六十五、絶たれた絆

 お父さまとミレーヌが応接室を立ち去ったあと、レオナール王太子殿下と側近たちに暇を告げて部屋を出た。仲間たちが私になんと言葉をかけようかと戸惑っているのが伝わってくる。気を遣わせてしまったみたいで申しわけない。そんな中最初に口を開いたのはマルスラン殿下だ。


「クロエ、大丈夫?」

「ええ、父とのことは国を出るときに決着をつけたことでした。縁を切ったのですから、私がどこへ行こうと父には関係のないことです。ミレーヌには可哀想ですけど、なるべく接触しないように気を付けます」

「クロエ……」


 私はかなり感情を抑えて答えたつもりだけれど、マルスラン殿下が私に向けたのは痛ましげな眼差しだった。憐れまれるとさらに惨めな気持ちになってつらい。

 使用人に案内されて私たちは王宮の出入り口へと向かっていた。そこへ、突然背後から私を呼ぶ声が聞こえてくる。


「クロエ!」


 声のしたほうを振り向くと、そこにいたのは四十才前後くらいのとても美しい女性だった。身なりと立ち居振る舞いを見れば、高位の貴族であることがひと目で分かる。柔らかな蜂蜜色の金髪を高く結い上げ、穏かに細められた緋色の瞳はとても優しそうだ。けれど何よりも彼女はお母さまの顔立ちにとてもよく似ていた。纏う柔らかな雰囲気も同様だ。


「叔母さま……」


 レティシア・カスタニエ侯爵夫人――お母さまの二つ下の妹だ。もう十年近く会っていなかった。最後に会ったのがお母さまの葬儀から一年後に身内で集まって会食をしたときだ。それきり一度も会っていない。

 レティシア叔母さまの纏う穏やかな空気は、昔から少しも変わっていない。髪の色は違うけれどお母さまとよく似た顔と雰囲気を持つ叔母さまに、お母さまを亡くしたばかりの幼かった私の沈みきった心は随分と慰められた。


「クロエ……。本当に久しぶりね。元気だった?」


 透き通った少し低めの声も在りし日の母によく似ている。そんな叔母さまの優しい言葉に、ずっと抑えていた感情が計らずもかき乱されそうになった。ここで涙を見せてさらに心配をかけてしまうわけにはいかない。私は胸の奥に感情をぐっと押し込める。


「ええ、叔母さま。恙なく過ごしております。叔母さまもお元気でしたか?」


 私の答えに、叔母さまは少し安心したかのように表情を緩めた。幼いころもこうして私のことを気にかけて優しくしてくれた。

 そんな叔母さまにも私より二つ下の娘がいる。叔母さまには叔母さまの家族がいる。叔母様はお母さまじゃないのだから甘えてはいけないと、幼いころに何度も自分に言い聞かせた。


「ええ、元気よ。クロエ、貴女のことが心配だったの。私は出席していなかったけれど、あの夜会のことを噂で聞いて……。貴女が気落ちしているのではないかとずっと心配だったのよ」

「叔母さま……。ありがとうございます」


 あの夜会――レオナール殿下に婚約破棄を申し渡された夜会のことだろう。本当は私が意図して婚約解消に仕向けた経緯があるのに、叔母さまにまで心配をかける羽目になって申しわけない。


「いいえ、私は結局何もできなかったわ。貴女に会いたくて、何度かルブラン公爵家に訪問したいとお手紙を出していたの。けれど公爵閣下からはその度に心配ないというお返事をいただいて会いに行けなかったの。何の力にもなれなくてごめんなさい……」

「そんな……! 叔母さまがそんなふうに、遠くからでも私のことを気にかけてくださったのが分かっただけでも……とても嬉しいです」

「そう言ってもらえると、救われるわ……。ねえ、クロエ。公爵閣下とうまくいっていないの?」

「それは……。閣下からは絶縁を言い渡されております。ですから私はもうルブラン公爵家の人間ではありません。叔母さまもどうか私のことは……」

「何を言っているの! 貴女は私の愛するお姉さまの大切な娘なのよ。ルブラン公爵家なんて関係ないわ。クロエは何があっても私の大切な姪なんだから、そんな悲しいこと言わないで!」


 叔母さまが眉根を寄せて悲しそうに緋色の瞳を潤ませる。……お母さまと同じ緋色の瞳――じっと見ていると、まるでお母さまと話しているような錯覚に陥りそうになる。

 叔母さまとはとても仲のよい姉妹だったと、幼いころにお母さまから聞かされていた。それを聞いて、私とミレーヌとは大違いだと子ども心に感じたものだ。いつも一生懸命あとをついてくる叔母さまがとても可愛かったと、お母さまは愛おしそうな目をして語っていた。お母さまもまた、叔母さまを深く愛していたのだろう。その強い絆がとても羨ましかった。

 私をこうして気にかけてくれるけれど、私と関わりを持つことで叔母さまがお父さまに責められることになったら申しわけない。これ以上私のことで周りに迷惑をかけたくはない。でも……


「叔母さま、ありがとうございます。どうしても寂しくなったら会いに伺ってもいいですか?」

「ええ、勿論よ、クロエ! いつでもいらっしゃい。……ああ、お姉さまの大切なクロエ、愛しているわ」

「私も大切に思っています、叔母さま」


 ギュッと抱き締められて、私も叔母さまの背中に腕を回した。温かくてとても落ち着く。そして同時に思い出さずにはいられない。お母さまの温かな腕の中を……。

 マルスラン殿下や仲間を待たせてしまっていたことをふと思い出して、私は叔母さまに暇を告げた。そのうち屋敷を訪問させてもらうと約束した。叔母さまは最後まで優しげな微笑みを私に向けていた。


「お待たせしてごめんなさい。行きましょう」

「構わんよ。……クロエ、お主の周りにもちっとはましな人間がいたんじゃの」


 アンが少しだけ嬉しそうに、微笑みを浮かべながら口を開いた。


「ずっと長い間、会っていなかったのだけれどね。本当に……人が好すぎて心配になるわ。叔母さまは母に雰囲気がよく似ているのよ」

「そうか。儂も少しは安心した。じゃが、ふむ、青か……」

「青?」

「お主の叔母君じゃ。まあグリモワールの血族なのだから不思議ではないな」

「叔母さまは青の書持ちだったのね……」

「お主、知らなかったのか?」

「ええ、血族は身内にもあまり自分の力を見せないから」

「まあ、何にしろ、お主の味方が一人でもいてよかったと思う」

「アン……。心配かけてごめんね」

「水臭いことを言うな」


 私たちはそのまま王宮を出て滞在する宿へと帰った。夜会が予定より早く終わったとはいえ、流石に疲れた。

 その日のうちにアンに乗せてもらって帝都へ帰るつもりだったけれど、今夜は宿に一泊することにした。マルスラン殿下がそのほうがいいだろうと言ってくれたのだ。結局、私は周囲に気を遣わせてばかりだ。


  §


 自室で皆が寝静まったあと、私は一人だけで宿を出た。一度はベッドに横になったけれど、なかなか寝付けなかったのだ。

 頭を冷やすために夜風に当たろうと、こっそり起きてローブを羽織った。気付かれないように不可視の魔法をかけて宿を出たあと、ひと気のない川沿いへと向かった。

 王都の街中を通る小さな川の側まで来て、ゆっくりと瞼を閉じる。頬に当たる夜風が気持ちいい。川沿いにある柵に手を載せて、道端の街灯を映しながら揺らめく水面に視線を向ける。


『私の娘はミレーヌ一人のみでございます。そこの娘は勘当しておりますゆえ、私とは何の関係もございません』

『クロエ、二度と戻らぬようにと申し渡したはずだ。公爵家の敷居を跨ぐことも、ミレーヌや私に近付くことも許さない。今後一切我が家に……グリモワールの血族に関わるな』


 頭の中で何度も繰り返されるお父さまの言葉。――分かっていた。割り切っていたはずなのに、どうしようもなく心が乱れる。地味に装っていたことも、家族と深く関わらないように過ごしてきたことも、全ては自分が意図してやったことだ。それを今さらグダグダと悔やむことに何の意味がある。

 お父さまとて、元々私を嫌っていたわけではないはずだ。それなのにお母さまが亡くなってしばらくしてから、お父さまは変わってしまった。

 私がお母さまを暗殺した首謀者を探そうと躍起になっていることが分かると、お父さまに強く咎められた。「余計なことをするな」と。そのころからお父さまとも使用人たちとも、徐々に距離ができ始めた気がする。


「ふっ、うっ……」


 人のいる所では涙を堪えた。例え心を許した仲間たちの前であっても。私が泣けば、優しい友人たちに心配をかけてしまう。昔からそうだ。私は誰かの前で涙を流すことができない。お父さまの前でも、叔母さまの前でも。

 いくら距離ができようと、私にとっては今やたった一人の親だ。血の繋がった親に愛されていないことを再確認して、胸が締め付けられる。お父さまの気持ちがどうあれ、結局のところ、私はお父さまを愛しているのだ。

 覚悟が足りていないのか。お母さまを殺した者を見極めるために、全てを捨てると決めたではないか。捨てられたように感じたとしても、その実、他人と繋がる糸を自ら断ち切ってきたのだ。責められるべきはお父さまじゃない、自分だ。

 頭では分かっているけれど、心がどうしようもなく軋むのだ。痛くて堪らない。こうして一人になったときに抑え込んでいた気持ちを解放しないと、心がどうにかなってしまいそうだった。

 私が顔を両手で覆ったまま声を殺して涙を流していると、突然背後から声をかけられた。


「クロエ」


 誰にも気付かれずに散歩に出たつもりだった。それなのに……


「エルネスト……。どうして……」


 背後を振り返って声の主を確かめると、そこにいたのは、いつもの氷のごとき冷ややかな雰囲気が完全に鳴りを潜め、ふわりと温かく包み込むような優し気な眼差しを私に向けてくるエルネストの姿だった。

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