六十二、ミレーヌの気持ち

 黒の書を取り出した私に、もう迷いはなかった。ここまでやったら後には引けない。今は目の前の男性の命を繋ぎ留めなくてはならない。

 私はミレーヌの側に近付いて、その手を握って高く掲げ、男性たちを包むように治癒魔法を施した。繋いだ手から溢れ出る柔らかな白い光が男性たちを包み、出血していた傷が見る見るうちに消えていく。特に酷い傷を負った男性の出血も止まったようだ。

 若干顔色が青白くなって意識が朦朧としているものの、男性の命に別状がなさそうなのを見て心から安堵した。ただ出血が多かったのできちんと休ませなければいけない。私は兵士たちに念を押しながら指示を出す。


「彼らに適切な処置を。きちんと体力を回復させないと、彼の容体が危険なことには変わりありませんからね」


 兵士たちは迷うようにレオナール殿下の顔を見て指示を仰ぐ。レオナール殿下は兵士たちに傷ついた男たちを運ぶよう冷静に指示を出した。

 会場の貴族たちのざわめきが止まらない。何か恐ろしいものを見せられたような怯えた様子だ。私は未だ呆然と立ち尽くすミレーヌを尻目に、レオナール殿下をちらりと見た。レオナール殿下は私のほうを見て不安げな顔をしている。

 この騒ぎを収めるにはこうするしかない。そのためにミレーヌの手を握って治癒魔法を施したのだ。私は声を上げた。


「会場の皆さま、絶対的な力だと一般的に信じられているグリモワールの力も、たった一人ではこれほどまでに不安定な力です。そのことをミレーヌさまは身をもって証明してくださったのです。けれど、こうして力を合わせることによって危機を乗り切ることができました。ミレーヌさまはグリモワールの力のみに頼り切ることが、いかに危険かということをお伝えしたかったのです」


 私は先ほど繋いだミレーヌの手を、未だ放していない。ミレーヌはそのままぽかんと私の顔を眺めていた。一体何を言っているのだろうといった表情だ。ここは上手く合わせてほしいのだけれど。


「グリモワールの血族はこうしてお互いを支え合ってこそ力を行使できるのです。これからは王太子殿下がミレーヌさまを支えられます。ミレーヌさまもまた王太子殿下を支えられるでしょう。どうかお二人に末永き幸せのあらんことを心よりお祈り申し上げます」

「おおっ」

「そういうことだったのか……」

「一時はどうなることかと思いましたわ」


 会場のあちらこちらから、感嘆の声や未だ不安の拭えない声が聞こえてきた。特にこの会場に来ている貴族は、あの婚約破棄の夜会で私が糾弾されている現場を見ている者も多いだろう。釈然としない気持ちを抱えている貴族は案外多いかもしれない。

 かなり無理な纏め方をしてしまった自覚はある。全ての貴族に対しては無理かもしれないけれど、ある程度の体裁は整えられたのではないだろうか。

 これ以上は私の知ったことではない。これは私の力を目立たせないため――私自身を守るための防衛線でもあるのだから。

 私に手を握られているミレーヌの体が小さく震えていることが分かった。ちらりと様子を窺えば、何やら興奮しているようだ。どうやら我慢ならないといった様子だ。

 このままだとまた要らぬことを口走りそうだ。こうして事態を収束させたのに再びかき回されては堪らない。怒りに震えている様子のミレーヌに、小声で囁く。


「ミレーヌ、今は我慢なさい。正妃になりたいのでしょう? あとで話しましょう」

「っ……!」


 そんな私たちの様子を見守っていたレオナール殿下が、声を上げた。


「少し時間には早いが、私たちはそろそろ会場を下がらせてもらう。我が婚約者の気分がすぐれないようだ。どうか皆はそのまま引き続きゆっくりと楽しんでくれ」


 照明が戻されて、会場の様子が再び明るい雰囲気を取り戻した。それを見てレオナール殿下が安堵したように溜息を吐き、ミレーヌと自らの側近たちとともに別室へと下がる旨を伝えてきた。そして私にも一緒に来てくれないかと声がかけられた。

 一部始終を見ていたマルスラン殿下をはじめとした帝国の仲間たちが、自分たちも同行することを要請した。レオナール殿下が仲間たちの同伴を受け入れて、皆で別室へと移動することになった。


  §


 応接室に案内されてテーブルの側の椅子に座らされたあと、レオナール殿下は立ったまま詰問を始めた。私はミレーヌが反省していることを願いつつ、その様子を黙って見守ることにした。帝国の仲間たちはというと、皆一様に冷然とした様子でレオナール殿下たちを眺めている。


「さて……。一体どういうことか説明してもらおうか」


 レオナール殿下の前で立ったまま項垂れているのはミレーヌ、アラン、トリスタンの三人だ。リオネルは私たちと同じように冷然と様子を見守っている。恐らく今回の企みを何も知らされていなかったのだろう。

 そして主導したのは明らかにミレーヌだと予想される。アランとトリスタンの二人は恐らく無理矢理付き合わされたのだろう。そんな中、ミレーヌがしゅんと肩を落としたまま口を開く。


「グリモワールの力を示さないと、王太子妃として納得してもらえないと思ったんです……」

「グリモワールの力は言葉で説明するだけで済んだだろう。あんな悪趣味な見世物をする必要などない!」


 レオナール殿下がミレーヌに対して声を荒げているのを見たのは初めてかもしれない。


「殿下、ミレーヌ嬢はこんなことになるとは思っていなかったんだと」

「アラン、お前には聞いていない。そもそも俺の側近のお前たちが、俺に何の報告もせずに密かにミレーヌを手伝うとはどういうことだ」

「申しわけ、ございません……」

「申しわけございません」


 アランとトリスタンは謝罪を口にしたあと、言葉を失ったように口を噤んだ。


「私がお姉さまよりも王太子妃に相応しいんだって、皆に知ってもらいたかったんです!」


 レオナール殿下にそう訴えたあと、こちらを向いてキッと私を睨みつけた。


「こんな、余計なことをして、また私を蔑んでっ。どうせ私のことをいい気味だと思ってるんでしょう! お姉さまみたいな、人形のような冷血女、いくら綺麗に着飾ってもつまらない女に変わりないんだから!」


 ミレーヌは激昂して私に向かって叫び始めた。その様子を見たレオナール殿下が驚いたように目を見開いてミレーヌを咎める。


「ミレーヌ! 君という子は……。クロエ嬢がいたから事なきを得たんだぞ。罪人とはいえ一歩間違えば私刑のような形で大勢の貴族の前で人の命を奪うところだった。クロエ嬢はあの夜会の夜、あんなことをした我々のために、一刻を争う危険な状況を救ってくれたんだ。おまけに我々の顔も潰さないでいてくれた。君にはそれが分からないのか!」

「分かりません! 分からないわよっ! こうして何の感情もない顔で私を見てるけど、きっと心の中では私を嘲笑っているのよ。昔からそうだったわ」


 ミレーヌはテーブルの向かいに座っていた私のほうへ近付いてきた。エルネストとアンとハルの三人が椅子から立ち上がってミレーヌの動きを警戒する。


「お姉さまはいつもそう! お母さまに似て美人で頭がよくて冷静で、いつも私を下に見て蔑んでたのよ。知ってるんだから! ずっと私のことを馬鹿にしてたって!」

「ミレーヌ……。私は貴女のことを蔑んでなんかいなかったわ」

「嘘よ! だから私は、お姉さまなんかより私のほうが優れてるって、皆に見せたかったのよ!」

「そんなことのためにあんな酷いことをしたの……? あの男性はひとつ間違えば死んでいたかもしれないのよ?」

「死なせるつもりなんてなかったもの! あとでちゃんと治癒するつもりだったし! それにどうせ罪人でしょう。もし仮に死んだって何の損失も」


 ――パンッ


 私は無意識のうちに立ち上がって右手でミレーヌの頬を叩いていた。ミレーヌが赤く染まっていく左頬を片手で押さえながら、驚いたように目を丸くしながら私を見た。

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