七十一、アラクネーの巣
エルネストと二人でアンの背中に乗せてもらって、南へ向かって黄泉の森から飛び立った。森の上空は薄曇りだったけれど、森を超えた辺りで青空が見えてきた。
アンに振り落とされないように風よけの結界を張っていても、気温の上昇を感じる。多少緩和されているとは思うけれど。
トロワ密林とアラクネーの巣を探索するに当たって、私は厚手の生地のベージュの長袖ジャケットに、同じ生地のトラウザと革のブーツを身に着けた。かなりの重装備だ。
密林には魔物だけでなく、動物や虫が多いとアンが言っていた。虫が苦手な私は、できることなら四六時中結界を張っていたいところだったけれど、そういうわけにはいかなかった。目的のものを探すためには五感を働かせる必要があるだろうと考えたからだ。結界を使えば虫に刺されることはないだろうけれど、外からの感覚も大きく遮断してしまうことになる。
森を超えてしばらく飛んだあとに眼下に広がったのは、見渡す限りの広大な砂漠だった。遥か遠くに街も見える。砂漠の街……いつか訪れてみたいものだ。
さらに南に飛び続けたあとに見えてきたのは、岩だらけの荒れ地と、その向こうに広がる密林地帯だった。荒れ地には街らしきものは見当たらない。
出発してから二時間ほど経ったころ、アンは密林の手前の草地に着陸した。エルネストと一緒に背中から降りて、アンに労いの言葉をかける。
「アン、乗せてくれてありがとう。大丈夫? 疲れてない?」
竜から人に姿を変化させながら、アンが答える。
「このくらいで疲れたりはせんよ。ここまでひとっ飛びだったじゃろう?」
確かに幻獣ペガサスの速度では、一昼夜飛び続けなければならなかっただろう。陸路であれば砂漠を大きく避けなければならず、辿り着くまでに半月以上はかかったかもしれない。なにせ一つの国を跨ぐほどの距離だ。竜って本当に凄い。
「ええ、本当にね。こんなに早くトロワ密林に到着できるとは思わなかったわ。竜って凄いのね……」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
アンが得意げな笑みを浮かべながら頷く。
目の前に広がる、上空から見てもひと目で密林地帯だと断言できるその森は、明らかに普通の森とは様子が違っていた。
黄泉の森に生えている木々の背丈の三倍はあるだろう見たこともない樹木がそびえ立っている。その下をシダのような植物が絨毯のように地面を覆って群生している。数種類の蔦のような植物が、背の高い木々に絡みついている。これまで目にしたことのない青々と茂る珍しい植物に思わず目を奪われる。
けれど、見慣れない光景に興奮すると同時に、どうしても拭いきれない不快感に襲われていた。
「それにしても蒸し暑いわ……」
「大丈夫か?」
「ええ、ありがとう。心配かけてごめんなさい」
エルネストが気遣わしげに私の顔を覗き込んだ。自分だけが暑いわけじゃないのに、思わず呟いていしまった。エルネストの顔を見ると、全く不快感を感じている様子がない。忍耐力が鍛えられているのだろうか。感心してしまう。
アンの先導で密林を進みながら、想像以上に過酷な環境に閉口してしまう。黄泉の森のひんやりとした湿気とは違う。気温の高さは勿論だけれど、毛穴が塞がれているんじゃないかと感じるほどの湿気が肌に纏わりついて、不快感に拍車をかける。
ジュクジュクとしたぬかるんだ地面を踏みしめながら、アンの魔力探知を頼りにアラクネーの巣を目指した。
それにしても隣を歩くエルネストの表情は、相変わらず涼しげだ。探索用にいつもよりも軽い革製の鎧を身に着けているものの、エルネストの装備はどう考えても私よりも通気性が悪くて暑そうなのに。
「それにしてもエルネストは忍耐強いのね。こんな環境なのに、平然としているんだもの。凄いわ」
「あ、いや、うん。……あー、ごめん。実は薄っすらと肌の表面を冷気で包んでた」
「……何それズルい」
エルネストはこっそりと魔法で自分の体の熱を下げていたようだ。なんて羨ましい。
「いや、そうしないととてもじゃないけど我慢できなかったんだ。俺は暑いのが苦手なんだよ……」
「そうだったの……。こんな所までつきあわせてごめんね」
「いや、俺がついていくと言ったんだ。クロエが謝ることじゃないよ」
「お主ら人間は不便じゃのう。儂ら竜は暑いのも寒いのも平気じゃから、人間がどれだけ不快かよく分からん。むしろこの湿気が気持ちいいのう」
アンはいつもと同じ格好だ。肌も露出したままで大丈夫なのかと心配してしまった。けれどアンによると、竜が人化したあとの皮膚は、弾力があるものの竜のときと同じくらい頑強らしい。
快適に過ごす二人のことを羨みつつ、不快感からなるべく意識を逸らしながら目的地へと向かった。侵入して一時間ほど歩いたあと、木々の隙間から苔生した岩壁が見えてきた。岩壁の上部を仰ぎ見ると、切り立った崖になっているようだ。
岩壁に到着したあとに見渡すと、壁の一部にぽっかりと大きな穴が開いていた。深そうな洞穴だ。洞穴に近付いてみると、穴の中からひんやりとした空気が流れてきている。奥のほうは完全な暗闇に包まれているようだ。
「ここがアラクネーの棲家のはずじゃ。この奥に大きな魔力を感じる」
「ここが……」
ぽっかりと空いた穴は幅と高さが四~五メートルはあろうかというほどの大きさで、いつから開いていたのか予想もつかない。光が届く範囲には苔がびっしりと貼りついていて、ひんやりとはしているけれど外と変わらないくらいにじめっとした空気が流れている。
闇の向こうには何が潜んでいるのか分からない。私は光魔法でフワフワと浮かぶ光の球を出した。これで辺りを照らしながら先へ進むことにする。
「奥のほうは完全な闇じゃな。警戒を怠るなよ」
「ええ。それにしてもなんだか生臭いわね」
「魔物の巣だからな。餌を引き摺りこんでいても不思議じゃない」
「……そうね」
エルネストの予想を聞いて、魔物が引きずり込んだ生き物の残骸を想像してしまった。……想像しなければよかった。
入口から少し進んで外の明かりが届かなくなった辺りで、岩壁の異常に気付く。白っぽい岩だと思っていた表面は薄っすらとフワリとした何かに覆われていた。
「これは……蜘蛛の糸?」
「そのようだな」
「うわ……」
岩壁の表面には白く細い蜘蛛の糸がびっしりと張り巡らされていたのだ。触るとその部分の糸が剥がれる。もっと粘性があるかと思っていたけれど、案外さらりとしている。
「これはアラクネーの糸なのか? 目的の素材はこれじゃ駄目なんだよな?」
「ええ。この糸からは魔力を感じないわ。これはアラクネーではない、別の蜘蛛の糸ね」
「やれやれ、ここはアラクネーだけの棲家じゃないってことか」
「そうかもしれないわね」
私が蜘蛛の糸が絡みついた岩の表面を触っていると、ちくりとした感覚を指先に感じた。
「つっ……」
「おい、大丈夫か?」
「え、ええ。棘のようなものが刺さったみたい。そんなに痛くはないから大丈夫よ」
左の人差し指の先にほんの少しだけ血の球が浮かぶ。私はそれを即座に治癒魔法で治療した。放置してもいいほどの傷だったけれど、何が起こるか分からない。
洞窟は途中で何カ所も枝分かれしていたけれど、アンの先導に迷いはなかった。しばらく歩いたところで、視界が揺れる。
(なんだか足元がふわふわするわ……何これ)
歩く速度を落とした私の異常に気付いて、エルネストが声をかけてくる。
「クロエ、どうした?」
「なんでもないわ。少し疲れたのかしら……」
そう言ってエルネストに笑いかけた次の瞬間、私の右手が意志に関係なくエルネストの頬へと伸ばされていた。
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