第6話 5000兆円を投資してみた
「ねえ。どうするのよ」
「知らねえよ」
「ねえ、どうするのって聞いてるの。答えて」
「だから知らねえって言ってるだろ」
美知子と和夫は、さっきから険悪な雰囲気で不毛な会話を続けていた。せっかく都心の高級マンションのモデルルームまで見学に行ったのに、和夫がいきなり営業マンを怒鳴りつけたせいで、もうあのマンションは絶対に売ってもらえないだろう。漠然と憧れていたハイソな都心生活の夢をぶち壊され、美知子の機嫌は最悪だ。
「あんなケンカしちゃったら、もうあのマンション買えないじゃない」
「知らねえよ。どうせ買わねえよ、あんなクソマンション」
「じゃあどうやって5000兆円使うのよ。どんなに贅沢してもこんな金額使い切れないから、何億もする家をドーンと買って一気に減らさなきゃダメだよね、って話だったじゃない」
「分かってるよそんなこと」
「だいたいさぁ、せっかく5000兆円も持ってるのに、なんで私たち未だにこんな2LDKの汚い賃貸アパートに住んでるの?とにかく、もうどこでもいいから、とっとと出ましょうよこんなとこ」
「でも、どうすれば家買えるのかわかんねえんだよ。5000兆円あっても、無職だとどうせ不動産屋からまたゴチャゴチャ言われるんだろ?」
そして二人はまた延々と、マンションを買う買わないの押し問答を繰り返した。黒いATMにはまだ残高が4,999,999,959,699,120円もあるというのに、二人はまだマンションの一つも買えていない。
しばらく口論を続けて、互いにもう言い争う材料も無くなったところで、疲れきった表情の美知子がため息と共に言った。
「ねえ……。私ちょっと心配になってきたんだけどさ。こんな調子で私たち、株とか土地とかちゃんと買えるの?」
「へ?どういう意味?」
全く危機意識のない和夫の様子を見て、苛立たしげに美知子が言った。
「今回不動産屋さんに行って、現金で3億でも4億でも払えるって私たちが言っても、怪しい人だと思われて結局マンション売ってくれなかったじゃない。
同じような感じで、ひょっとして株とか土地とかも、私たちには売ってもらえないんじゃないの?」
「そんなことないでしょ。だって今時、客の顔も見ないネットの株取引とかもあるんだぜ。いざとなったらそういうとこにお願いすりゃ、多少身元が怪しくても、さすがに株を売らないってことは無いでしょ。だいたい、こっちは5000兆円も持ってる最高の客なのに、なんで断られなきゃいけないんだよ」
「本当にそれで大丈夫? 5000兆円も持ってるのに、私たち今さっきマンションを買うの断られたばかりじゃない」
「う……」
美知子の鋭い指摘に黙ってしまった和夫に、美知子がさらに冷たく問いかける。
「そもそもあなた、株ってどうやって買うか知ってる?」
「え?……そりゃ、株屋さんで買うんでしょ」
「その株屋さんってどこにあるのよ。買う時に印鑑は必要なの?住民票は必要?」
「……さあ?」
しどろもどろになった和夫に、美知子が冷たく毒づいた。
「そんなんで、よくボーっとしてられるわね。ちょっとは真剣に将来のこと考えてよ。私たち、十年後までに5000兆円を全部使わないといけないのよ?」
「でもさ、あと十年もあるじゃん。そこは大丈夫でしょ」
すると美知子は、何もわかってないといった諦めの表情を浮かべながら、深刻な様子で和夫に言った。
「……ねえ。今まで私たちさ、十年で5000兆円を使い切れなくても、最後に株とか土地とかを買って全部財産に変えちゃえば大丈夫だなんて軽く考えてたけどさ。それ本当に買えるのかどうか、今のうちからちゃんと確かめといた方がよくない?」
「あと十年もあるのに、今から?」
「十年なんてあっという間よ。だって私たち、たかがマンション買うくらいでこんな調子でしょ?ねえ。本当に買えるかどうか確かめるのなら、早くやっておいた方が良くない?
十年経ったところでやっぱり5000兆円使いきれなくて、それでまたあのみじめな借金生活に戻るなんて、絶対に嫌だからね私!」
それまで何も考えていなかった和夫は、美知子の言葉を聞いてようやく危機感を抱いた。それで二人は株の買い方についてスマホで検索して、翌日、自宅から最も近くにある証券会社の相談窓口に行くことにした。
「いらっしゃいませ」
「あの、株を買いたいんですが」
「かしこまりました。買う株の銘柄はもうお決まりですか?」
「いや、特には決めてないです」
「投資の目的は、余裕資産のご活用でしょうか」
「……まぁ、そんなところです」
おどおどと自信なさげな和夫の態度から、証券会社の窓口担当は即座に彼らが株取引のど素人であることを機敏に察したらしい。それで、まずは口座開設の仕方から、スマホで簡単にできる株取引の方法、どの会社の株を買うべきかわからない初心者ならば、プロが運用してくれる投資信託がおすすめであることなど、懇切丁寧に説明してくれた。
和夫は、マンションのモデルルームで会った営業マンの冷たい視線に懲りていた。だから、証券会社の受付で対応してくれた女性の物腰が柔らかく、説明が親切なことにすっかり警戒を解き、今度は大丈夫だ、ちゃんと5000兆円分の株を買えるだろうと確信した。
自分たちが5000兆円もの財産を持つ大富豪だと知ったら、この感じの良い受付の女性は、きっと驚いてすぐに自分たちを豪華なソファーのある別室に通してくれるだろう。それで支店長だか頭取だか、とにかく背広を着た年配の偉い人が出てきて、ぜひわが社と取引をしてください、などと言ってと深々と頭を下げるのに違いない。
そんなことを和夫が考えていると、受付の女性が予算を尋ねてきた。
「ちなみにお客様……、今回の資産運用ですが、お持ちの資金はおいくらほどをお考えでしょうか?」
和夫は待ってましたとばかりに得意げに答えた。
「5000兆円なんだけど、どう?」
受付の女性はニコリともせず事務的に答えた。
「5000万円でございますね。それは失礼ですが、ご親族様のご遺産ですとか、そのようなものでしょうか?」
受付の女性が勘違いするのも無理はないと思い、和夫は「いや5000万円じゃなくて5000兆円なんだけど」と笑って訂正した。しかし女性はサッと表情を曇らせると、困ったように眉を歪めながら申し訳なさそうに答えた。先ほどまでの柔和な態度から、手のひらを返したように不審者を見るような目つきに一変した。
「あの……そのような莫大な額でございますと、弊社ではとても扱えるようなものではございませんので……。大変恐縮ですが他を当たって頂ければと……」
その態度の急変を見て、こいつもあの不動産屋と同じかよ、と和夫は腹が立ってきた。つい声が荒くなってしまう。
「なんでだよ。5000兆円だぞ? こんなにたくさん株買ってくれる客なんて、他に絶対いないだろ? どうしてそんな門前払いするんだよ」
「いえ……確かに弊社とお取引をご希望下さるのは大変ありがたいことではございますが、5000兆円などという額は、とても弊社では引き受けかねるものでございます。誠に申し訳ございません……」
「お前さぁ、どうせ、俺たちの様子見て、こいつらがそんな大金持ってるはずがないと疑ってんだろ。さっきもこれは親の遺産なのかとか、ふざけたこと聞きやがって。何だったらお前、5000兆円をここに持ってきて全部積んでやってもいいんだぞ?」
そう食ってかかる和夫を、慌てて美知子が「やめなよ!」と遮って止めさせた。ここでまた揉められたら先日のモデルルームの全くの二の舞だ。しかも今回は、十年後までに5000兆円を使い切るという、彼らの計画の根幹にかかわる話なのだ。
もし証券会社から株を買うという方法が使えないとなると、5000兆円を使い切るためには別のものを買わなければならない。それは国債?土地?金?プラチナ?
だが、もともと金融商品など全く縁のない人生を送ってきた彼らに、そんなアイデアなどあるわけもなかった。
そうなると、この目の前にいる受付の女性に土下座をしてでも話を続けて、何とかして5000兆円を全部株券に換えてもらわねばならない。美知子は必死に、受付女性の疑いを解こうと話を続けた。
「あー、すみませんねウチの人が本当に……もうホントこの人はいつもこうで……。
えーと、さっきの5000兆円の話はちょっと一旦忘れてくださいね。いや、決してお金が無いという訳じゃないんですよ。そういう訳じゃないんですけど……。
じゃあね、逆に言うとなんですけど、お宅から株を買わせて頂こうとすると一体いくらまでOKなんですかね? 10億?……1億?……それとも個人だとやっぱり1000万円くらいが上限なのかしら?」
しかし受付の女性はもう、二人のことを妄想に憑りつかれた不審者だと完全に認定して、完全にシャットアウトする方向で腹を決めたらしい。
「お客様、大変申し訳ございません。そのようなお取引でございましたら、当社ではお引き受けしかねますので、他を当たって頂けませんでしょうか……」
「え?……ちょっと待ってよ。5000兆円の話は忘れてって言ったじゃない。金額が大きすぎるって言うなら、1000万円でいいから私たちは株を買いたいのよ。それくらいの金額なら買う人他にも普通にいるでしょ?」
「あの……大変申し訳ございません……。他を当たって頂ければ……」
「ちょっと!1000万がダメなら500万でもいいのよ。とにかく株を買わせてよ。……わかった。じゃあ100万!100万でいいから、ねえお願い!株を買わなきゃダメなの私たち!少しずつでも買ってかなきゃ!だから!!ねえお願い!!」
気が付くと、カウンターに座っていた二人の背後に、紺色の制服を着た警備員が二名さりげなく移動して、厳めしい顔をして無言で立っている。社員の間だけに通用する秘密のサインがあって、不審な客が来るとそれを使って警備員に知らせる仕組みにでもなっているのだろうか。
警備員が発する無言の威圧感に気圧された和夫が、おびえた顔で美知子の脇腹をつつく。
「なあ……やべえよ……。もう諦めようぜ……これ絶対やべえって……」
「でも!!だって!!株が買えなかったらどうするのよ!!全部それを当てにして今までのんびり構えてたわけでしょ?それなのによく平然としてられるわね!ホントあなたっていつもそう!」
「分かった……分かったよ。すまなかったよ美知子……。でもとりあえずここは帰ろう?また別のところ行こうぜ?もう無理だよ。な?」
「そんなこと言って!!じゃあどうするのよこの後!?」
「知らねえよ……」
「ねえ、どうするのって聞いてるの!!答えて!!」
「だから知らねえって言ってるだろ……」
我を失ってがなり立てる美知子の肩を叩いてなだめつつ、和夫は受付の女性と二人の警備員と、あっけに取られてジロジロと見ている周囲の人たちにペコペコと頭を下げながら証券会社を後にした。
「ねえホントどうするの!?」
「知らねえよ……」
この不毛な問答が、家に帰るまでずっと続いた。
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