六十八、帰国の朝

「昨夜はお楽しみじゃったようじゃの」

「なっ、何っ、子どもがなんてこと言うんですかぁっ」


 朝起きたあと、アンから開口一番に告げられた言葉に、思わず声が上ずってしまった。別に後ろめたいことなんて何もないのに、喋り方まで変になってしまったじゃないか。朝からなんてことを言うのだろうか、この子は。


「儂はこんななりじゃが、子どもではないんじゃがのう……」

「え、クロエさま、とうとう?」


 ハルまで身を乗り出して、目をきらきらさせながら尋ねてきた。「とうとう」何だというのだ。一体何を想像しているんだか、まったく……。


「アンもハルも何を想像しているのか知らないけど、夜風に当たりながら話していただけよ。エルネストは仲のいい友人なんだから、何もおかしくはないでしょう?」

「友人の距離感かぁ? あれがぁ?」

「えっ、なになに」

「いや、昨夜クロエとエル蔵がな」

「ちょっと待って! もしかして覗いてたの!?」


 慌てて問い詰める私に、アンがニヤリと笑って答える。


「そんなわけあるか。……そうか、うんうん。よかったな、クロエ」

「えー、マジかぁ。クロエさま、とうとう……。あのスケベ男めぇ」

「……何が……もう。朝からどっと疲れたわ」


 どうやら鎌をかけられたらしい。何やら納得したように嬉しそうに微笑みながら何度も頷くアンと、勘違いしたまま悪態をつくハルを見て、これ以上言葉を重ねても悪ノリを助長させるだけだと諦めた。思わず大きな溜息を吐いて昨夜のことを思い出す。


 ずっと一人だと思っていた。信頼できる友人ができて、孤独だった心は慰められていたはずだった。だけど実際は無意識に距離を取ってしまう。感情をなるべく見せないようにしていた。

 見栄だったのかもしれない。下らない自尊心かもしれない。心の中に醜い感情が渦巻いていることを知られて、がっかりされるのが怖かったのかもしれない。

 お母さまのように尊敬されるような人間になりたかった。どう頑張っても届くわけはないのに、人格者ぶりたかったのだろうか、私は。

 背伸びをする代償に、私は心の中に負の感情を溜めていった。そして苦しくなると、いつも一人で感情を処理していた。要するに、一人でしくしく泣いていたのだ。


 エルネストはそんな格好悪い私を見つけて、優しく手を差し伸べてくれた。「一人で泣くな」と言ってくれた。嬉しかった。エルネストは私の卑屈な心を救ってくれたのだ。

 エルネストの前でわんわん泣いて、我に返って恥ずかしくなった。だけどもう手放せない。私の大切な友人。――特別な人。


(友人か……。でもただの友人じゃないわ。もっと特別な……唯一の……)


 心に芽生えた温かな感情に名前を付けるのは躊躇われた。認めるのが怖かった。

 自分が仕向けたとはいえ、婚約者に引導を渡され、可愛げの欠片もない。そんな私が誰かに特別な感情を持っても、きっと相手を幸せにしてあげることなんてできない。

 しかも目的のために、自ら危険に飛び込もうとしている。だから誰のことも縛りたくない。この先、自分の身に何が起こるかも分からないのだから。


 けれど許される時間だけでいい。いつかエルネストに大切な人ができるまででいい。我が儘かもしれないけれど、それまではエルネストの胸を借りたい。飾らないありのままの自分を受け入れてほしい。ふと気付くと、そんな利己的な気持ちが心の中に生まれていた。


  §


「エル、昨夜クロエと会ってたの?」


 マルスはどうやら、夜に俺が部屋から消えたことに気付いていたようだ。なぜクロエと一緒だったことまでばれているのか分からないが、別に隠すことではない。ただ、クロエの気持ちを思えば何をしていたかを言うのは避けたいところだ。


「……ああ。俺の過去を話した」

「ほお。それで、彼女は何だって?」

「驚いてたよ」

「まあ、そうだろうな。……でも、なんだって急に話す気になったんだ?」

「それは……」


 俺は言葉に詰まった。クロエが泣いていたことを言いたくなかった。クロエが知られたくないだろうと思ったから……という理由だけじゃない。俺がクロエの泣き顔をマルスに想像させたくなかったという気持ちが大きい。


「ああ、言いにくかったら無理に言わなくていいよ。むしろあんまり聞きたくないかな」


 マルスが苦笑しながら告げる。聞きたくない――マルスはやはりクロエのことが気になっているのだろう。友人としてだけではなく、一人の女性として。


「……別に疚しいことはしてない」

「そんなの分かってるよ。お前は本気になった女性には、超が付くほどの奥手だろうからな」

「なんで……」


 本気の恋愛感情を持ったことのない俺のことが、どうしてマルスに分かるんだ? 自分でもよく分からないのに。

 今までだって恋愛経験はある。だが確かに、これほどまでに相手を大切だと思ったことはない。これまでに経験した感情とは全く違う。俺の中でクロエは、自分よりも大切だと思える存在になってきている。


「クロエに対するエルの態度を見てたら分かるよ。というか、気付かれてないと思っているのが驚きだよ」

「何のことだ?」

「……ああ、そういうことか。まあいいさ。ゆっくり気付け」


 マルスが肩を竦めて苦笑した。確かにクロエのことを大切に思っている自覚はある。笑顔を曇らせる全てのことから、クロエを守りたいと思っている。だが、これが妹に対するような感情なのか異性に対する愛情なのか分からないのだ。

 分かっているのはマルスや他の男がクロエに触れると、ものすごく不愉快な気持ちになることと、ありのままのクロエを知る人間は俺だけでいいと考えてしまうことだ。

 クロエを理解する人間は多いほうがいいに決まっているのに、俺だけがその立場でいたいという我欲がある。利己的で愚かな思いだと分かっているが、どうにも制御できない。


(友人か……。はっきりと言われたのは結構な衝撃だったな。だが特別な人だとも言ってくれた)


 この利己的な気持ちをクロエにぶつけて傷付けたくはない。今はクロエの心の負担にならないように、望まれたときだけ側にいられればいい。望まれるのが俺だけならば、なおいい。……今はそれでいい。いつか全てが片付いたら……。

 そこまで考えたとき、マルスの言葉で現実に引き戻される。


「それじゃ、そろそろ準備を始めようか」

「ああ、そうだな」


 俺たちは帰国の準備を済ませたあと部屋を出て、クロエたちと落ち合った。クロエは俺の顔を見て嬉しそうに笑った。


(ちょっと待て。勘弁してくれ。可愛すぎる……!)


 これまでとは明らかに違う無垢な微笑みに、俺の心臓は跳ね上がった。俺は締まらない顔になりそうなのを懸命に堪えながら、笑顔で応えた。

 ロクな思い出のないこの国からようやく帝国へと戻れる。俺たちはアンジェリク殿の背中に乗って帝国へと向かうことにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る