五十六、婚約披露パーティに向けて
ブランの町から戻って数日経ったころ、ハルの体調は完全に戻っていた。皇宮で与えられている私室のソファに座りながら、ハルが明るく笑う。
「魔力はとうに戻っていたんですけどね? 横になってると甘いものが次々と差し入れされるもんですからつい……。お陰でちょっと太っちゃいましたよ。ハハハ」
幻獣も太るのか……。これも黒の書に記載しておこう。それにしてもすっかり明るさを取り戻したハルの笑顔に未だ引きずったままの後味の悪い気持ちが癒される。あの戦いで町の人の命は失わずにすんだけれど、ベルゼビュートの直轄の眷属となった二人を救うことはできなかったから……。
「たまにはいいんじゃない? ハルはいつも家事を頑張ってくれてるんだから、少しは骨休めになったでしょう」
「家事はアタシの趣味のようなものなんで別にいいんですけどね。それよりもうすぐですよね、婚約披露パーティ」
「うん……」
正直気が重い。あの婚約破棄の夜会の夜、二度と城には来ないつもりで会場をあとにした。レオナール殿下や側近たち、それにミレーヌに会うことはもうないと思っていたのに……。
「そんなに気が進まないなら、今からでもマルスラン殿下にお断りを入れたらどうです?」
「そんなわけにはいかないわ。だって私に同伴を頼んできたとき、殿下の目がすっごく目がキラキラしてたもの。楽しみで仕方ないっていうふうだったし……」
「まあアタシも今のクロエさまを見せつけて、ブリュノワの奴らが地団太踏んで悔しがるところを見たいですけどね」
真っ黒な笑みとともに告げられたハルの言葉を聞いて、ハルのために差し入れられたケーキのお裾分けに一心不乱に齧りついていたアンが、口の周りにクリームを付けたまま口を挟む。アンの瞳も悪戯をしたくて堪らない子供のようにキラキラと輝いている。
「それは儂も見たい。儂らもブリュノワに行っていいのじゃろう?」
「それは構わないと思うけれど、アンはキレて竜化して城を燃やさないようにしてね」
「……善処する。それにしてもお主がそこまで心配するほど、ブリュノワの貴族はアレなのか?」
「うーん。全ての貴族を把握しているわけではないけれど、王族とその周辺の貴族は、あまりお近付きになりたくない感じね」
幼いころお母さまが毒殺された経緯を調べていたときも、我関せずの態度をとって協力してくれない貴族ばかりだったことを思い出す。
「ふむ、そうなのか」
「ええ。レオナール殿下の婚約者として王侯貴族の中に紛れていたときに、貴族の汚職とか重臣たちの思惑とかが段々と見えてきて……。それでこんな国に利用されるのは嫌だなって考えるようになったの」
「幼い身でそれを実感するとはお主も難儀よのう」
「いいのよ。今は幸せだもの。ハルとアンがいるし、毎日が楽しい」
「エル蔵もマルスラン殿下もおるしのう。のう、エル蔵」
「っ……!」
ハルのお裾分けのパイに齧りついていたエルネストが突然話を振られて固まってしまった。ハルが寝ているときに山のように差し入れられた甘いものがあまりにも多くて、三人だけでは食べきれなかったので、エルネストにも来てもらっていたのだ。
「マルスラン殿下はともかく、これから先は俺が君を守る」
「エルネストは帝国の騎士なんだから、守る対象が違うでしょう」
「……とりあえず婚約披露パーティに同行するときは、絶対に彼の国の者に君を害させたりはしないよ」
「ありがとう、エルネスト。頼りにしてるわ」
私がそう言うと、エルネストは嬉しそうに頷いた。そして小さく溜息を吐いて話を続ける。
「君が着飾ってパーティに出席なんかしたら、きっと注目されてしまうんだろうな」
「それはどうかしら。美しいご令嬢はたくさんいるもの」
「いや、君は自分のことをよく分かっていない。君はただ外見が美しいだけじゃない。君の眼差し、雰囲気、声、兎に角何もかもが人を惹きつけるんだ。その魅力に寄ってくる害虫は片っ端から排除しないと」
エルネストが何やら物騒なことを呟いているけれど、エルネストが言っているのはただの身内びいきだ。それに当日はパーティの主役であるミレーヌは気合を入れて着飾るだろう。性格は兎も角、見た目だけは一級品の妹だ。そんなミレーヌがいる限り、私なんて霞んでしまうだろう。エルネストの心配は、取り越し苦労に過ぎないと思う。
「そんなの無駄な取り越し苦労よ。心配しなくても注目なんてされないわ」
「いや、そんなことはない。マルスの張り切りようを見ていると、君の妹が霞むくらいに君を着飾らせようとするに決まっている。……もしかしたらマルスの婚約者候補と思う者もいるかもしれない」
「確かにそんな人もいるかもしれないかもしれないわね……」
「だが君はあくまでマルスの
殿下がそう言っていたのはちゃんと覚えている。今さらそんなに強調しなくても大丈夫なのに。それにそんな分不相応なことを私が考えるとでも思っているのだろうか。
「分かってるわよ。そもそも私がマルスラン殿下の婚約者になんてなるわけないじゃない。身分違いも甚だしいし」
「……じゃあ君は、身分の問題がなければマルスの婚約者になってもいいと?」
「それは」
「いいっ! 答えなくてもいい」
エルネストは自分で尋ねておいて、私の答えを強く制止した。本当にエルネストはどうしたんだろう。変な人。
「マルスは君にとってただの
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エルネストが満足げに笑みを浮かべて頷いたあと、パイの残りに手を付けた。マルスラン殿下と何を張り合っているのだろう。本当に変なエルネスト……。
あと二週間後にはブリュノワ王国へ戻らなくてはいけない。かなり気が重いけれど、私の気持ちに反して、マルスラン殿下をはじめとしてアンやハルまでが心なしかワクワクしているように見える。……気楽で本当に羨ましい。
私はその夜、パーティの夜に着るドレスを仕立てるために侍女に採寸をされたり艶やかな生地を当てられたりしながら、もう何度目になるか分からない溜息を吐いたのだった。
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