第四章 ブリュノワ王国
五十五、リオネルの帰国(レオナール視点)
リオネルがブリュノワ王国に戻って来て三日が経つ。帝国に使者として出立する前はあれほど俺とミレーヌの婚約を祝福していたのに、戻ってきたあとはこれまでにはなかった距離のようなものを言葉の端々に感じる。
以前はミレーヌを手放しで誉めそやし、信者のごとく常に付き従っていたというのに。今さらミレーヌと婚約する俺に対して嫉妬をしているのじゃあるまいな。俺の執務室で仕事の補佐をしながら何やら考え込んでいる様子のリオネルに声をかける。
「リオネル、マルスラン皇太子殿下は招待に応じてくれたのだろう? 何がそんなに気に入らないんだ?」
「気に入らないことなど何もございません、レオナール殿下。マルスラン皇太子殿下は快く出席に応じてくださいました。ただ出席に際してご令嬢を一人同伴されるとのことです」
「ほう? お前、そのご令嬢とやらに会ったのか?」
「はい、遠くから少しだけお見かけしました。目が覚めるほどに美しいご令嬢でした。帝国一の美女ではないかと思うほどに」
「そんなにか! それは楽しみだな」
帝国のマルスラン皇太子は大層な美丈夫と聞いていたが、同伴する美女も一流なのか。俺とミレーヌには及ばないだろうが、その美女にはぜひ会ってみたいものだ。
「……ミレーヌ嬢に怒られますよ」
「美しい女が嫌いな男などいないだろう。しかし羨ましいな。マルスラン皇太子殿下にはまだお会いしたことはないが、その美女は彼の婚約者か何かか?」
「いえ、そのような話はお聞きしていません」
「そうか。まだ婚約しているわけではないのか」
「レオナール殿下……」
リオネルが俺を諫めるように眉根を寄せた。リオネルという男はくそ真面目というか融通が効かないというか、冗談が通じないときがある。まあ今のはあながち冗談でもないんだが。
その美女とあわよくば距離を縮めたいという気持ちがないわけではない。ミレーヌの前でそんな意図を匂わせようものなら口を利いてもらえなくなるから気を付けないといけないがな。
「ああ、冗談だ。怖い顔をするな。今のはミレーヌには言うなよ。しかし美男美女か。だが美しさでいえばミレーヌに敵う者はいないだろうな」
「……左様でございますね」
「それにしてもあの女は今どうしているだろうな」
「あの女、といいますと?」
「クロエだよ。婚約者だったときに醜女なら醜女らしく、もう少し可愛げでもあれば俺も少しは可愛がってやったのに。あの女と来たら無表情で不愛想で地味でいいところなど一つもなかったんだよな」
「……そうですね」
まただ。リオネルはクロエの話をすると途端に表情を曇らせる。一緒になって散々罵っただろうに、いまさら何を取り繕おうとしているのか。だが俺は気付かぬふりをして話を続ける。
「それに比べてミレーヌは多少礼儀知らずなところはあるが、可愛く甘えてくるのを見ると何でもしてやりたくなるんだよな。心も天使のように清らかで、あの無能な冷血女と血の繋がりがあるのが信じられないよ」
クロエはあの婚約破棄を申し渡した夜会のときですら、ほとんど取り乱すようなことはなかった。ほとんど交流がなかったとはいえ長年婚約者同士だったのだ。涙のひとしずくでも流すと思っていたのだが、とうとう最後まで表情を崩すことはなかった。アランとトリスタンの与えた痛みに僅かに表情を歪ませただけだ。本当に可愛げのない女だ。
「殿下、仮にも元婚約者のご令嬢をあまり悪く仰るのは……」
「お前だって無能だと言っていたじゃないか」
「……はい。それについてはいささか反省しております」
反省? 一体リオネルは帝国で何を見てきた。リオネルの身に何があったというのだ。
「お前、帝国から戻って来てから少しおかしいぞ。何があった?」
「何もございません。ただ帝国の現在のありさまを見て、自分の至らぬ点が多々見えてきただけでございます。お気に障ったのでしたら申しわけありません」
「リオネル……」
リオネルは何かを隠している。一体何を隠しているのだ。
「殿下はミレーヌ嬢を愛していらっしゃるのでしょう?」
「ああ、もちろんだ。見た目は勿論だが、心も清らかで、おまけに強力なグリモワールの使い手だ。非の打ちどころがない完璧な令嬢で、王太子である俺の婚約者に相応しい。クロエとは雲泥の差だよ。あの冷血女との婚約を破棄をしてよかったと思わない日はないくらいにな」
「そうですか」
リオネルは冷然と答えた。是とも否ともいえない全くの無表情だ。これではまるであの女みたいじゃないか。
本当に変な奴だ。良心の呵責からなのか、クロエを悪しざまに言えば、妙に庇うような発言をしたりする。実はミレーヌよりもあの女のほうが好みだったとか言わないよな。リオネルがあの女を好きなら、もう少し早く言えば上手く仲を取り持ってやったのに。
(あと少しで婚約披露パーティか)
もうすぐミレーヌが手に入る。ミレーヌの優しさはときに罪だ。俺だけに向けられるのならばまだいいが、他の男にも惜しげなく向けられる。
そういえば幼いころに一度ルブラン公爵邸に遊びに行ったことがある。まだクロエとの婚約が決まる前だから、六才か七才のころだろうか。
あのときはミレーヌの母であるルブラン公爵夫人はまだ存命で、エントランスでとても美しい女性が出迎えてくれたのを覚えている。銀の髪に緋色の瞳の美女だった。
今のミレーヌも美しいが、あのときに見た公爵夫人の美しさは神秘的というか浮世離れしているというか、人間というよりは神か妖精かといった近寄りがたいものだった記憶がある。
(そういえばあの少女は一体誰だったんだろうか)
あのとき夫人に寄り添うように立っていた少女をずっとミレーヌだと思い込んでいたが、あの少女は髪と瞳の色、そして顔立ちまでもが夫人にそっくりだったような気がする。
ミレーヌは美しいが、髪と瞳の色は違うし、顔立ちも夫人とは似ていない。ミレーヌじゃないとすると、あの少女はクロエだったのか? いや、そんなはずはない。髪は夫人と同じ銀色だが、目は小さく茶色で夫人とは似ても似つかない。
俺は夫人の横で恥ずかしそうにドレスを掴んでいるその幼い少女を見て、あのとき初めて胸が高鳴ったのを覚えている。幼い少女なのに可愛らしいというよりはうっとりと見惚れるほどに美しかった。夫人と同じ空気を纏っていた。清廉で神秘的で幻想的で……。
だがルブランの姉妹はクロエとミレーヌだけだ。きっとあれはミレーヌだったのだ。髪の色や瞳の色は俺の記憶違いだったのだろう。
§
「最近のリオネルは、なんかおかしいよねぇ」
なぜか執務室のソファで雑談を始めた、俺の側近で魔道士であるアランが肩まで伸ばした薄茶色の癖毛を指で弄りながら呟いた。やはりアランも俺と同じようにリオネルの変化に気付いていたらしい。
「そうか? 俺にはいつものくそ真面目な男にしか見えないが」
アランの言葉に騎士のトリスタンが反論した。リオネルがくそ真面目ならトリスタンはくそ鈍い男だ。
「トリスタンは鈍いから気付かないだけだよ。リオネルったら、殿下とミレーヌ嬢の婚約が決まってからもずっと近くにいたのにさ。最近は一人でなんかこそこそ調べ物してるみたい」
「そうだったのか。気付かなかった」
「君ってほんっと鈍いよね。どうやらリオネルはルブラン公爵家のことを調べてるみたいなんだよね」
「そんなのミレーヌ嬢に聞けば済む話じゃないか」
「そうしないから怪しいって言ってるの。もしかしたら帝国でなんかあったんじゃないかと思うんだよね」
「そうか?」
「……」
俺は二人の話をずっと黙って聞いていた。アランの言っていたことは俺が感じていたことと概ね同じだった。だがリオネルがルブラン公爵家のことを調べていたのは知らなかった。
もしかして不正の事実でもあったのか? もしそんなものがあってもミレーヌの実家の不祥事なら俺が揉み消すが。
それともやはりクロエのことでも調べていたのかもしれない。そういえばクロエは今どこにいるんだ。公爵家を追放になったとは聞いていた。だがそのあとの行方を把握していない。
元々無気力な女だ。俺たちを恨んで王家に反旗を翻すとも思えない。だから放置しておいたんだが……。
「クロエの行方は誰も知らないのか?」
「僕は知りませんね。トリスタンは何か知ってる?」
「いや、私も存じ上げませんね。この国にはいないんじゃないですか? どこかで野垂れ死にしてるんじゃないですかね」
「……」
「どうしたんです? 殿下」
「いや……」
別にあの女がどうなろうと知ったことではない。元婚約者といっても何の交流もなかったし、いないものとして扱っていた。だが命まで奪おうとは思っていなかった。まさか本当に野垂れ死にしているのではないだろうな。
「ねえねえ、何のお話?」
「ミレーヌ」
「「ミレーヌ嬢!」」
ミレーヌが来て俺の思考は遮られた。別にクロエがどうなろうと構わない。俺には愛するミレーヌさえいてくれればいいのだ。俺の隣に座るミレーヌの肩を抱き寄せて耳元で優しく囁く。
「どうした? 妃教育はもういいのか?」
「あんなのもううんざり! 私、頭を使わなくても笑顔があれば大概のことは乗り切れると思うのよね」
悪びれない笑顔が可愛い。可愛いのだが、一応妃教育は真面目に受けてくれないと宰相が煩いんだがな。最初のころは只管その天真爛漫さが可愛かった。だが最近はたまに――本当にたまにだがイラッとするときがある。
「ミレーヌ。俺の妃になるなら妃教育は真面目に受けてほしいんだがな」
「私がカチコチの堅苦しい女になってもいいの、レオさま?」
「それとこれとは別の話だ」
「……レオさま、最近冷たいのね。私、マリッジブルーなのに……」
「そ、そうなのか?」
「ええ……。あんまり冷たいと私泣いちゃうんだから」
「そうか、ミレーヌ、すまない」
こうして今日も釈然としない気持ちが胸の片隅に溜まっていく。可愛いから全てを許したい。そう思う一方で、俺だって王としての教育を真面目に受けているのにと不満に思う気持ちがある。父上のように傀儡の王などと言われないために。
だがミレーヌの言葉はそんな俺の努力をも否定する言葉だ。ミレーヌは努力をする俺をも堅苦しい男と嘲笑うのだろうか。
クロエ――そういえばあの女は妃教育だけは毎日真面目に受けていたようだった。それに学園に入る前の幼いころ、俺が教師に褒められたことを聞いたときには、自分のことのように喜んでくれていた気がする。いまさらどうでもいいことだが。
ミレーヌとの婚約に関してはなんの後悔もないはずだった。ほんの僅かな不満が胸の奥に少しずつ積もっていっていることに気付き始めていたが、このときは些細な不満などミレーヌを愛する気持ちで打ち消すことができると思っていた。
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