第8話 5000兆円を考えてみた

「何言ってんだよ兄貴?どうして金使っただけで俺は殺されなきゃならないんだよ!」


 そう言って声を荒らげた和夫を、秀夫は憐れむような目で見つめた。

「バカ野郎。それはお前が一人で世界の経済をめちゃくちゃに破壊するからだ」

 はあ?と不審げな顔をする和夫に、秀夫はため息交じりに説明をはじめた。


「まぁ、お前には経済の知識が全然無いから、お前でも分かる簡単な例から説明してやるよ。なあ和夫、日本の国はいま借金だらけだって話、どこかで聞いたことないか?」

「あ?詳しくは知らないけど聞いたことはある。それで消費税とか上がるんだろ?」

「消費税の件は今はまぁ置いとくとして、とにかく日本がいま借金だらけだってことは知ってるな? 日本は今、だいたい900兆円くらいの国債――国の借金のことな、それを抱えて苦しんでいる」

「借金900兆もあんのかよ。大丈夫なのか日本」

「日本が大丈夫かどうかという件も今はまぁ置いとく。なぁ和夫、ここでお前なんかひとつ疑問に思わないか?」

「……何が?」


 キョトンとしている和夫に、秀夫が静かに言った。

「一万円札って日本銀行が印刷してるんだよな。そして日本銀行は日本の国の銀行だ。それならさ、国が900兆円も借金をして大変なんだから、今すぐ一万円札をたくさん刷って900兆円作って、それで借金なんて全部返しちゃえばいいじゃないか」

「あ。確かに。なんで国ってそれをやらないんだろう?」


 最初はそう答えた和夫だったが、すぐに表情を曇らせて考え込んだ。

「……でもさ兄貴。俺バカだからうまく言えないけど、何か、それやっちゃったら超ヤバい事になる気がする」

「なんでヤバいと思った?それやると何が起こると思う?」

「え。わかんねえよそんなの。でも、直感だけどとにかく、そういうズルはヤバい気がする。だって金ないのに金を勝手に増やしてんだろ?おかしいじゃんそれ」

「そうだ。金が無いからといって、ただ印刷して増やせばいいってもんじゃない」


 そこで秀夫は、テーブルの上にあったチラシをひっくり返して、裏側に鉛筆で同じ大きさの丸を二つ描くと、右の丸の中に「100兆円分のモノ」、左の丸の中に「100兆円」と書き込んだ。


「いま、お札とか硬貨の形で世の中に出回っている日本円はだいたい100兆円強だと言われている。その100兆円はお金なんだから、それを使えば当然、100兆円分のモノが買えるはずだよな」

「そりゃそうだ」

「じゃあ、いま日本には900兆円の借金があるからといって、それを返すために900兆円分の一万円札を一気に印刷したらどうなる?」


 そう言いながら秀夫は、チラシの裏側に描かれた「100兆円」の丸の隣に同じ大きさの丸を9つ描き足した。100兆円の丸は全部で十個になった。

「いま世の中に出回ってる100兆円に、新しく印刷した900兆円が加わって、合計1000兆円が世の中に出回るようになる。でも、世の中に出回っているモノの量は変わらない」


 そう言って秀夫は「100兆円分のモノ」と書かれた右の丸を鉛筆の先でトントンと叩いた。「どうなる?」と和夫に尋ねたが、和夫はウンウンと唸るだけで何も答えられない。

 これ以上待っても意味がないと思った秀夫は、答えを言った。

「簡単なことだ。今まで1万円払えば買えてたものが、10万円払わないと買えなくなる」


「なんで?」

「だって、世の中には100兆円分のモノしか無いのに、1000兆円のお金が印刷されちゃってんだぞ。つまり、昔の100兆円の紙幣だったら100兆円分のモノが買えたけど、今は紙幣1000兆円を払わないと100兆円分のモノが買えなくなるってことだ。つまり、1万円を払えば買えてたものが、10万円払わないと買えなくなる」

「うーん。1万円は1万円だろ?いまいちピンと来ないな」


 理解の悪い弟に、秀夫は辛抱強く例を挙げて説明した。

「イメージが湧かないなら、明治時代のお金を想像してみたらいい。あの頃のお金ってやたらと金額が低いだろ。あの頃に10円を持ってたらそれだけで大金持ちだ。でも今じゃ、10円じゃ駄菓子くらいしか買えない。あの当時、今よりもお金の額がそんなに小さかったのは、その頃はまだお金をそんなにたくさん印刷してなかったからなんだ。

 明治時代から今まで、だいたい150年くらいある。その間に少しずつ少しずつ、世界中のお金を印刷する量は増えてきたんだ。それで、昔は10円で大金持ちだったのが、10円じゃ駄菓子も買えないくらいまでお金の価値が下がった」

「……なんか、よく分からないが、確かに昔と比べて物価は上がってるな」

「なんだ、『物価』って言葉知ってんじゃないかお前。それだよ、物価だよ。お札をたくさん印刷して世の中に出回る量が増えると物価が上がるんだ」

「そうなのか」


 たぶん和夫は何も理解していないとは思ったが、秀夫は無視して話を続けることにした。和夫の完全理解を待っていたら、それだけで十年経ってしまいそうだ。


「そうだ。原理が理解できないなら仕方ない、とりあえず、世の中の金というのはそういう仕組みになってるんだと覚えておけ。

 さて、そこでお前の持っている5000兆円を考えてみろ。もしこれを十年でお前が全部使って、世界中にばらまいたらどうなる?」

「……?」

「今までの話の流れで何となく分からないか?世界に5000兆円分のお札が増えるんだ」

「……物価が、上がる?」

「そう。お前が5000兆円を使うことで物価が上がる」

「バカじゃねえの兄貴?なんでたかが俺一人が金を使っただけで物価が上がるんだよ。んなわけあるかよ。兄貴、勉強しすぎて逆に頭悪くなってんじゃねえの?」


 秀夫はハァーと大きな息を吐いて言った。

「お前は5000兆円の恐ろしさを何も分かってない。ちょっと待て、いま検索してみるから」

 そしてスマホをポチポチとタッチし、何かを調べていた。しばらくすると答えを見つけたらしく、秀夫は顔を上げて和夫に尋ねた。


「えーと。和夫。いま世界中で出回っているお金が何円あるか知ってるか?」

「世界中で出回っているお金?」

「そうだ。印刷されたお札と、あと銀行預金とか株券とかの形で出回っているお金。そういうのを全部足すと何円になると思う?」

「さっき100兆円って言ってたじゃん兄貴」

「それは日本円だけの話な。円だけじゃなくてドルもユーロも、世界中のあらゆる種類の金を全部日本円に直したら、どれくらいの金額が出回ってるのかって話だ。いま検索してみたら、だいたい一京円らしい」

「へー。一京。すげえな、そんな単位使ったことねえよ」

「……お前、本当に何も分かってないな。一兆円が一万個で一京円だぞ。それで、お前が今持っている金額は5000兆円なんだ」

「……」

「一万の半分が5000だ。わかるか? つまり5000兆円というのは、いま世界中に出回っているお金の約半分ということになる」

「……世界の半分?」

「そうだ。お前はいま、世界に出回っているお金の半分と同じ額を持っている」

「は?なにそれ……?」


 目を丸くする和夫と美知子に向かって、秀夫は冷静そのものの口調で説明した。

「だから俺はこんなバカげた額は使い切れないと言ってるんだ。

 今はまだ、お前が持っている5000兆円はほとんどこの黒いATMの中に入っていて、世間にほとんど出てないから、世界には何も起こっていない。

 だが、もしこれを十年で全部世界にばらまけば、世界中に出回っているお金が一京円から一京五千兆円に一気に跳ね上がる。1.5倍だ。そうするとどうなる?」

「……物価が上がる」


 ようやく和夫の回答がスムーズになってきて、秀夫も話がしやすくなってきた。

「よし。分かってきたじゃないか。そうなんだ。さっき話した理屈で、お前が5000兆円を使うと、世界中の物価が一気に上がるだろう。何しろお前が持ってるのは世界に出回ってるお金の半分なんだ。とんでもない金額だ。

 まぁ、実は、物価が上がること自体は別に悪い事ではなくて、だいたい年に2-3%くらいずつゆっくり物価が上がる方が、経済はうまく回ると言われている。だからどの国も、それくらいのペースで物価がジワジワと上がるように、よく考えてお札を印刷する枚数とか銀行の金利とかを慎重に慎重に調整しているんだ」

「へー……」


「でも、ここでお前がもし十年で5000兆円を使ってしまったらどうなるか。物価の上がり方はこんな甘っちょろいもんじゃない。

 年に2-3%くらいのゆるやかな物価の上がり方なら、去年1000円で買えていたものが今年は1020円とか1030円になるとか、その程度だ。でもその時には、原則として給料も去年は月30万円だったのが今年は月30万6000円とか9000円とかに上がるから、別に生活に支障は出ない。むしろ給料が上がるので少し気分がいいくらいだ。

 だが、お前の5000兆円が一気に世界にばらまかれたら、たとえば昨日まで1000円で買えていたものが、いきなり明日から1100円、明後日から1200円、その次の日は1300円に値上がりするといった、極端な物価上昇が起こるはずだ。

 もちろん、その分だけ給料も上がるから、長い目で見たら帳尻は合うんだろうが、普通の会社なら給料が上がるなんて一年に一回だけだろう?だが物価は待ったなしで毎日どんどん上がる。

 そうなると、次に給料が上がる来年まで、この急に上がってしまったバカみたいな物価の中でどうやって暮らすんだよ?とみんなが生活に困るようになる」

「……」

「それで、生活できずに破産する人、倒産する会社が出はじめる。追いつめられた末に、やむなく盗みをしたり強盗をしたり、犯罪に手を出す人も出てくるだろう」


 和夫と美知子は無言のまま、まばたきもしない。秀夫は淡々と説明を続けた。


「そんな風に、国全体の経済がボロボロになり治安も悪くなってくると、政治家は急に焦りはじめる。こうなったのは誰が悪い、これは俺のせいじゃない、などと壮絶な責任のなすりつけ合いが始まり、まともな政策の議論が進まなくなる。

 国民の不満から目をそらせるために、俺たちの生活が苦しいのは全部隣の国が秘かに悪さをしているのだ、などと言いがかりをつけて戦争を起こそうとする政治家も出てくるかもしれない」


「そんなバカなこと……あるかよ」

 うめくように、和夫が口を開いた。しかし優秀な兄は、容赦なく即答する。


「十分ある。ほとんどの戦争の原因の根っこは、経済の失敗だ。第二次世界大戦が始まったのだって、直接のきっかけはウォール街の株価の暴落と世界恐慌だ。

 今回、世界に流通するお金の量がたった十年で1.5倍になるなどという、絶対にあり得ないふざけた事態が生じたら、間違いなく世界は大混乱に陥るはずだ。それで世界のあらゆる場所で戦争が起きるっていうのも、実はそんなにバカげた空想じゃないんだよ和夫」

「……」


「きっと、世界中の政府関係者たちは不思議に思うだろう。一体どこのバカが、世界に出回っている通貨の量を何の考えもなしにドカドカ増やしているのかと。おそらくCIAとかKGBとかMI6とか、世界中の諜報機関がその原因を必死で調査しはじめ、全力でお前を探し回るはずだ。それで、もしこの黒いATMと5000兆円の存在が彼らに知られたら――」

「……知られたら?」


 秀夫は、低く抑えた声で言った。

「俺がアメリカの大統領なら、間違いなくお前を殺すだろうな」


「……!」

「相手が国際的テロ組織とかならまだしも、お前は武器も組織も持たないただの名もなき一般人。こっそり殺すのは簡単だし、殺されたところで誰も気にはしない」

「だからって、何も殺すことはないだろ……俺は金を持ってるだけだぞ!?」


 秀夫は冷静に言い放った。

「よく考えてみろ和夫。確かに、お前のような善良な小市民が5000兆円を持ってるぶんには、まだ状況はそこまで最悪じゃない。だがな。もし万が一、お前と黒いATMの存在が凶悪なテロ組織や国際的犯罪組織に知られて、お前の身柄がそういう悪い奴らに拘束されたらどうなる?

 黒いATMを使えるのはお前と美知子さんだけだから、そいつらはお前らを絶対に殺しはしないだろう。その代わり、監禁して脅迫して、お前にATMを操作させて好きなだけお金を引き出させるはずだ。奴らはそれを使って大量の武器や軍隊を買い揃え、さらに世界中に金をばら撒き、物価を操作して世界を大混乱に陥れるだろう」

「そんな……」

「なあ、アメリカ大統領の気持ちになって考えてみろよ和夫。

 お前一人を殺したところで、たぶん世界は何も変わらない。でも、生かしていたら世界の物価が大混乱になるかもしれないし、悪の組織にお前が捕まったら最悪の事態が起こる可能性だってあるんだぜ?

 だったら別に今お前が何も悪い事をしていなくとも、面倒なことが起こる前にさっさと殺してしまった方が、大統領としてはずっと得じゃないか?」

「……」


 和夫と美知子、秀夫の三人は、狭い賃貸アパートの一室で無言で固まっていた。


 なんなんだこれは。

 どうしてこんなことになった。

 俺たちはただ、金が欲しかっただけなんだぞ。

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