六十六、溢れる

 戸惑う私に向かって、エルネストは普段滅多に見ることのない、優しい笑みを浮かべる。


「一人で外出しようとしているのに気付いて追ってきた」

「不可視の魔法をかけてたのに、よく分かったわね」

「俺は鼻が利くし……クロエの匂いは間違えないからな」


 初めて会ったころもそんなことを言っていたけれど、私の体はそんなに匂うのだろうか。少しショックだ。それは兎も角、今は一人でいたい。


「放っておいてくれてよかったのに……」

「そういうわけにはいかない。俺はクロエの護衛だから」

「私は一人でも大丈夫だから、今は……」


 ――どうか一人にしておいてほしい。そう言うつもりだった。けれどエルネストは私の言葉を遮る。


「一人にはしておけない。なぜ一人で泣くんだ」

「っ……!」


 取り繕ったつもりだったけれど、泣いていたのがばれていたみたいだ。私はばつが悪くて瞬間言葉を失ってしまう。


「邪魔したのは悪い……。でも放っておけなかった。きっと君は一人で泣くんだろうと思ってたから」

「エルネスト……」


 嬉しい。――胸の中に生じたのは、自分でも意外な感情だった。誰かに頼ったり、相談したりすることが、私にはできない。だから苦しくなると、いつも一人になって持て余す感情を吐き出していた。

 誰にも気付かれないように気を付けていた。自分から隠れていたくせに、気付いてもらえたことがこんなに嬉しいなんて……。


「私のことで心配をかけてごめんなさい。でも、もう大丈夫だから」

「不器用だな……」

「え……」

「そんなクロエだから放っておけないんだよ」


 不器用――そうなのだろうか。自分では意識したことがなかった。一人でもうまく立ち回ってきたつもりだし、誰にも迷惑などかけていないつもりだ。エルネストの言っている意味がよく分からない。


「そう、かしら……」

「甘えるのが下手で、非情に徹しているつもりで実は情に脆くて、なんでもそつなくこなす癖に自分の感情の処理は下手くそで」


 随分な言い様だ。とはいえ、否定はできない。きっとその通りなのだろうと思うから。

 幼いころは誰も信用できないと思っていたから、心の内を見せたくなかったというのも確かにある。けれどそれ以上に自分の目的のために、周囲を巻き込みたくはなかった。私がやろうとしていたことは、危険なことだと分かっていたから。


「本当は誰よりも優しくて、情に厚くて、他人のために自分を擦り減らす……。そんな子なんだよな、君は」

「そんなことない! 私は自分の目的のために、大切なものを平気で切り捨てる人間よ。私はそんなに優しくしてもらう価値なんてない!」


 思わず強い口調で言葉を吐き捨てて、顔を背けた。私は誰にも理解してほしいなんて思っていない! この孤独も憎しみも、全て私だけのものだ。こんな醜い感情で優しい友人たちを傷付けたくない!


(これ以上私を惑わせないで! どうか私のことは放っておいて!)


 ずっと我慢していた感情が弾けそうになって、張り裂けそうになる胸の苦しみに堪えきれず、エルネストにそう告げよう口を開いた。けれど、私が心の叫びを口にすることは叶わなかった。


(えっ……?)


 次の瞬間、エルネストの腕に包まれた。エルネストが私の後頭部に回した手で自分の胸に私の頬を寄せて告げる。


「クロエ。自分に価値がないなんて言うな。俺たちにとって……俺にとって、君はとても大切な人なんだ。それに平気なんかじゃないだろう? 一人でそんなに傷ついて……」


 そう言うエルネストの声は、まるで何かを堪えるかのように苦しげだった。なぜエルネストがつらそうにしているの? ……私のせい?

 エルネストが私の代わりに悲しんでくれている。――そう感じたことで、私が心の中に築いていた堰は、押し寄せてくる感情にもはや耐えきることができなかった。


「ううっ……!」


 私はエルネストの胸の中で声を殺して泣いた。エルネストの私服の白いシャツは私の涙でぐしょぐしょに濡れた。エルネストはそんな私の頭を、黙って優しく撫でてくれた。

 自分が遠ざけた人たちに冷たくされて悲しくなるなんて、滑稽なことこの上ない。誰かを傷付けるくらいなら、忘れられたほうがましだと思っていた。

 自業自得なのに、それでもどうしようもなく悲しいのだ。愛していた。私は誰も傷つけたくなかったの。こんな私をどうか許して。

 次々と溢れ出てくる矛盾だらけの感情が、涙となって零れ続けた。言葉にはならなかった。ただひたすらに泣いた。それでもエルネストは何も聞かず、ずっと黙って私を包んでくれていた。

 エルネストの胸はとても温かかった。これまでこうして誰かの胸で泣いたことがあっただろうか。物心ついてからは初めてかもしれない。

 三十分ほど泣いて、ようやく涙も止まった。それでも嗚咽が止まらず、目を瞑ったままエルネストの胸を借りて凭れていた。……まるで赤ん坊のように。


「ごめんなさい……」

「気にしなくていい」

「一人で大丈夫なんて偉そうなことを言っておきながら……呆れたでしょう?」

「いや、嬉しかった」


 意外な言葉に驚いて、エルネストの胸に寄せた頬を離して、私を見下ろしている優しい顔を見上げた。


「……どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?」


 不思議だった。私は友人たちにすら一定の距離を置いて接していたはずだ。友人たちが、私との間に壁を感じていても不思議ではないはずなのに、エルネストは私の心の内側にぐっと踏み込んできた。

 拒んでいたはずなのに、全く嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。けれど、なぜわざわざ私なんかに、そんなに面倒臭いことをするのか分からなかった。


「君に名前を呼ばれるだけで嬉しい。君の笑顔を見ると胸が温かくなる。君が気持ちを押し殺していると思うと、胸が苦しくなる」

「……」

「俺にとって君は特別みたいだ。大切にしたいのに、君は放っておいたら一人だけで苦しんで、何でも自分一人で解決しようとする」

「特別……」


 エルネストの言葉がとても大切なことを伝えているような気がした。けれど今の私の心は理解することを拒んでいる。

 エルネストはまるでそれが分かっているかのように苦笑した。私はそんなエルネストの表情を見て、ぎゅっと胸が締め付けられる。


「君を見ていると、まるで……」


 エルネストは一度言葉を飲み込んだあとに、話を続ける。


「まるで自分を見ているみたいだ。一人ぼっちで前を向いて真っ直ぐに立っている。遮るもの全てに抗って、体が傷つくのも構わずに目的に向かって突っ走る。躱すことも身を守ることもしない。ひたすら愚直に、不器用に……」

「……」

「クロエ。一人で苦しまないでほしい。……いや、苦しむのなら、俺に君の痛みを分けてほしいんだ。どんなに格好悪いことでも受け止めるから。もしも話せないなら、せめて一人で泣くな。俺の胸で泣いてくれ」

「どうしてそんなに……」


 そう呟く私の顔を、エルネストは真っ直ぐに見て、ふっと優しく微笑む。


「そうだな……。君の過去を初めてちゃんと聞いたとき……」

「……私がサンドイッチを持っていったとき?」

「うん。あのときにね、決して幸せとはいえない幼少時代を送っていたのに、歪みも澱みもなく真っ直ぐに前を向いて立っている君が、とてつもなく眩しかった」

「そんな立派なものじゃないわ……」

「そんなことはないさ。幼いのに凛と立つ君を想像して、健気だと思った」


 エルネストにお母さまのことを話したことはなかった。アンとハルには話しているけれど、私が祖国を離れた本当の目的を、エルネストは知らない。それでも私に口にできない事情があることを察してくれていたのだろう。これまで何も聞かないでいてくれた。

 エルネストのことを警戒しているわけじゃない。心などとうに許している。話す機会がなかっただけで。だからエルネストには聞いてほしかった。私の全てを。


「……あのね、私の母は幼いころに誰かに毒殺されたの。首謀者が直接手を下したのか、それとも誰かにやらせたのか分からない。だけど私はどうしても母を殺した者を見つけ出したかった」


 幼いころに私の身の上に起こった話を、エルネストに全て打ち明けた。私の目的もだ。

 首謀者を見つけ出したあとにどうしたいのかは、今でも分からない。復讐したいと思ったこともある。どこかでのうのうと生きているであろう、お母さまを殺した者に対する並々ならぬ憎悪が、私の心の奥に深く根付いている。

 どんな形であれお母さまを殺した罪を贖わせたい。そうしないとお母さまの魂が救われない。そんな強い思いだけで、この八年間をなりふり構わず生きてきたのだ。私の抱いている思いを飾らずそのまま告げると、エルネストは私の頭を優しく撫でた。


「そんなに重いことを、幼い君はたった一人で抱え込んできたんだな。……よく頑張ったね」

「っ……! いっ、今はアンとハルがいるから一人じゃないわ。……それにエルネストも、マルスラン殿下もいるし……」

「そうだな……。だけどそう言いながら、苦しいときは一人になるんだよな、クロエは。……なあ、これからは全部俺に吐き出してくれ。言葉にできないなら、気が済むまで泣けばいい。但し俺の側で」

「エルネスト……」


 まるで甘えろと言われているみたいで、戸惑ってしまう。この人はなぜ私の苦しみまで抱え込もうとするのだろう。私のことを自分みたいだと言った。もしかして……


「エルネストも、苦しんだの?」

「そうだな……。君ほどじゃないよ」

「ねえ。エルネストの過去のこと、聞いてもいい?」

「ああ、構わないよ。君は全て話してくれたんだ。断る理由なんてないさ。全て話すよ」

「ありがとう……」

「……これは俺がこの国で殺され損ねる前の話だ」

「黒き、魔女に?」

「……ああ」


 エルネストを殺そうとした女――エルネストはその女を黒き魔女と呼んでいる。エルネストが今でも憎み続けているその魔女はグリモワールの使い手で、私とそっくりな顔をしていたという。かつて聞いたその話を思い出して、苦々しい感情が胸に広がる。

 そんな私に、エルネストはぽつりぽつりと自分の過去を話し始めた。

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