六十九、森へ帰ろう
帝国へ戻って王宮の一室で休養を取らせてもらった。婚約披露パーティにも参加した。もうこの国に留まる理由はない。むしろ私が留まれば、私を狙う何者かの謀略にこの国を巻き込んでしまうかもしれない。
ブランの町での出来事は、私の心に大きな楔となって打ち込まれた。
(関係のない人たちを巻き込むわけにはいかない。きっとまた何か仕掛けてくるに決まってるもの……)
悪魔の召喚者は私の命を奪い損ねた。失敗したこともすでに把握しているだろう。このまま引き下がる可能性は限りなく低い。あのような狡猾な魔法陣を繰る者が簡単に目的を諦めるとは思えない。きっといくつもの策を考えていることだろう。
帝国との繋がりを疑われれば、私の居場所に関係なく帝国が狙われる可能性がある。一刻も早くここを離れるべきだ。私はそう考えてマルスラン殿下に謁見を申し出た。
マルスラン殿下が寂しそうに微笑みながら告げる。
「私としては、君にずっといてもらっても構わないんだけどね」
「……お気持ちはありがたいですけれど、そういうわけにも参りません。誰も巻き込みたくないのです。私はなるべく一人でいたほうがいいのです」
「……君は本当に優しいね、クロエ。そして誇り高い。だけど前にも言った通り、君が森に帰るならエルネストを護衛につけるからね」
婚約披露パーティへの同伴が決まったときに、マルスラン殿下に言われていたことだ。けれど、あのときとは状況が違う。あのときはまだ悪魔が現れる前だった。
「マルスラン殿下、大変ありがたいお申し出ですが、あのときとは状況が違います。私は得体のしれない何者かに狙われています。恐らくその者は、恐ろしく狡猾で執念深い人物です。きっと私だけでなく周囲の者も躊躇わずに攻撃してくるでしょう。ですから……」
私はエルネストを巻き込みたくない。もしもエルネストに何かあったら、私は……。
「俺は大丈夫だ、クロエ」
「エルネスト……」
エルネストが真剣な眼差しを真っ直ぐに向けてくる。
「もしマルスが反対しても、俺は君についていく。俺の知らない所で君が危険な目に会うなんて考えたくもない。だからどうか受け入れてほしい」
「でも、私は、貴方を危険な目に会わせたくはないのよ……」
「クロエ……」
エルネストのサファイアブルーの瞳からは、何と言われようが絶対に引かないという強い熱意が感じられる。どうにかして分かってもらいたいのに、どう説得したらいいのだろう。
エルネストに分かってもらうための言葉を探していたところで、マルスラン殿下が咳ばらいをしながら言葉を挟む。
「ン、ンンッ! ……あー、いい雰囲気のところを悪いけど、エルネストにだって覚悟があるんだよ、クロエ。無論、私にもだ。君が優しさから断ろうとするのは予想していたけど、こればかりは聞き入れられない。せめて君を殺そうとしている首謀者をどうにかするまでは、エルネストには絶対についていてもらう」
「殿下……」
「そういうことだ、クロエ。諦めてくれ」
エルネストがニコリと笑いながらマルスラン殿下のあとに言葉を続けた。
「……承知、しました」
「ありがとう、クロエ。無理を言って悪かったね」
「そんな……」
私が承諾すると、マルスラン殿下が嬉しそうに頷いた。悪いのはこっちだ。エルネストという帝国にとっての大きな戦力を、危険を承知で私なんかのために差し出してくれるのだから。申しわけない気持ちでいっぱいになっているところに、エルネストが告げる。
「クロエに負担はかけない。前にテントを張っていた森の草地を拠点にするから、君を煩わせることはない。俺のことは気にせずに普通に過ごせばいい」
「駄目よ、そんなの!」
エルネストが拠点にしていたところは、アシッドエイプの縄張りの一部だった。元々凶悪な数多の魔物が徘徊する森だ。そもそもいつまでかかるか分からないのに、そんな危険な森の中で野営などさせるわけにはいかない。
「森にある私の家は客室がもう一つ余っているから、エルネストにはそこに滞在してもらうわ。野営なんてとんでもない」
私がそう言うと、エルネストが慌てたように反論する。
「それは駄目だ! 未婚の女性の家に滞在するなど、君の外聞に関わる!」
「私の外聞なんてすでに地に落ちてるから大丈夫よ。どん底だから何の心配もないわ。それにエルネストのことは信用しているから。不埒なことなんてしないでしょ」
「勿論だ! だけど、うーん……。……ありがとう。君さえよければ、お言葉に甘えさせてもらうよ。とても助かる」
エルネストは少し悩んだようだけれど、なんとか了承してくれた。私のためにわざわざ森まで来てくれるエルネストを野営させずにすんで安堵した。
うちには余ったベッドなどないから、準備をしてもらわないといけない。私はマルスラン殿下のほうを向いてお願いをする。
「殿下、エルネストの荷物は私が全て預かっていきます。衣類やベッド、全部私の亜空間収納に突っ込んで持っていきますので、客室に収まる範囲でご準備をお願いします」
「分かった。準備させよう」
今、アンとハルは私が戻るのを部屋で待っている。エルネストが一緒に住むことになったと告げたら、なんと言うだろうか。とはいっても、別に二人きりで住むわけではない。アンとハルが一緒だ。特に問題は起こらないだろう。ただ心配なのは……
(喧嘩しないで仲よくしてくれるといいんだけど……)
随分打ち解けてきたとはいえ、第一印象は最悪だったからちょっとだけ心配だ。特にハルは、最初のころはかなりエルネストのことを嫌っていたように感じた。エルネストのほうは、アンとハルの正体についても把握しているし、特に問題はないだろうけれど。
§
部屋に戻ったあとにエルネストのことを説明した私に、アンが答える。
「儂は別に構わんぞ。今さら一人増えたところで不便はあるまい」
「んー、まぁ、アタシもクロエさまがいいなら別にどうでもいいですよぉ。クロエさまの意に沿わない言動は許しませんけどねぇ」
「そ、そう。ありがとう」
意外にもあっさり許容したアンとハルの言葉に、私はほっと胸を撫で下ろした。同居人である二人に何の確認もせずに、エルネストを住まわせると約束してしまっていたから、拒否されたらどうしようと不安だったのだ。
今、エルネストは今は引っ越しの準備をしている最中だ。エルネストの準備ができ次第、一か月以上離れていた黄泉の森へと帰る。だが、森に引き籠って、敵に襲われるのを粛々と待つわけではない。私にはやらなければならないことがある。
――『追刻の糸車』。母が殺されたときの、その場面を確認するために、私はこの禁忌の魔道具の製作に取りかからなければならない。森に帰ったあとには、魔道具の素材を探すために旅を始めるつもりだ。どのくらい時間がかかるか分からない。エルネストにも相談しなければ。
私たちは森へ帰る準備を整えて、マルスラン殿下に挨拶をする。
「マルスラン殿下、私は森へ帰って準備を済ませたら、またすぐに出かけることになります。詳しいお話はできませんが、エルネストの力をお借りすることになると思います」
「ああ、構わないよ。私にとっても彼にとっても、君は心から信頼している大切な友人だ。喜んで手伝わせてほしい。私も本当は一緒に行きたいが、国を離れられない。本当に残念だよ。はぁ、エルネストが羨ましい……」
マルスラン殿下が珍しく感情を露わにした。こんなにしょんぼりと肩を落とした殿下を見るのは、初めてかもしれない。
「殿下、私を思ってくださっているのはちゃんと分かっています。殿下のお気持ちはしっかりと預かっていきます。ですからどうか私の目的が上手くいくように祈っていてください」
「ああ、分かった」
「それと殿下。私と友人たちを快くこの国に迎えてくださって、ありがとうございました。その……殿下が私のことを友人と言ってくださったのが、本当に嬉しかったんです。私にとっても殿下は大切な友人です。もし何かこの国に異常なことが起こったら、すぐに知らせてください。なるべく早く駆けつけますから」
「ありがとう。ぜひそうさせてもらうよ。私も、君の願いが叶うようこの国で祈ってるから。無理はしないでくれよ」
「はい。ありがとうございます……!」
この国に来て、大切な友人ができた。私の願いが叶うよう祈ってくれる、心からの友人だ。私も祈ろう。マルスラン殿下の、帝国の、平穏な日々を。
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