第9話 5000兆円を燃やしてみた

 CIAやKGBやMI6がお前を殺しに来るぞ。


 秀夫にそんなことをいきなり言われて、和夫は一体どんな顔をしたらいいのか分からなかった。バカなこと言うなよ、と軽く笑い飛ばそうとしたが、真面目な性格で冗談などほとんど言った事もない兄の顔は真剣そのものだ。とてもそんなことを言えそうな雰囲気ではない。


「そんなわけで、すまないが和夫。5000兆円の使い方について、俺は何もいいアドバイスが浮かばない。この5000兆円を全部使おうなどとは考えず、この十年間は一時の夢だと思ってつつましく楽しんで、十年経ったら元の生活に戻るのが一番だ」


 そう冷たく言い放った秀夫に、和夫はとっさに何かを言い返そうと声を発したが、それを封じるかのように、秀夫が上から言葉をかぶせた。


「あ、そうだ。仕事も辞めるなよ。この5000兆円は、その場限りで消えてしまう贅沢のために使うのではなく、例えば資格の取得とかキャリアアップのための勉強だとか、自分の身になって残るもののために使うんだ。

 お前、借金300万あるって言ってたよな。でも、そうやって十年の間に地道に自分に投資をして能力を高めておけば、給料も少しは上がるはずだ。そうすれば、きっと元の生活に戻っても借金なんてすぐに返せる」


 和夫はそれを聞いて、あぁ……真面目でコツコツと人生の実績を積み重ねてきた秀夫がいかにも言いそうなことだなぁ、と思った。仕事なんてもうとっくに辞めてしまったよ。それに、いくら5000兆円あったところで、それを使って勉強するだと?自分の中にその発想は全くなかったよ。

 金をかけて勉強したら自分の能力が伸びて給料が良くなるだなんて、さすが兄貴は自分の能力の高さに絶大な自信があるんだな。俺は兄貴と違って、自分の能力の低さには絶大な自信がある。金をかけて勉強したところで、ボンクラな俺の能力は絶対に伸びないし、ただの金の無駄だ。たとえ結果にコミットするスポーツクラブに何十万も払って通っても、俺は結果を出せない自信がある。


「ちょっと待ってくれ兄貴。そんなに簡単に諦めないでくれよ。もっと考えたら何か手があるんじゃないか?いいアイデアを出してくれたらもちろん礼はするよ。5000億……いや、一兆円を兄貴にやる。悪くない話だろ?一兆円あれば一生遊んで暮らせるぜ」

「和夫。『悪銭身につかず』という言葉がある。そんな風に自分で努力もせず手に入れた金は、どうせ無駄に使って身を滅ぼして終わるだけだ。俺の融資先でも、ラッキーで手に入れてしまった悪銭で身を持ち崩した不幸な例をいくらでも見てきた」

「そんなこと言うなよ兄貴……兄貴だけが頼りなんだ……俺、もうあの惨めな生活に戻るのは絶対に嫌なんだよ」

「そんな怠けたことを言い出すなんて、もう手遅れになりかけてるな。お前はもう、悪い金で贅沢をする味を知ってしまった。今すぐここで、その味を忘れておかないと絶対に将来破滅するぞ。

 なあ和夫。悪い事は言わないから、今までのことは全部忘れるんだ。5000兆円なんてものは最初から無かった。そう思って、地道に自分の金で慎ましく暮らすんだ」


 秀夫はそう言って静かに和夫を諭したが、和夫は半泣きで兄にすがりついた。


「そんな……兄貴……。助けてくれよ……。俺は別に贅沢がしたいわけじゃないんだよ……。5000兆円で実際に少しだけ贅沢してみて分かったけどさ、贅沢って思ってたほど楽しくはないんだ。俺の生きがいだった毎週のギャンブルも、5000兆円のせいでちっとも面白くなくなった」

「良い事じゃないか。この調子で心を入れ替えて、無駄遣いせず真面目に暮らせ」

「ああ、真面目に暮らすよ。でも、真面目に暮らすにしても、せめてゼロから始めたいんだ。借金だけでも何とかしたいんだよ兄貴」

「何をわがまま言ってるんだ。自分で作った借金なんだから自分で何とかしろ!」


 往生際の悪い和夫を秀夫が大声で叱りつけ、部屋の中に重苦しい沈黙が続いた。涙目で兄の顔を情けない表情で見上げる和夫と、それを睨みつける秀夫。しばらく誰も一言も発する事ができなかった。


 しばらく時間が経ったところで、気まずい空気を打ち破るように、美知子が取って付けたような明るい声で言った。


「……ねえ。兄弟ですごい真剣に話をしてるところ邪魔しちゃって悪いんだけどさ。いま私、すっごいバカなことを思いついたんだけど、言ってもいい?」

「別にそんな、物を言うのに遠慮する必要はねえよ」

 ふて腐れた和夫がそう吐き捨てると、美知子はいたずらっ子のような表情を浮かべながら提案した。


「ねえ、このお金、焼いちゃわない?」


 和夫と秀夫は、全く予想していなかった提案に、目を丸くして美知子の顔を見た。

「……はぁ?何言ってんだ美知子」

「使えないんだったら、焼いちゃえばいいじゃん」

「へ?」

「だってさ、この黒いATM,100万円を下ろしたら残高の表示が100万円分減るじゃない。下ろした後に、その札束を私たちがどう使おうが関係なくない?

 何かに使わなきゃダメってことなら、例えばホラ、ベランダに置いてあるバーベキューコンロで札束を焼いて、それで肉を焼いて食べたら『焼肉するためにお札を燃料として使った』ってことにはなるわよね」

「えぇぇ……?」


 そんな屁理屈が通じるかなぁ?と和夫も秀夫も思ったが、確かに黒いATMから金を下ろすと、毎回その分だけ残高は減っているわけだし、試して失敗したところで痛くもかゆくもないことなので、三人はダメ元で美知子の案を試してみることにした。


 さすがに、他の人が通りがかる屋外で札束を燃やすわけにはいかない。

 防火上褒められたことではないが、仕方がないので三人はアパートの室内でバーベキューコンロを組み立て、それをリビングの真ん中に置いた。そしてとりあえず500万円をATMから引き出し、帯封を切ってバラバラにコンロの中にばらまいた。黒いATMの残高表示は、500万円減って4,999,999,834,699,120円になった。


 一万円札で一杯になったコンロを見て、和夫がボソッと言った。

「なんか、雑誌の裏によく出てる怪しげな『お金が貯まる開運ネックレス』の広告についてる『札束風呂』の写真みたいだな」

「何だそれは」

「真面目な兄貴はそんな雑誌は読まないか。雑誌の裏表紙によく、金の貯まるネックレスの広告が載ってんだけどさ、だいたいそういう広告って、『それまで借金まみれだった俺が、このネックレスを買ったとたん万馬券は的中、宝くじは高額当選、今では大金持ちでウハウハな毎日です』みたいな体験談と一緒に、冴えない男が両脇に美女を抱えて笑顔で札束の風呂に入ってる写真が載ってんだよ」

「知らんな、そんな広告」


 和夫の胸元にギラギラと光っている下品な金色の喜平のネックレス、それがひょっとしてその怪しい開運ネックレスなのか?と秀夫は一瞬だけ思ったが、指摘してしまったら何となく申し訳ないような気がしたので黙っておいた。


 冷蔵庫の中に残っていた豚肉のパックと、輪切りにした玉ねぎを美知子が持ってきた。和夫はポケットからライターを取り出して、コンロに敷いた一万円札の一枚に火をつける。火はたちまち隣の札へと次々と燃え広がっていき、何枚もの一万円札があっという間に黒焦げになってパサパサの灰に変わっていく。

 火が広がってきたところで、コンロの上に網を置いて、肉と玉ねぎを乗せた。


「なんか、変な気分だな……」

「ホント。つい数か月前まで、あんなに欲しかった一万円札なのに……」


 一万円札に火をつけた経験のある人間など、この日本に数えるほどしかいないだろう。まして、500万円を燃料にしてバーベキューをしようなどという狂った人間は、間違いなく自分以外にいるはずがない。

 安い賃貸アパートの一室、殺風景な蛍光灯の下で繰り広げられている500万円のバーベキュー。しかしその500万円はほぼ全額が燃料代で、肉はA5ランク黒毛和牛でも何でもない。スーパーで買った普通の豚肉だ。


「わけがわからねえよ……」

 そうつぶやきながら冷蔵庫にあった焼き肉のたれをつけて食べた豚肉は、当然といえば当然だが、なんの変哲もないただの豚肉を焼いたものだった。


 バーベキューを食べ終わるやいなや、秀夫はすぐに黒いATMの確認に向かった。

「あ!やっぱりダメだ和夫。残高が元に戻ってる!」


 秀夫が液晶画面を見て悔しそうに叫んだ。残高の欄は、先ほど引かれた500万円が再び足されて、元の4,999,999,839,699,120円に戻っている。


「えー!?やっぱりダメだったかー!!」

「そうなのー?なんだ、くだらないけど良いアイデアだと思ったんだけどなー」

「あ。気づかなかったけどここに『使い方』のボタンがあるな。押してみろ和夫」


 自分が触ってもATMは動かないので、秀夫が和夫に指図する。和夫が液晶画面の「使い方」のボタンを押すと、画面上に色々な注意書きが表示された。最初に書かれているのはごく単純な操作方法説明だが、下に画面をスクロールさせていくと箇条書きで色々な注意事項が現れた。


※このATMからは、世界中のあらゆる通貨を引き出すことができる。日本円以外の通貨で引き出した場合、引き出した日の為替で円に換算した額が、残高から差し引かれる。


※このATMは、世界中のあらゆる銀行に振り込みを行うことができる。その際の手数料は、振込先の銀行が規定する額とする。日本円以外の通貨建ての口座に振り込む場合、引き出した日の為替で円に換算した額が、残高から差し引かれる。


※このATM内の預金を使用したと見なされるのは、物品の購入、各種支払い、銀行への預金等によって社会に還流された場合のみとする。下記のような場合は使用したとは見なさなれず、使用されなかった分の金額は預金残高に再び加算される。


・引き落とし後、一度も使用することなく焼却・廃棄・通貨として使用不能な状態に改変した場合

・引き落とし後、購入・支払い・預金等の社会に還流させる行為をしないまま十日間が経過した場合

・引き落とし後に第三者に譲渡し、その譲渡された第三者が譲渡を受けた後に購入・支払い・預金等の社会に還流させる行為をしないまま十日間が経過した場合

・引き落とし後に第三者に盗難され、その盗難した第三者が盗難後に購入・支払い・預金等の社会に還流させる行為をしないまま十日間が経過した場合


 この注意書きを読んだ秀夫は「ちっくしょう!なんて性格の悪い神様なんだ!」と思わず叫んだ。和夫と美知子は意味が分からず、秀夫にその理由を尋ねた。


「この注意書きを見て、神様とやらの意図が全部わかったぞ。ものすごい悪意を感じるルールの設定だ。神様の野郎……最初からこうなるの全部わかった上で、ルールで逃げ道を全部ふさいだ上で、俺たちが5000兆円を使えずに苦しむのを見て楽しんでやがるんだ。

 いいか?この注意書きにはな、5000兆円は必ず社会に流せと書いてある。つまり、焼くのも捨てるのも、使わずに置いておくのもダメだ。誰かに渡したり盗まれたりしても、その渡された奴や盗んだ奴が十日以内に使わなきゃダメだ。十日経っても何もしなかったら、その分の金額は残高に戻ってしまう」

「そうか、タンス預金にして十年持っておくというのもダメなのか」

「そうだ。物を買う、何かの代金を支払う、貯金する、みたいに他の人間の目に触れる状態にしないと、使ったとは見なしてくれない。でも5000兆円でそれをやってしまったら――もうわかるな?」


 和夫はすぐに答えた。

「物価が上がって、戦争が起こって、俺は殺される」


「そうだ。5000兆円が社会に出回ったら物価が上がる。でも社会に出回らせないと、使ったとは見なしてくれず、残高は元に戻る」

「逃げ道ねえじゃねえか」

「そうなんだ。だから意地悪だって言ってるんだ」

「えぇ……」

「これはもう絶対に使い切るのは無理だ、和夫。神様はやっぱり神様、俺たちよりも一枚も二枚も上手なんだ。あきらめろ。

 さっき俺が言ったように、この十年間は無かったものと考えるんだ。そして今まで通りつつましく暮らして、自分のスキルアップのためにこのお金を有効活用しろ。そして十年後、最初の状態からもう一度頑張ればいいんだ」

「そんな……俺は兄貴とは違う。そんなうまくスキルアップなんて、できるわけねえよ……」

「冷たく言うようだが、それ以外に手はない。俺はこの話は聞かなかったことにしておいてやるから、もう二度とこの件で相談してくるなよ。じゃあな」


 がっくりと肩を落としてうなだれる和夫と美知子を置き去りにして、さよならも言わずに秀夫は弟の安アパートを後にした。そして弟の住む低所得者層の多い地域からはるばる電車を乗り継いで、都内の高級住宅街にある広い一軒家の自宅に帰った。

 秀夫は中堅オーナー企業『手塚興産』の社長令嬢である手塚 佳織と結婚して入り婿になった。その時、可愛い一人娘をみすぼらしい家に住まわせることはできないといって、佳織の父がポンと気前よく買い与えてくれた家だ。


「ただいま」

 秀夫が玄関でそう呼ぶと、普段ならすぐさま佳織の「おかえり」と答える声が返ってきて、そしてしばらく間をおいて廊下の先から顔を出してくるのが常だ。しかし今日は誰も出てこない。

 秀夫は不審に思いながら家に上がり居間のドアを開けると、いきなり佳織が目に涙を浮かべながら飛び出してきて、秀夫にすがりついてきた。


 秀夫は子供たちが外に遊びに行っていて家に居ないことを素早く目で確認すると、何があったんだと佳織に尋ねた。彼女は泣きながら叫ぶように言った。


「お父さんの会社が……お父さんの会社が……!

 実は、経営がうまくいってないのを何年も隠していたらしくて……ずっと粉飾決算していたのが発覚して、実は二十五億円の負債があるのが分かったって、今……!」

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