六十三、姉妹

 ミレーヌの言葉を聞いて悲しかった。幼いころに見た、庭に打ち捨てられた小さな躯が頭をよぎる。


「人の命を何だと思っているの! 私のことならいくら憎んでも構わないわ。けれど、私の鼻を明かすために関係ない人を利用して、その命を弄ぶなんて絶対に許されないことよ!」

「だって、私は、そうやって、いつも冷静に、取り乱すこともない、お姉さまに、膝を、つかせたかったのだもの……」


 ミレーヌの紫紺の瞳からボロボロと涙が溢れてくる。これは泣き真似じゃない本物の涙だ。嗚咽とともに泣きじゃくる姿は、まるで幼い子どものようだ。けれど今度ばかりはレオナール殿下も側近たちも、ミレーヌを庇おうとする様子はなかった。

 私はそんなミレーヌに何と返していいか分からず、ミレーヌの背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。


「お、姉さま、何を……」

「ミレーヌ。私は幼いころから貴女が羨ましかった。自由奔放で、泣いたり笑ったり怒ったり、感情豊かに振る舞える貴女が。私は理性が邪魔をして感情など出せなかったもの」


 幼いころから、私が感情的になる前にミレーヌが感情を表に出す。その様子を見て、すっと冷静になって気持ちを態度に表すことを控えるようになっていった。

 悲しいことがあっても、私の涙が零れる前にミレーヌがボロボロと涙を零して大泣きし始める。そうすると出そうになっていた涙が引っ込んでしまうのだ。ミレーヌを見て、反射的に泣いちゃいけないとブレーキをかけるようになっていた。

 お母さまが亡くなったときも一番泣いていたのはミレーヌだった。あのときばかりは私も声を殺して泣いたけれど……。


「貴女が私の代わりに怒ったり泣いたりしてくれたから、私は冷静でいられたの。感情よりも先に、考えるようになったの。別にミレーヌのことを蔑んだりしてるわけではなかったのよ」


 流石にこの国に来てからのミレーヌの様子には辟易するものがあったし、以前から蔑まないまでも呆れたり、腫れ物に触るような気持ちだったことは否定できない。だから、絡まれると面倒臭いとか、喋ると喧嘩になるから喋りたくないとか、そういう気持ちがあった。


「だから貴女のことを憎んだりはしてないわ。私たちの性格はこれほど違うんですもの。お互いに苦手だと思うのは仕方がないと思うの。むしろ貴女のことを羨ましいと思っていたわ」


 そんな素直で表情豊かなミレーヌだからこそ、レオナール殿下も惹かれたのだろう。そしてお父さまもきっと……。


「わ、私のこと、嫌いじゃ、ないの……?」

「正直言うと苦手だと思ってはいたけれど、嫌いじゃないわ。……だけどね、ミレーヌ。命を軽んじることだけは絶対に許されないことよ」

「う……、ごめんなさい」


 ミレーヌは幼いころから残虐的な一面のある子だった。長年にわたって染みついた認識を今すぐに変えろと言っても、無理な話なのかもしれない。けれど、だからといってこのままにしてはおけない。少しずつでも理解してほしいのだけれど。


「あの男性も気の毒だったけれど、殿下にもたくさん迷惑をおかけしたでしょう? だから、ね、ミレーヌ。殿下にきちんと謝りましょう。そしてあの男性たちのことをお願いなさい」

「う、わ、分かったわ……」


 ミレーヌは私から体を離して、レオナール殿下のほうを向いた。そして跪いて深々と頭を垂れた。


「レオさ……殿下、ご迷惑をおかけして申しわけございませんでした。二度とこのような勝手な真似はいたしません。……王妃教育も真面目に取り組みますので、どうかお許しください」


 レオナール殿下が驚いたように目を見開く。そんな殿下の気持ちが手に取るように分かって、私も思わず同感だと言いたくなった。このような殊勝なミレーヌを見るのは、生まれてこのかた初めてだからだ。ミレーヌはそのまま言葉を続ける。


「アランもトリスタンも、最後まで私に反対していたのです。それなのに私が無理矢理つきあってもらったのです。どうか彼らへのお咎めはご容赦ください。そして私が傷つけたあの罪人たちにもどうか寛大な処遇を、お願いします……」

「ミレーヌ……。君の言葉、信じていいんだね?」

「信じていただけなくても仕方ありませんけれど、これから信じていただけるように頑張ります……」

「分かった。だがこのような勝手な真似は二度と許さない。くれぐれも肝に銘じるように」

「承知しました」


 肩を落として項垂れたミレーヌに向けて、レオナール殿下がこの上ないほどに優しい笑顔を浮かべた。そのあとに真剣な表情を浮かべて私の前に近付き、すっと跪いて頭を垂れた。レオナール殿下の予想外の行動に驚いてしまう。


「クロエ嬢、この度のこと、そしてあの日の夜会のこと、改めて謝罪させてほしい。本当に申しわけなかった」

「殿下……」

「貴女の行動を見て、自分がなんと短慮で愚かな思考と行動をしていたか痛感したよ。あんなに酷いことをした我々に対しても、貴女は慈悲深く手を差し伸べてくれた。本当に助かった。感謝する」


 レオナール殿下の様子を見ていたアランとトリスタンの二人が慌てて殿下の横に跪いた。殿下よりもさらに頭を低くして声を絞り出す。


「クロエ嬢、貴方を傷付けるようなことをして、本当に申しわけありませんでした」

「私も女性に対してあのような乱暴なことを……。申しわけありませんでした」


 この二人に関しては、正直なところ一発ずつ殴りたい気持ちがなくもない。


「あら、あのとき、お二人はそれが正義だと思ってらっしゃったのでしょう?」

「それはっ……!」

「っ……!」


 私に対して暴力を振るったからという理由だけではない。認識事態を改めないとまた同じようなことをしかねない。


「たとえば私が男性で、本当の悪人だとして……」


 どう説明したら理解してもらえるか、私は少し考えたあとに言葉を続ける。


「ミレーヌを虐めたとしても、貴方たちはあのときにしたことを謝罪できますか?」

「それは……」

「……」


 やはり何が悪かったのか、根本からは理解できていないのか。


「例え罪人でも、公人がきちんとした手続きも踏まずに、衆人環視の中、私刑リンチのような真似をするということがどういうことかご理解できますか?」

「「……」」

「先ほどミレーヌに手をあげた私が言うのもなんですが、感情に任せて他人を力で捻じ伏せるのは暴力です。将来を担う王の側近となられる方々が、他人に暴力を振るうなどあってはならないことだと思います。たとえ相手が平民や罪人であろうと、です」

「理解、しました」

「反省します」

「そして殿下、恐れながら国民として意見を申し上げます。僅かな証言を確たる証拠と断定なさるのは危険です。今後は専門家の立会いのもと証拠の精査を済ませたのち、然るベき機関において、被疑者の罪と刑を確定されるのがよろしいかと存じます」

「……ああ、肝に銘じる。極めて浅慮な愚行だったと心から恥じている。二度とこのようなことは行わないと約束しよう。クロエ嬢にはつらい思いをさせて本当に申しわけなかった」


 レオナール殿下は真摯な面持ちで頷いた。理解してもらえればそれでいい。冤罪など多くの不幸を生み出しかねないのだから。

 私たちの会話を聞いていたリオネルが、ほんの少し口角を上げた。そういえば帝国に使者として訪れたリオネルに、同じようなことを告げたのを思い出す。帰国してからリオネルなりにこの国の行く末を心配していたのだろう。


「ではお立ちになって」


 私の言葉で殿下とアランとトリスタンの三人が一緒に立ち上がった。


「好きにやってくれ!」

「どうぞお好きに!」

「思い切りやってください!」


 レオナール殿下、アラン、トリスタンが立ち上がってすぐに声をあげた。何だろうこの人たちは。揃いも揃って目を瞑って歯を食いしばっている。ミレーヌと同じように引っ叩かれたいのだろうか。

 マルスラン殿下がなにやら楽しそうに私たちの様子をニマニマと眺めている。しかもマルスラン殿下の後ろに控えていたエルネストが、嬉々として一歩足を踏み出した。今日初めて見た笑顔かもしれない。

 いやいや、何をするつもりなのか。今にも拳を振り上げそうなエルネストを、私は静かに目で制止した。私の視線を受けたエルネストがつまらなそうな表情を浮かべて一歩下がる。まったく、油断も隙もない。


「私はもう手をあげたりはしません! 本当はミレーヌを叩いたことも後悔してるんですから……」

「しかしそれでは我々の気が……」

「それはご自分たちの罪悪感を私で解消したいだけでしょう。迷惑なので、ご自分たちの気持ちはご自分たちで解決なさって。なんなら今後ずっとその罪悪感を抱えたまま生きていってください。絶対に手をあげたりはしませんからね」

「そうか……。そうだな、すまなかった」


 レオナール殿下が申しわけなさそうに答えた。謝罪の様子を終始見守っていたリオネルは、心から安堵しているといった様子で薄く微笑んでいる。

 皆が安堵の表情を浮かべる中、トリスタンだけがやたらと残念そうな顔をしている。殴られたかったのだろうか……。うん、今のは見なかったことにしよう。私は首を軽く左右に振って溜息を吐いた。

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