第五章 アラクネーの糸
七十、素材集めに向けて
エルネストの生活用品をあらかた配置し終わったところで、私は部屋を見渡してひと息吐いた。エルネストが設置したベッドの位置を調整しながら呟く。
「こんなもんかな……」
「やっと終わったわね。お疲れさま。部屋が狭くて不便かもしれないけれど、我慢してね」
「いや、テント暮らしに比べたら天国だよ。……だが、本当によかったのか?」
「え、何が?」
「いや、未婚の令嬢の家に俺のような男が間借りするなんて……。部屋を貸してもらうのになんだけど、君はもう少し男というものを警戒したほうがいい」
「エルネストのことは信頼しているもの。絶対に大丈夫だと思ったから誘ったのよ」
「そ、そうか……。なんかそこまで断言されると、それはそれでなんか、こう、ぐさりと……一応俺も男だし……」
「え、何か言った?」
「いや、何も……。部屋を貸してもらえて助かったよ。ありがとう」
礼を言いながらも、エルネストは複雑な表情を浮かべている。褒めたつもりだったのだけれど、気に障ることでも言ってしまったのだろうか。男性の気持ちはよく分からない。
けれど、これからは一緒に暮らすのだから、気持ちよく暮らしていけるように、言動には配慮しなければいけないと心構えを新たにした。
部屋が片付いたので、私はエルネストの部屋を出た。しばらく停止していたアンの腕輪の解呪を進めようと、リビングに足を運んでアンに声をかける。
「アン、今、大丈夫?」
「ん、何じゃ?」
「腕輪の解呪を再開したいのだけれど」
私がそう言うと、アンが何かを考え込むように腕を組んで俯いた。
「クロエ、腕輪の解呪はしばらく中止じゃ」
「え、どうして?」
「お主はここのところ、一日一個の呪術式の解呪で、精神的にも肉体的にも限界が来とるじゃろう?」
「ええ、そうね」
解呪が進むほどに複雑を極めていた呪術式は、すでに一日一個の解呪で休憩を要するほどに変わっていた。
残り五十個余りの術式は複雑に絡み合い、解呪すべき術式を捜し出すだけで相当な時間を要するほどだった。順番を間違えればアンの死を招いてしまう。見つけ出しても術式を破壊するのも慎重を要する緻密な作業が必要となっていた。
「敵の狙いがお主だと分かった以上、できる限り隙を作るべきではないと思う。お主が疲労しきっているところを襲われては堪らんからな。当然儂も応戦するが、全てのものを守り切れるとは限らん」
「……なるほど。でも解呪を進めないとアンが不便じゃない?」
「それじゃがな、儂の力はすでに五割がた解放されておる。悪魔や人間を相手にするのであれば、現状の力でも十分すぎるくらいじゃ」
「そうなの?」
「うむ。それに儂の力が全て解放されてしもうたら、くしゃみでこの家を吹き飛ばしかねんしな」
アンがニヤリと笑いながら告げた言葉で思い出す。私が幼いころから信じていた竜王国の伝説……だと思い込んでいたお伽噺。アンに正体を打ち明けられたときに、したり顔で話したんだっけ。
「うう、もう忘れてよ……」
「ハハハ。面白いから儂の国にも伝えることにする」
「アンったら……」
竜のお伽噺を呟いたことを全力で後悔していたところで、ハルが声をかけてくる。
「夕食できましたよぉ。今日はビッグホーンディアのステーキ、マスタードソース添えとポテトサラダです」
「う、美味そうじゃな……ジュル」
「……想像しただけでお腹が鳴りそう。エルネストに声をかけてくるわ」
この四人での初めての夕食――私たちは食卓を囲みながら、ビッグホーンディアのステーキに舌鼓を打った。
ビッグホーンディアは帝国に行く前にエルネストが我が家の入口に山積みしていったものだ。折角の豪華な食材が勿体なくて、出発前に時間停止の効果がある亜空間収納に突っ込んでおいたのだ。
エルネストが一口食べて目を大きく見開く。
「これは……美味いな! ハル殿が作ったのか?」
「フフン、恐れ入りましたか? ハーブで肉の臭みを消して、ミディアム加減で焼き上げてみました」
「うん、美味い。マスタードソースの酸味がまた合う。うーん、帝都でもこれほど美味い料理にはなかなかありつけない」
「そうでしょう、そうでしょう」
得意満面で頷くハルの笑顔を見て、少し安心した。ハルとエルネストがギスギスするかもしれないと危惧していたけれど、どうやら杞憂だったようで安心した。ハルは根に持つタイプではないらしい。
「エルネスト、『追刻の糸車』の素材集め、本当に協力してもらってもいいの?」
森に到着してすぐに、エルネストには私の目的を打ち明けていた。そのときにエルネストは快く協力を申し出てくれたのだ。
「ああ、喜んで協力するよ。君の傍を離れないといっただろう? マルスの命令がなくても、俺が君の力になりたいんだよ」
「エルネスト……。ありがとう」
「俺がやりたいことをやるだけだから礼は要らないよ。それでまずは『アラクネーの糸』を手に入れるんだっけ?」
「ええ」
以前アンに聞いた情報と、帝国で参照した地図で、目的地の正確な場所も判明した。目的地はトロワ密林。この森から砂漠の国を一つ越えた先の遥か南に位置している。
そのトロワ密林のどこかに存在する洞窟に住む、アラクネーという魔物から分泌される糸を手に入れなければならない。
アラクネー。――蜘蛛に似た魔物だということしか分からない。一体どのくらいの大きさで、どのくらいの知性や魔力があるのかも。不安もあるけれど、同時に未知の魔物に対する好奇心が湧き上がる。
もしアラクネーが快く糸を分けてくれるのであれば倒さずに済むのだけれど、きっとそう上手くはいかないだろう。これまでに魔物と意思の疎通がうまくいったことは一度もない。
アシッドエイプのボスも人語を理解して話すことはできたけれど、人間的な会話を交わすことはできなかった。
「トロワ密林は魔物も多いが、獣や鳥や虫がかなり多い。毒を持つものもいるから、装備はしっかりしていけよ」
「虫……」
「虫」と聞いて背筋に悪寒が走った。私は虫が苦手なのだ。密林に潜む虫を想像して鳥肌を立てているところで、ハルが突然片手を挙げて発言する。
「アタシは今回は留守番します。この家を留守に見せないほうがいいと思うんで」
「ん、どういうこと?」
「全員一緒に動くよりは、標的を分散させたほうが敵を攪乱できるかと思いましてね。この家にクロエさまがいると思わせておけば、敵がトロワ密林まで追ってくることもないでしょう」
「でもそれって、私が留守のときにハルが襲撃に会う危険性があるんじゃ……」
「この家に目立った動きがなければ、すぐに襲ってくることはないと思うんですよねぇ。まあ、あくまで予想なんで、もしものときは前回の反省を生かしてヤバそうなら早めにトンズラしますよ。だからどうかご心配なく」
「ハル……」
ハルを一人残していくのは不安だ。大丈夫だろうか。
「クロエ、儂もハルの意見に賛成じゃ。ハルなら大丈夫じゃよ。密林に行く戦力は十分じゃし、ここはハルに任せよう」
「……分かったわ。ハル、少しでも異常を感じたら早めに逃げてね」
「あいあいさー!」
明るく敬礼するハルに苦笑しつつ、まだ見ぬトロワ密林に思いを馳せた。
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