七十九、帰路について
アラクネーは私の言葉を聞いたあと、一言も言葉を発することなく玉座の間をあとにし、洞窟のさらに奥へと消えていった。
アラクネーはこれ以上抗うことはしないだろう。これから自分が受け入れざるを得ない運命に粛々と従うに違いない。
私はエルネストとアンに向き直った。
「二人とも、私を守ってくれて、そして信じてくれてありがとう。……さあ、帰りましょう」
私とアラクネーとのやり取りを静かに見守っていた二人は、私の言葉に大きく頷いて洞窟を出るまで寄り添ってくれた。その間、エルネストはずっと私の手を握っていた。
「もうどこにも行かせない。君を守り切れなかったことが悔しいよ」
そう言ってつらそうに表情を歪めていたけれど、敵の罠にまんまと嵌った私が悪いのだから気にしないでほしい。
それよりもむしろ、二人を危険に晒してしまったことが心苦しい。アラクネーと私の狭間でさぞかし苦悶したことだろう。
大きく頭を振ってエルネストに向かって微笑んだ。
「そんなことないわ。守ってくれたじゃない。最後にはちゃんと信じてくれた。エルネストとアンがいなかったら、私はどうなっていたか……。感謝してもしきれないくらいよ。だからもうそんな顔、しないで」
「まったくじゃ、エル蔵。男がいつまでも過ぎたことをちまちまと悩むもんじゃないぞ。まだまだ先は長いんじゃ」
「……ああ、そうだな」
私たちは竜化したアンの背に乗って森の我が家へと家路を急いだ。すでに日が沈みかけているけれど、密林に到着してから思ったよりも時間は経っていないようだった。
§
すっかり夜も更けてからようやく家に辿り着いた。到着したあとに出迎えてくれたのはやたらと機嫌のよさそうなハルだった。
「クロエさまとお供の方々、おかえりなさぁい!」
「ただいま。……ハル、どうしたの? やけに機嫌がいいじゃない」
ハルの極上の笑顔に戸惑ってそう尋ねると、ハルはエヘンと胸を反らして答えた。
「寂しかったんですよぉ。皆が帰ってきたから嬉しくて!」
「そ、そうだったの。寂しい思いをさせてごめんね」
「……というのは半分冗談でぇ」
冗談なのね……。幻獣は真面目な子が多いのに、そんな中でハルはかなり特殊だと思う。
「実はこれ! これをクロエさまに差し上げます!」
そう言ってハルが懐から取り出したのは一辺十センチほどの小さなガラスの箱だった。そのガラスの箱の中にはほんのり淡い水色の光を発する半透明の石のようなものが入っていた。表面はつるんとしているけれど、歪に丸い美しい小さな石だ。
この世界のどの宝石にも似ていない、幻想的な石。私はその小箱をそっと受け取って中を覗き込みながら尋ねた。
「……これは?」
「レーテー川の石ですよ!」
得意げに答えたハルの言葉に驚いてしまった。レーテー川の石――追刻の糸車の素材の一つだ。
レーテー川は幻海に流れる川の一つだ。幻海の川底に流れるという石を、人間である私がどう手に入れようかと考えていたところだった。人間が幻界に渡ったという記録は一度も目にしたことがなかったからだ。
「そんな、どうやって……」
「おっとぉ、気を付けてくださいよ。その透明の箱を割ったらものの十分ほどで消えてしまいますからね。そのガラスのような箱は特殊な水晶であつらえてて、幻界の空間をそのまま閉じ込めて持ってきてますんで」
「そんなことができるのね……。凄いわ、ハル……」
私が感心すると、ハルは照れくさそうにぽりぽりと頬を掻きながら笑って答える。
「大したことじゃあ、あるんですけどね。エヘヘ。向こうで商いをやってるサイクロプスの爺が取り扱ってる商品で、アタシの友だちが運び屋のバイトしてるんでポチってちょちょいって持ってきてもらったんですよ」
「商いって、幻界にもそういう商売とか流通みたいなものがあるの?」
「ええ、まあ。爺が最近流行の幻界通販ってのを始めたところ、かなり好評らしくって、順調に売り上げを伸ばしてるそうですよ」
「そ、そうなんだ。それはよかったわね」
「ええ、お陰さまで! まあそれはそうと、さっきも言いましたけど、言っても異界の商品ですから、この世界ではかなり不安定な物質なんですよ、この石は。ってことで開けたらすぐに使用してしまわないと消えちゃうんで、そこのところ気を付けてくださいね」
「分かったわ。ありがとう、ハル!」
どういたしまして、と言いながら、ハルが嬉しそうに破顔した。
本当に助かった。ハルは簡単に言っているけれど、幻界のものをこの世界に持ち込む技術にいたっては想像もつかない。何かしらの術式でもって保存されているのだろう。それにしても幻界の知識はなかなかに侮れない。
アラクネーの糸に加えて、レーテー川の石も手に入れた。あと入手困難なもので残っているのは、ロートスの歯車にノルンの涙のみになった。その他の素材はこの世界でも準備できるこまごまとしたものだ。
本当に実現できるのか、雲を掴むようだった「追刻の糸車」の完成に向けて、少しずつだけれど光明が差し始めている。
ハルとハルの贈り物に心からの感謝をしつつ、残りの素材の入手経路について思案を始めた。
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