車されてもう一か月以上経つのに、和夫はこの車にまだほとんど乗っていない。自宅の周囲はゴミゴミとした道幅の狭い住宅街で大型車の運転には神経を遣うし、近くの幹線道路はいつも渋滞している。ほとんどの用事は、車で出かけるよりも最寄り駅まで自転車で行って、そこから大きな駅まで電車で移動した方がよほど早いのだ。


 別に、俺は車が欲しかったわけじゃなかったんだなぁ……


 300万円の借金をしていた頃、自分がこの車にあれほど恋焦がれていた理由は、単なる嫉妬と見栄だったんだなぁと和夫は今になって気付いたのだった。


 少し前、同年代の職場の同僚が400万のアルファードを新車で買って、嬉しそうに事あるごとに自慢していた。若手社員たちがそれに調子を合わせて「アルファード良いですね」としきりに褒めるのを見て、和夫は何となくイラっとしていた。自分にそんな車を買うような金はない。

 あいつがいつも嫌味たらしく、400万のアルファードのことを世界最高の宝物みたいに言うから、じゃぁ俺は宝くじでも当たったら、あいつよりもグレードが1つ上のアルファードを買ってやろう――


 今になって考えてみると、それが和夫が車を欲しがった理由だった。


 そもそも、よくよく考えてみたらアルファードには750万円以上する最高級グレードがある。5000兆円も持っているんだから、別にわざわざ500万円のアルファードにしなくとも、750万円以上する最高級のグレードを選んでも良かったはずだ。だいたい、世の中には数千万円のフェラーリとか1億円のオーダーメイドのロールスロイスとか、もっと高い車なんていくらでもある。


 だが、和夫にとっては500万円のアルファードの方がずっと魅力的だった。

 もし和夫が、750万円の最高級グレードのアルファードや、何千万もするようなよく分からないスーパースポーツカーを買ったところで、職場のやつらはきっと「えぇ……?」と戸惑いの顔を浮かべ、内心「この人、大丈夫かな?」と不審がるだけだろう。

 おそらく、誰もが口では「金井さんの新車すごいっすね!」などとチヤホヤしてはくれる。でも心の中では「アイツあんな無茶してバカだな」「ローンで破滅するんじゃないのか?」などと、全く正反対のことを思っているはずだ。


 その点、500万円のアルファードであれば、そこまでの度を越した嫉妬や悪意は受けない。多少はそういう後ろ暗い感情は抱くにしても、周囲の人も「え!? 新車で500万のアルファード買っちゃったんですか?すごいな金井さん!」と驚いて、素直に一緒に喜んでくれるギリギリ許容範囲内である気がする。

 つまり、和夫は車が欲しかったのではなく、周囲の人にチヤホヤされるという状態が欲しかったのだ。


「結局、金はあっても、そいつの器に合った使い方しかできないんだな……」


 たぶん、生まれた時から大金に囲まれて育ち、大金を使うのが呼吸のように当たり前のような奴だけが、何の制限もなく大金を自由に使えるのだろう。

 俺みたいに、大金などに人生で一度たりとも縁が無かった奴は、5000兆円があってもその使い方を知らない。まさに猫に小判、豚に真珠。俺は猫だ。俺は豚だ。


 ある意味、金が無いことよりも精神的にきつかった。


 大金を与えたところで、お前程度の人間にはどうせ使いこなせないだろう。

 神様からそう見透かされバカにされているような気がして、和夫は悔しかった。絶対に5000兆円を使い切って神様を見返してやる!という怒りはあるが、自分にはそれを実現する力がない。とことんまでに自分は無力だった。


 ハア……とため息をもう一度吐くと、和夫は車を降り、歩いて家に戻ろうとした。すると携帯が鳴り始めた。見ると兄の秀夫からの着信だ。


「なんだよ兄貴?」

「おお。和夫か。元気か?」

「元気なわけあるか。目の前にある5000兆円を諦めろって言われてんだぞ俺は」

「まあ、そうだろうな」

「……それで何の用だ。もう二度とこの件で相談してくるなって言ってたろ兄貴」


 しばらく電話口の向こうで沈黙があった。その後、堅い口調で秀夫が言った。


「いや、その件なんだが……やっぱり5000兆円を何とかできないかどうか、あの後もう一度、俺も冷静になって考えてみたんだ」

「何だよそれ。いくら考えても意味ねえよ。5000兆円って世界の金の半分なんだろ?どう頑張っても使いきれねえじゃん、そんな金。それに、使ったら世界中で戦争が起きるって教えてくれたのは兄貴じゃないか」


 和夫の言葉に、秀夫はモゴモゴと聞き取りにくい小さな声で返した。

「いや、確かに俺はあの時そう言ったんだが……。でも、何とかして戦争を起こさず、世界に影響を与えずに5000兆円を使う方法って本当に無いのだろうか?

 そんな簡単に諦めないで、もっときちんと考えてみたらどうかと……」

「もういいよ兄貴。俺、殺されるの嫌だし」

「いや、でもな和夫……。俺たちがまだ知らないだけで、ひょっとしたら殺されずに5000兆円を使い切る方法があるかもしれないじゃないか、だから……」


 今日の兄は妙にしつこい。和夫はだんだんと苛立ってきた。

「どうしたんだ兄貴。こないだと言ってること全然違うぜ?

 俺はバカだけどさ、俺もあの後、兄貴から言われた言葉を自分なりにもう一度真剣に考えてみたんだ。それで、あの時兄貴が言ってた『悪銭身につかず』って、本当にその通りだなって思ったんだよ。

 こんな5000兆円、持ってたところで虚しいだけで、何の役にも立ちやしない。やっぱりこの5000兆円は最初から無かったものと思って、地道にコツコツと……」


 そう言った和夫の言葉を遮るように、秀夫が焦ったように口をはさんだ。

「いやいやいや、もう一度挑戦してみようぜ和夫!」


 和夫はあっけに取られて、しばらく何も言えなかった。少しだけ不服そうに

「でも兄貴、自分にもどうすればいいのか分からないって言ってたじゃないか」

とだけボソッとつぶやいた。


 すると秀夫は間髪入れずに即答した。そう言われるのを見越して、あらかじめ答えを準備していたようだ。

「ああ。確かに俺にはどうすればいいのか、今でもさっぱり分からない。

 だが、俺の大学時代の恩師で、奥田さんというものすごい頭のキレる人がいるんだ。今は経済学部の准教授をやってて、まだ40前後だけどいくつか会社を興したりもしていて、ビジネスの経験も豊富だ。その人に相談してみたら、何かいい知恵をくれるかもしれないかと思っている。どうだろうか?」

「その准教授、話が通じる奴なのか?」

「ああ。俺は大学にいた時に先生とは親しくしてもらっていて、卒業してからも大学の会合とかがあればちょくちょく顔を出しているんだが、頭が良くて信頼できる人だというのは間違いなく自信を持って言える。

 それに何よりこの先生、好奇心が旺盛すぎるちょっと変わった人でな。今回みたいな、神様がくれた5000兆円のような変な話は絶対に大好きだ。だから今回の件を相談するにはうってつけなんだよ」


 前回会った時とは別人のように熱心で前のめりな秀夫の様子に、和夫はただ

「まあ、兄貴がそう言うならそうなんだろうが……」

と答える以外なかった。それで結局、秀夫の勢いに押し切られるような形で、秀夫から奥田准教授に連絡を取って、この件について相談してみることが決まった。


 和夫はそれでもまだ、大学の准教授みたいな偉い人が、こんなバカバカしい話を真面目に取り合うはずがないと思っていた。

 ところが、その電話の翌日の夕方にはもう秀夫から二度目の電話が来た。そしていきなり「奥田先生がその黒いATMの実物を今すぐ見たいと言って、いま一緒にお前の家に向かっているところなので、すぐに見せられるように準備しておいてくれ」と一方的に指示された。


 相手の都合も考えないで、随分せっかちな先生だなと和夫は最初少しだけムッとした。とはいえ、一度はもう諦めて気持ちのふんぎりもつけた5000兆円について、唐突に目の前に現れた唯一の希望がこの奥田先生なのだ。和夫は先生を最寄り駅まで車で迎えに行き、そして自宅に案内して黒いATMを見せた。


「ほほー。これがその黒いATM。面白いなー」

 奥田准教授は、黒く日焼けした顔に髪を短く刈り込み、派手な紫のシャツを着ていて、大学の先生どころか堅気の人とは到底思えない雰囲気の人物だった。常にニコニコと機嫌よさそうな顔をしているが、目は全く笑っていない。

 真面目な兄がどうしてこんな怪しげな見た目の人物を尊敬しているのか、和夫には全く理解できなかったが、見た目の怪しさなどどうでもよくなってしまうくらい、頭の切れる優秀な人だということなのだろう。


 奥田先生は、秀夫がこの家に来た時にやったのと全く同じように、まずは黒いATMの筐体の全周を確認した。それで、どの銀行のATMとも機種が違う事を確認したうえで、液晶の操作画面をのぞき込んだ。


「この『使い方』のページをご覧ください先生。お分かりになりますか?キャッシュとして経済に還流させない限り、使用したとは見なされず残高が元に戻ってしまうというルールなので、どう頑張っても世界のマネーサプライに影響を与えずにはいられないのです」

「なるほどね。こりゃぁ神様も面白いこと考えたねー」

「私も色々と抜け道を考えてみたのですが、どう頑張っても無理でした」

「まあでも、これだけルールが厳しいと取りうる選択肢はほとんど無いから、逆にあれこれ余計なこと考えなくていいんじゃないか?」


 秀夫も和夫も5000兆円を前に途方に暮れるばかりだったが、奥田先生はそうではないらしい。さっきから面白い、面白いと繰り返してはニコニコしている。


「余計なことを考えなくていいとは?」

「要は、社会に流したらアウトってことでしょ?だとしたらもう、選択肢としてはどこかに塩漬けにする方法しか残ってないですよね」

「まあ……そうなりますが。塩漬けといっても、ただ下ろした金を倉庫で保管するだけじゃダメなんです。社会に流さなければ十日で無効になってしまい、残高は元に戻ってしまいます。だから、何らかの金融機関に預けなければいけないのですが、金融機関に預けたら当然金利が発生してしまいますし、銀行は我々の預けた5000兆円を使ってどこかに融資を始めてしまいますから、やっぱり世界経済への影響は避けられません。

 何しろ5000兆円ですからね。仮に金利が年0.01%だったとしても利子は年に5000億円です。とんでもない額なんですよ」

「まぁ、そうだね。銀行に預けるという線は絶対に無いよね」

「はい。株式もダメ、債券もダメ、だとすると……」


 そこで奥田先生は和夫の方を向いて言った。

「ところで5000兆円を神様から受け取ったあなた……えーと、金井君の弟の……お名前は和夫さんでよろしかったでしたっけ?」

「はい。そうです和夫といいます」


 大学の先生のような偉い人に声を掛けられた機会などほとんどない和夫は、緊張した声で答えた。そんな和夫に向かって、奥田先生は「新しい洋服でも着てみるかい?」といった風の軽い調子であっさりとこう言った。


「和夫さん。あなた、神様やってみない?」

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