第7話 5000兆円を相談してみた

 黒いATMの中にある現在の残高、4,999,999,959,699,120円。

 これを使い切るまでに残された期間、あと9年と10カ月。


 今のところ買ったのは500万円の車と、高級な服やジュエリー。

 家は、買えていない。

 株も、買えていない。


 高級レストラン通いにも飽きた。来月に十五日間の超豪華世界一周旅行の予約を入れたが、とてもそんな悠長に長い旅行など行く気になれない。そんなことをして遊んでいる間にも、時間は刻々と過ぎていってしまう。


 もし、神様が指定した期限以内にこの黒いATMの中身を全部使い切れなければ、和夫と美知子の二人は、300万円の借金を負ったみじめな昔に逆戻りする。

 二人は最初、期限が近くなったら黒いATMの中の金を全部土地や株券に換えてしまえばいいだろう、なんて軽く考えていた。だが、不動産屋と証券会社に冷たくあしらわれたことで急に先行きの不安に襲われはじめた。


「ねえ。どうするのよ」

「だから知らねえって言ってるだろ」


 そんな恒例の不毛な問答が延々と繰り返される。そういえば300万円の借金で首が回らなかった時にも、夫婦で全く同じやりとりをやってたな――なんてことを和夫はぼんやりと思った。

 それでも、300万円の借金をどうするかという問題だったら、まだ解決の方法は二人にもイメージが描けていた。要するにギャンブルと浪費を止めればいいだけの話で、それを止めるのが嫌だから二人で延々とウジウジしていただけだ。

 だが、5000兆円の資産をどう使い切るかという問題になってしまうと、二人にはもう全く解決の方法が見えない。家も買えない、株も買えない。だとしたら、自分たちは一体何を買って5000兆円を使い切ればいいのか。


 言い出しにくそうに、美知子が和夫に恐る恐る尋ねた。

「ねえ……お義兄さんに相談してみるのはどうなの?」


「やだよ。何であんな奴」

 和夫は間髪入れずに即答した。


 和夫には二つ年上の兄、秀夫がいた。学校の成績がパッとしなかった和夫と違って、秀夫は小さい頃から成績優秀で、一流大学を卒業して今は大手銀行に勤めている。そんな秀夫であれば5000兆円をどうやって使うか、何かアイデアを出してくれるのではないか。


 だが、和夫はそんな兄が大嫌いで、逃げ出すように実家を出てからはもう何年も連絡を取っていない。和夫は物心ついた時からずっと優秀な秀夫と比べられ、お前はダメだ、お前はなぜ兄と同じように勉強できない、などと叱られながら生きてきた。秀夫の態度も、いつも兄貴風を吹かせ、出来の悪い和夫のことをどこかバカにしている風だったと和夫は思っている。

 そして今や、兄は大手銀行のエリート銀行員だ。ずっと音信不通なので詳しくは知らないが、兄はある中堅企業のオーナー社長の一人娘と結婚して、入り婿になったらしい。いずれは社長の娘婿として、次期社長の座につくことが約束されているそうだ。今は銀行員として、来るべき社長の座に向けた経験と人脈作りに励んでいるらしい。

 そんな順風満帆な兄の人生に対して、こっちは300万円の借金を抱えてヒーヒー言っている。こんな自分の情けない姿を親戚一同に見せるのは絶対に嫌だと、和夫はあれこれ理由をつけて、兄の結婚式にすら顔を出さなかったのだ。


 和夫にとって、秀夫という兄はそういう存在だ。そんな兄に5000兆円の使い道を相談しに行くなんて、和夫としては屈辱以外の何物でもない。そもそも、実家を出てからずっと音信不通なのに、今さらどの面下げて兄に会いに行けばいいのか。


「でも、もう相談できる人、お義兄さんしかいないじゃない。赤の他人にこんな話できないでしょ?」

「でも嫌なんだよ。どうせアイツ俺のことバカにするんだぜ」

「もう。じゃあさ、そこの説明は私が全部するから、それでどう?あなたは最初にお兄さんに電話して、会って話をする約束を取り付けるだけでいい。そこから先は全部私が説明して、あなたは黙って隣で座ってるだけ。それならいいでしょ?」

「嫌だってば。今さら電話するの超気まずいよ。何の用なんだって思うじゃん」

「確かに最初はそうよ。でも5000兆円の話をしたら、お義兄さんもそんな気持ちすぐに吹っ飛ぶって。この黒いATMを見せて5000兆円が嘘じゃないってことを分かってもらって、『アドバイスしてくれたら、お礼に1兆円あげる』って言えば、お義兄さんも真剣に取り組んでくれるわ絶対」


 美知子の言葉に、和夫が大声でぼやく。

「えー!やだよ何であんな奴に1兆円もやらなきゃいけないんだよ!」


 その文句を、美知子はピシャリとはねつけた。

「1兆円くらい別にいいじゃない!お義兄さんに1兆あげてもまだ4999兆円もあるのよ!どうせ使い切れないんだから、さっさと配っちゃえばいいのよこんな金。そんなケチケチして、結局使い切れなかったらどうするつもり?」


 う……と和夫が返す言葉に詰まったのを見て、すかさず美知子が畳みかける。

「お義兄さんだって、1兆円くれるって言ったら絶対目の色変えてあなたを大事にするわよ。だって、もしあなたをバカにして怒らせたら、1兆円もらえないんだもん」

「……」

「どんなに良い大学出て大手の銀行勤めてても、お兄さん1兆円なんて持ってないでしょ?でもあなたは持ってる。それをもらえるかもらえないか、って状況になったら人間なんて現金なもんよ。あのシュッとした真面目なお義兄さんが、きっと掌を返したみたいにあなたにペコペコするようになるわ」

「……」


 付き合いが長いだけあって、美知子は和夫の心を動かすポイントをよく分かっている。今までずっと偉そうに自分を見下してきたあの秀夫が、5000兆円を持つ俺に頭を下げてペコペコするなんて――その光景を想像した和夫は、秀夫に相談してやってもいいかなという気持ちになってきた。でも秀夫に1兆円もくれてやるのは癪なので、やるのは5000億で十分だな、なんてことを思った。


 翌日、心臓をドキドキさせながら和夫は兄の秀夫に電話をかけた。昼に3回ほどかけたが秀夫は電話に出ず、夜の9時を回ってかけた時に初めて出た。


「どうした。何の用だいきなり」

 電話口に出た秀夫は、明らかに機嫌が悪そうだった。二人とも関東圏に住んでいて住所はそんなに遠くはないのに、もう何年も全く連絡を取り合っていない。そんな人間から突然一日に4回も携帯に着信があれば、何か厄介な問題が持ち込まれるに違いないと秀夫が警戒するのも無理はなかった。


「兄貴ひさしぶり。元気にしてた?ちょっとさ、折り入って相談があるんだけど、近いうちにどこかで会えない?」


 精一杯の愛想を作って和夫がそう言うと、秀夫はその一言だけであらゆるものを察したらしい。もともと不機嫌そうだった声がより一層低く、警戒心まるだしのものになった。

 それはそうだろう。音信不通だった出来の悪い弟から電話で「折り入って相談があるからどこかで会えないか」なんて言われたら、十中八九、借金の依頼だと思うだろう。まさか自分に5000億円をくれる話だなんて思うわけがない。


 そこから長らく、和夫と秀夫の押し問答が続いた。和夫が携帯で話す横で、美知子がハラハラした表情をしながら和夫の顔をのぞき込んでいる。ここで秀夫が会ってくれなかったら、十年で5000兆円を使いきるための唯一の希望が断たれてしまう。


 結局和夫は「これは借金のお願いではなく、むしろ秀夫にとっても良い話だ。かといって悪徳商法とか詐欺とかの勧誘の類でも絶対にない。ただ、電話では絶対にできない話なので、とにかく会ってくれ」と哀願するような口調で頼み込んで、なんとか会う約束を取り付けた。電話を切った後、美知子は「よくやったわ!」と和夫に抱きつき、和夫は「あんにゃろう、今に見てろ……」と疲れきった顔でボソッと呟いた。


 三人が会ったのは翌々週の土曜日の午後だった。取引先とのゴルフだの子供の学校行事だの、週末もあれこれ用事が立て込んでいてそこしか予定が空いていないのだそうだ。数年ぶりに会った優秀な兄は、髪の毛を一分の隙も無くワックスで固め、小ぎれいなシャツを着て銀縁の細い眼鏡をかけ、やり手の銀行マンという雰囲気を全身から漂わせていた。


 他人に聞かれずに話をするために、和夫はランチタイムから営業している個室付きの居酒屋に秀夫を案内した。通された席を見た秀夫は開口一番「別に飯は食わないからな。30分で帰るぞ俺」とぶっきらぼうに言った。

 和夫はその言葉を無視して黙って兄を席に着かせ、強引に人数分の生ビールと数品のつまみを注文した。注文が全部揃い、店員がもう来ないことを確認した上で、和夫はおもむろに神様からもらった5000兆円の話を始めた。


 和夫がなにげなく「5000兆円が欲しい」とぼやいたこと。

 そしたら天から「ならば5000兆円をくれてやろう」という神様の声がしたこと。

 すると5000兆円の入った黒いATMが家に現れたこと。

 十年以内にこの5000兆円を使い切らないと元の境遇に戻ってしまうこと。

 でも、自分たちでは使い道がよく分からないので、秀夫に相談したこと。

 5000兆円の使い道を解決してくれたら、それなりのお礼はすること。


 和夫が全部を語り終えるや否や、秀夫は「馬鹿か」と冷たく呟いて席を立とうとした。和夫と美知子は秀夫の腕を掴んでそれを全力で引き留めた。俺は帰る、邪魔をするな、と抵抗する秀夫を力ずくで押し留めながら、和夫は片手を自分のカバンに伸ばして必死で中をまさぐり、百万円の札束を取り出して兄に見せた。


「ホラ!兄貴、見ろよこの札束!嘘じゃないんだよこの話は!これだけじゃないんだぞ、こっちにもある!」


 すかさず美知子が、持参してきたキャスター付きの旅行カバンのファスナーを開いて中を見せた。そこにはぎっしりと隙間なく札束が詰められていた。


「嘘だと思うのなら、ここに持ってきたこの金全部、手付金として今すぐ兄貴が持って帰ってくれていい。どうせ使い切れなくて困ってる金なんだ。この程度の金を兄貴にくれてやったところで、全然痛くもかゆくもない。

 偽札だと思うのなら、兄貴の銀行で調べてもらってもいいぜ。でも、少なくとも俺たちは今まで何度か銀行振り込みをやってきたが、銀行から振り込みを断られたことは一度もない」


 旅行カバンに隙間なく詰められた札束は、軽く一億円以上にはなるだろうか。薄給の弟がとても用意できるような額ではない。最初に少しだけ金をちらつかせて、後で大金を巻き上げる詐欺の手口としては、ありえないほどの金額だ。帰ろうとしていた秀夫の足が思わず止まった。


「なあ兄貴、とにかく俺の家に来てくれよ。いま説明したATMの現物を見せてやるから。現物を見て、それでも俺のことが信用できないというなら仕方ない、俺も諦める。現物を見もしないで帰っちゃうのだけは、頼むからやめてくれ!」


 秀夫は黙りこくったまま、じっと身動きせず美知子が開いた旅行カバンの中の札束を凝視していた。神様が5000兆円をくれたなどと、子供じみた世迷い事を言い始めた時にはバカバカしさに怒りを覚えたが、実際にカバン一杯の札束を見せつけられると、そのATMとやらを見てから判断しても遅くはないと気が変わった。

「ふん。じゃあ、とりあえずそのATM見てから考えてやる」


 自宅の古い安アパートに兄を案内した和夫は、さっそく黒いATMの前に秀夫を立たせ、液晶の操作パネルをタッチして画面を起動させた。

「ホラ、見てみろよ兄貴。ここに残高出てるだろ?」


 秀夫はまず、この黒いATMの全面を丹念に見まわして機種を確認した。どこにでもありそうなデザインだが、自分の会社が使っている機種ではないし、他行でも見たことのないタイプだ。普通のATMと最も違うのは、キャッシュカードを入れる穴が開いていないのと、液晶タッチパネルの操作画面に「残高照会」のボタンが無く、液晶画面上にいきなり残高の表示欄があるところだ。その欄には


4,999,999,839,699,120円


 の文字があった。今まで何に使ったのか?と聞いたら、車を買ったり散々贅沢もしたけど、この二か月で二人で4000万円も使い切れていないという。それで今日、自分に見せるために札束を下ろせるだけ下ろし、このキャスター付きの旅行カバン一杯に詰めてみたら中に1億2000万円が入ったということだそうだ。


「ちゃんとここから金が引き出せるって事も見せてやるよ。ホラ」

 和夫はそう言うと、「お引き出し」のボタンを押して100万円と入力する。するとATMの現金取り出し口に100万円の札束がポンと吐き出された。


「確かに、俺が動かそうとしてもウンともスンとも言わないな」

 その後に秀夫がATMの液晶画面をタッチしてみたが、液晶画面は真っ暗なまま全く動かない。どういう仕組みなのかは全く分からないが、とにかく和夫と美知子が触った時にしかこの機会は反応しないらしい。


 一連の確認を終えると、ふーっ、と秀夫は大きく息を吐いて自分の心を整えた。どうやらこの荒唐無稽な弟の話も、嘘ではないようだ。

 では、これが嘘ではないとして、この5000兆円をどうすれば十年で使い切れるのだろうか。秀夫は、静かに口を開いた。


「状況は分かった。お前が5000兆円を手に入れたというのも、嘘じゃないってことは理解した。その上でお前に言うが、もしお前が今後、十年間でこの5000兆円を全部使い切ったとしたら、どうなると思う?」

「どうなるって……?どういう意味だ?」


 秀夫は、何も分かってないなという風にため息をつくと、暗い声で言った。


「きっと世界中で血みどろの大戦争が起こる。で、その元凶がお前だとバレた瞬間、お前は世界中を敵に回し、間違いなく殺されるだろう」

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